甘やかな闇

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にかさに

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 にっかり青江の主は目が見えない。生まれついてのものではなく戦の影響によるものだが、詳しくは青江も知らない。色々と医者にも見せたらしいが治る見込みがないとして、一年前に審神者を辞して野に下った。その決定に彼女の刀剣男士等は随分と反対したのだが、今後も視力だけに留まらぬ影響が出る可能性があると言われれば、無理に引き留める事もできなかった。元々、主自身は盲しいた後も審神者を続ける気持ちはあったのだ。能力も充分だったし、むしろその力は益々強くなっていると言っても良かったけれど、何分、時期が悪かった。世論は審神者の戦死率の増加や現世離れを盛んに取り沙汰しており、政府は苦しい立場に立たされていた。死亡の可能性が僅かでもある人間に審神者を続けさせる訳にはいかない、と本丸を訪れた役人が尤もらしく説得を繰り返すのを主は俯いて聞いていた。その後ろ姿を、青江はよく覚えている。それはけして人道的な理由ではなく、青江にはもはや理解のしえない、人の世の政治のはなしだった。
 退職後の主に従い、現世への供をする刀剣に青江が選ばれたのは、何も特別親しい間柄であったからという訳ではない。主が光と引き換えるようにして得た力が、青江の専門分野といえるものだったからだ。物の心を励起する、審神者の職にはなくてはならない力だが、もはや現世では必要のないもの。即ち、見えぬものを見る力、世に云う、霊能力である。

 青江が現世で主と住む家は、政府から恩給として下賜されたものである。本丸ほどではないが、二人で住むには広すぎるといっていい立派な屋敷は、昭和の初め頃に貿易商の別邸として建てられたらしく、静養用と言うだけはあって、町の中心部からは離れた山の中腹に建っており、人の喧騒とは程遠い。海外の技師をわざわざ呼び寄せて設計させたという屋敷は古いながらもモダンな構造で、大名屋敷に慣れた青江にも、本丸に来るまではマンション暮らしだったという主にも、双方に暮らしやすい造りになっていた。縁者のいない主はほとんど拒否権のないままここに住むことになったのだが、おかげで一年を過ぎた今でも引っ越そうとする気配はない。
「お目覚めかい、主」
 お早う、と言いながら青江はいつものようにシャッと寝室のカーテンを引き開ける。途端に朝の光が射し込んで部屋の中を明るく照らし出すが、ベッドの上の主はピクリともしない。主が寝汚いのはいつものことだ。青江は特に気にする様子もなく、ふんふんと鼻唄交じりでベッドへと近づいていく。もう少しで手が届くというところで、その足元を黒い影がさっと駆け抜けた。ベッドの下から現れたように見えたそれは、一直線に扉へ向かって弾丸のように飛んでいく。バタン、と誰も触らぬままに扉が開き、そうしてまたバタンと閉じた。青江は一連の事態を肩を竦めて見送ると、改めてベッドへと向き直る。片隅に腰を下ろすと、人の頭のある辺り、ぼこりと盛り上がった部分の両脇に手をついて、ゆっくりと体を倒していく。囲い込むように乗り上げて、耳があるとおぼしき場所へめがけて、殊更甘く囁いた。
「本当に君は寝ぼすけだねぇ……もしかして、期待しているのかな?」
 途端にくすくすと、耐えかねた笑い声が聞こえて、青江はベッドの上から傾けていた身を起こす。青江の引いた後からぱっと上掛けがめくれあがって、笑い声の主、まだ年若い少女である青江の主がにっこりと笑いながら顔を覗かせた。その目は固く閉じられて、青江ではなくまっすぐに壁の方を向いている。
「おはよう! 青江」
「お早う、主」
「毎日、耳元で囁くの、やめてくれない? 心臓に悪いわ!」
「君がすぐに目覚めてくれればいいだけの話だろう。それに、君、」
 本当は面白がってるだろう、と青江が言えば、主の笑い声はますます軽やかに楽しげに部屋に響いた。
「ばれちゃった。でも、これがないと朝が来た気がしないんだもん」
「それはまあ、よかったのかなあ」
 言いながら、青江は主の体を抱き寄せて、上半身を起こしてやる。そこでようやく少女の顔がはっきりと青江の方へと向けられた。細い少女の手が這うように胸を伝って青江の首へと回されて、その体がくたりと青江の体にもたれ掛かる。それを当たり前のように抱き止めて、青江は少女を抱えあげた。
「君が早く起きないから、スープもパンも冷えてしまったよ」
「それは大変」
「これに懲りたら明日からは早く起きることだね」
「でも、」
 期待してるから、と伸び上がって主が囁いて、青江もまたくすりと笑みをこぼす。
「まったく、どこで覚えてきたのかな。主は悪い子だね」
「乱に教わったの」
「あの小悪魔」
 笑いながら、青江は主を抱えたまま部屋を出て、居間へと足を向けた。長いこと住む者もなく放置されていたという屋敷だが、床が軋むこともないし、雨が漏ることもない。片面が硝子窓になった明るい廊下をスタスタと歩き行ければ、主が、賑やかね、とポツリと呟いた。
「お隣の子どもかしら」
 青江はそれには答えずに廊下の突き当たりへと視線をやる。うっすらと向こう側が透けて見える白い女が立っていて、青江がちらりと金の左目を向けるとフッと消えてしまう。そうしてまたバタン、と扉が開く。先程まで女が立っていた場所の真横、居間に続く扉である。
「そういえば庭の夾竹桃が咲いていたよ」
 後で見に行こうか、と言いながら、青江は当たり前のように触れもせずに開いた扉を通って居間へと踏み入った。背後でまたバタン、と扉が閉まる。青江の腕は主を抱えている。
「私、キョウチクトウって見たことない」
「本丸にはなかったからねぇ」
 居間の端、斜めに突き出た食事室の椅子へ主を座らせて、青江もまたその斜め向かいの席につく。その時、なあお、と声がして、主がぱっと顔を明るくした。
「石榴!」
 おいで、と主が身を屈めて床近くに手を出せば、黒い影がさっと近づいてきて親しげにすり寄った。石榴、とは主がその化物につけた呼び名である。外見の特徴を上げよ、と言われた青江が、黒い見た目に真っ赤な、と口にしたところで、石榴と決まったのだ。主はこれを赤い目の黒猫だと思っているが、青江の言う赤は牙も露な咥内のどぎつい赤色だった。どちらにしろ、割れば石榴に似ているところは、似合いの名前と言えるのかもしれない。
「よしよし」
 主は石榴を膝の上に抱き上げて、その毛並みを撫でてやっている。滑らかな黒の毛皮は主の手が滑った後にはたちまちどろりと溶けて、底の知れない闇になる。それについては指摘せず、青江は素知らぬ顔をして、
「こぼしても知らないからね」
 匙でスープを掬い、主の口元へ運んでやった。薄い唇の間に、ずいぶん温くなったコーンスープをするすると流し込む。パンをちぎっては差し出し、サラダを掬ってはまた差し出し、たまに青江自身も口にして、そうしてすっかり食事を終えると、卓子の上に皿を重ねて置いておく。
「庭に出るのはまた後にするかい?」
 主が得体の知れない化物を可愛がるのを、青江は頬杖をついて暫し眺めていたが、それにも飽きて口を開いた。今のところ主に害はないし、それに、主がこの化物を傍に置くのは昨日今日始まったことではない。昨晩もまた、同じ部屋で眠ったようだし。夾竹桃も今夜にも散る訳ではなし、青江はどちらでもよかったのだが、主はあっと声を上げて、
「行くわ、行く!」
 石榴を床へと逃がすと青江の方へと慌てて腕を差し出した。ようやく主の手から逃れた黒猫もどきは、また、なあお、としゃがれた声で鳴いて、さっと部屋の隅の闇へと溶け消えた。青江は主の背に腕を回して、その体を抱き上げるとひとりごつように呟いた。
「今日は暑くなるよ。薄い着物に着替えて、帽子も被っていかなくちゃ」

 着替えを済ました主に手を貸して、青江は夏の庭を歩く。噎せ返るような濃い草いきれの中、転ばないよう慎重に慎重にと、主がそろそろと歩くのに、青江は白い日傘を持って付き従う。一歩踏み出しては、主の白い指が青江の左腕を強く握り締めた。
「夾竹桃はもうそこだよ」
「ほんとう? バニラみたいな、甘い匂いがする」
「屋敷に戻ったら、アイスクリンを食べようか」
「アイスクリーム、よ。青江、おじいちゃんみたい」
 主が笑って手を離す。青江はするりと前に回ると、ふらふらと揺れる体を抱き止めた。ぽすり、と主の小さな体が青江の胸に当たって止まる。
「あら、壁がある」
「これ以上はダメだよ」
「いけずな壁」
「夾竹桃には毒があるんだ、触れると危ないからね」
 青江みたいね、と主が言って、僕ほど人畜無害な刀はないけどね、と青江が言い返す。
「幽霊だって、斬るんだもの」
「誰彼構わず斬ったりしないさ」
「そうだといいけど」
 本当さ、と青江は声には出さずに唇だけで囁く。僕も随分と丸くなったものだよ。けれども青江の表情さえわからない主には、何一つ見えてはいない。彼女は青江の胸に顔を埋めたままで、どんな花なの、と問いかける。
「赤い花だよ。桃に似てるね」
「桃の花なんて見たことない」
「おやおや、困ったね。それなら、君はどの花ならわかるの」
「チューリップとか、桜とか。……でも今はみんな忘れてしまったわ。あんまりずっと暗いんだもの」
 主の口調は夾竹桃にはしゃいでいたものとも、黒猫を可愛がっていたものとも、寸分も変わらない。対する青江の表情も。本心を覗かせぬアルカイックスマイルを貼り付けて、主の体を抱いている。
「本丸を離れることになって、みんなと別れて、知らない場所に住むことになって、嫌で嫌で仕方がなかったけど……でも、ここも良いところね。いつも近くに誰かがいるような気がするの。まるで本丸みたいよ」
「そうだね」
 町から徒歩で一時間。周囲に民家の類いはない。山の中腹にポツンとひとつ建つ、ほとんど人に忘れられたような古い屋敷に青江とその主は住んでいる。
「いつもありがとう、青江。青江がいるから、わたし、ここで暮らせていけているわ」
 わたしひとりでは、夜か昼かもわからないんだもの、と主が言う。そんなことは些細な問題だよ、と青江が答える。
「君のいる世界が夜でも昼でも、僕はどちらでも構わないよ。僕にはどちらもよく見えるからね」
 君は君の見たい世界を見ればいいんだ、と青江が言って、その手が少女の頭をゆっくりと撫で下ろす。青江は少女の瞼の裏の闇に、夾竹桃の甘い匂いだけが白く亡霊のように漂っているのを夢想する。主に望まれない限り、青江が亡霊を斬ることはない。化け猫も、水子霊も、何もかも今の主には必要なものだった。
 ただ手を引いて、今はふたり、甘やかな闇の中を歩いていく。

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2018/05/13

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