月の裏側

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大さに

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 大包平が天守六階に足を踏み入れた時、城の主は格子窓に向かって月を眺めているところであった。夜空にポッカリと浮かぶ今宵の月は皓々として明るく、いっそ眩しいほどである。月光は城主の細面を照らし、その身体を透かして東西七間、南北五間の床に格子の影を濃く太く伸ばしていた。姫路の城は窓が大きいから、廻縁をぐるりと囲む四方の板戸をこのようにすべて開け放てば、天守最上階の間は昼が如くに照らし出されて、まるで雲上に浮かぶ天女の住まいにも見える。
「姫、今少しよろしいか」
 まだ片足を階段に残したまま、大包平は城主へと声をかけた。金の打ち掛け、銀の帯。玉の簪、貝の櫛。流れる黒髪は闇よりも黒く、チラリと見える首筋は雪よりも更に白い。後ろ姿のみでも察せられる天上の美貌。とてもではないがこの世の者とは思われぬ。そんな女が、人気のない天守にひとり、佇んでいる。真実、この女は人ではなく、姫路の城の主を称する齢数百を重ねた妖であった。
 人の世ではこの城は駿府の大殿から大包平の主が関ヶ原の恩賞として、西方の諸大名家への睨みとして、貰い受けた城と言われているが、妖の世ではそうではない。人の住み着くずっと前から力有るものも無いものも、あらゆるものたちが土地に生まれ、流れ着き、そうして暮らしてきたのである。そこへ後から来た人が、勝手にここは俺の土地だの、家屋敷を建てるの、畑にするのと言い出すのだ。それはこの土地に限らず、日の本すべてにおいて言えることで、元より大包平自身も妖怪変化の類いであれば、長く土地にある妖を軽視せぬぐらいの心得のひとつやふたつは持ち合わせている。そういった者等が己の主を城主と認めぬからといって、別段腹を立てるようなこともない。然もあるべしと思うからだ。そも、只の刀である大包平は自身の意思で物を斬るということがない。いつでもそれは、握る人間の意思によってである。
「包平殿か」
 傾城たる美女、名を刑部と称する姫君姿の妖は、ゆるりとその華奢な首を傾け頭を巡らすと、にんまりと獣めいた笑みを浮かべた。
「上がって来りゃれ。今夜はほんに良い月じゃ」
 笑えば途端に、人でも喰ったような赤い唇が耳まで裂けて、鋭い牙が夜闇に光る。たちまち見るも恐ろしい姿へと変貌したかつての美女を前にして、大包平は顔色ひとつ変えず、失礼する、と残りの段を上がって姫の前へと歩を進めた。
「さて、何の御用じゃな」
 格子戸を背にして胡座をかく刑部姫から人一人分距離を置き、大包平もまた臙脂色の直垂の袖を払って胡座をかく。そうして、きっと刑部姫の面を見つめると、にわかに膝の前の床に両の拳をついて頭を下げた。
「本日は、御暇乞いを申し上げに参った次第」
「なんと、随分急な話よな」
「御前に伺うのが遅くなり申し訳ない」
 彼等の間に、主従の関係はないが、それでもこの世にある歳月、力の有無から言えば、刑部姫は大包平にとって、居候先の主人の様なものだった。出ていくとなれば黙って去って良い筈がない。その為こうして久方ぶりに天守を訪れたわけではあるが、自身も気にしていた伺候の遅さをチクリと指摘され、ますます頭を深く下げる。そんな大包平の姿に、良い良い、と刑部姫がころりと機嫌を直して袖を振った。
「しかし何故の事。江戸に奉公にでも行かれるか」
 其方は誠に得難い名刀だもの、と刑部姫が扇の陰で笑い声を立てるのを聞いて、大包平は苦笑するほかない。名工包平の太刀としてこの世に生まれ出で四百年余りを過ごしてきたが、この身がその姿形に相応しい称賛を浴びるようになったのは、ほんの数十年ばかりのことに過ぎなかった。己を誇る気持ちより、今はまだ戸惑いの方が大きい。
「いや、この度は、主家が因幡鳥取へ転封となったのだ。刀の身なれば付き従うのみのこと」
「転封とな。またどうして」
「姫路四十二万石を七つの子には任せておけぬと」
 ふうん、刑部姫は分かったのか分からぬのか、判然としない声を漏らして、
「ほんに不思議なことを申すものじゃ。七つも百もそう変わらぬだろうに」
 そう、独りごつように呟いた。
「しかし、因幡とな。遠いのう」
「姫とこうして言葉を交わすのもこれっきりかもしれんな」
 殊更明るく大包平が言えば、何の、とまた刑部姫も明るく返す。
「人の身にはあらぬ、我等の如き仮生の身ならば、百も二百も瞬く間。生きていさえすれば、また会うことも夢ではあるまい」
「それはそうだ」
「姫路の城が天守は、我が目の黒いうちは落としはさせぬ。機会があればいつでも戻りやれ」
 それとも因幡になぞ行かず、我と天守で暮らすかえ。扇の陰から刑部姫が流し目を送れば、大包平は憮然として、お言葉は有り難いが、と姿勢を正す。
「刀の忠義だ。自ら主人より離れる訳にはいかん」
「なんじゃ、詰まらぬ。釣れないったら」
 口では詰るようなことを言いながら、刑部姫がケラケラ笑った。
「寂しゅうなるのう」
「また直ぐに、新しい人間が城に入る。それまでの辛抱だ」
「人間は嫌いだもの」
 そう吐き捨てるように言うと、刑部姫はすっくと立ち上がり、打ち掛けを翻しながら窓辺に顔を寄せた。わずかに俯く白皙の美貌に薄暗い影が落ちる。格子の隙間から覗いた地上に、篝火がチラチラ燃えているのを姫は見た。見張りの兵が行き交いするのが、蟻の子のようである。
「憎らしい。大して生きられもせぬ癖に、主人面して威張りやる」
「それでも守ってやるのだろう」
「長屋の主はもののついでよ」
「流石は刑部大明神。心が広くていらっしゃる」
「よう口の回ること」
 溜め息がひとつ、天守に落ちる。人間好きの変わり者に忠告してやろうか。地上を見つめたまま、刑部姫が言った。
「忠義も結構じゃが、努々、人に心を許すなよ。包平殿の悲しむ顔は見たくないものじゃ」
「お心遣い、痛み入る」
 人に作られた物の妖である大包平にはなかなかに難しい忠告とも思えたが、賢明にも大包平は何も口にしなかった。これが獣の妖と物の妖の違いかと思っただけだった。
 それっきり、大包平は天守を辞した。

 あれよりまた数百の時が流れたが、大包平は未だに姫路の地に戻ること叶わずにいる。池田の御家からも離れて、今はこの世の何処ともわからぬ場所で、十年少ししか生きていない若い娘に従い暮らしていた。
「大包平様」
「どうした、何かあったのか」
「ほら、姫路城です」
 ちょいちょいと呼び寄せられて、娘が指し示したのは政府から支給された、審神者教育用の歴史書なるものである。どのような仕組みかは大包平にはわからぬが、目の前に浮かび上がるホログラムと呼ばれる透けた板に、あの懐かしい天守が堂々たる威容を現していた。
「日本で一番美しいお城なんですって。良いなあ」
「城がほしいのか?」
「うーん、そうですね。別にほしいわけではないです。ただ、一度は登ってみたいかも。天守には、きれいなお姫さまの神さまがいるんですって」
 会ってみたいな、と呑気に笑う娘の小さな頭を、大包平は撫でてやった。くすくすと、こそばゆげに首を竦めて、娘は大包平の手から逃れると、腰にきゅっと抱きついてくる。
「大包平様も一緒に行きましょうね。昔、お住まいだったんでしょう」
「あぁ、そうだな。お前と行けば、あちらも歓迎してくれるだろう」
 甘えたようにもたれ掛かってくる、自身の胸の高さもない娘を見下ろして、大包平はあの天守の美しい妖を思う。人は嫌いだと口にしながら、年に一度その前に姿を現し、人を守って生きることを選んだ妖を。
 彼女が今の大包平を見れば、手遅れだと悲しむだろうか、それとも、仕方のないことだと笑うだろうか。ただの物であったときよりも、もっと深く。もっと切実に、この体は人の温かさを理解してしまう。肉の身を得た今となっては、もはや人を愛さずに生きることは難しかった。

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2018/05/11

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