猫の怪

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肥南

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 京都市中の夜戦を終えた肥前忠広が本丸へと帰り着いたのは、もうすっかり夜も更けた頃だった。寝息も聞こえぬ暗い入側を、手燭もなしに肥前は歩く。皆、既に眠っているのだろう、私室の並ぶ一帯に人の気配はない。同じ部隊の刀たちはてんでばらばらに風呂や厨へと繰り出していき、部屋へと戻るのを選んだのは肥前しかいなかった。訳知り顔で見送ってくる同僚に苛立ちを覚えないと言えば嘘になるが、それでも肥前には一刻も早く、私室に戻りたい訳があった。
 逸る気持ちがそのまま出たような荒い歩調の癖、足音はない。脇差の常として、己の隠蔽に長けている肥前は、輪郭もあやふやな新月の夜、わずかな星の光だけを頼りに、危うげなく角を曲がる。闇の中で夏草だけが噎せるように濃く匂って、その存在を主張していた。
 肥前と、ほとんど同時期に来た南海太郎朝尊の二人部屋は本丸端、あらゆる刀剣たちの部屋のなかでも玄関から最も遠い、北棟の端に位置していた。屋敷の外周をぐるりと巡る入側を、右、左と歩いていくうちに、襖が少しだけ開いて、淡い橙の光が外へ漏れ出ている部屋がある。それが彼等の部屋だった。肥前はひとつ、大きく息を吸うと、なるたけ平静を装って引手に指をかけた。
「ただいま」
 スッと音もなく襖を滑らせる。隣の部屋の住人は酒飲みで大概のことでは起きないだろうが、念の為、声を潜めて肥前は帰還の挨拶を告げる。案の定、今夜も起きていた南海は、肥前の姿を認めると、文机に向かって書き付けていた手を止めた。ちょっと小首を傾げて、
「やあ、おかえり。肥前くん」
 何も頓着しない様子でいつも通りにいらえを戻した。その拍子に、首から下げていた手拭いがスルリと膝の上に落ちて、ニャン、と小さな悲鳴が上がる。
「そいつ、また来てたのか」
 入ってきた時と同様、静かに襖を閉めると、肥前は南海の元へと歩み寄り、腰を屈めて手拭いを拾い上げた。毎日洗濯されている真っ白な手拭いの下から、そこだけ夜をこごらせたような一匹の黒猫が現れる。ニャン、と肥前に感謝するように猫は鳴いて、そうしてまた腹と足の間に丸い頭を突っ込んだ。
 この猫は千子村正が白金台で拾ってきた猫で、拾うだけ拾ってきて特段世話を焼くでもなく、ほとんど野良猫のような形で本丸に住み着いている。猫だけではなく、同様にして犬も鳥も魚もいる。そんなことをして歴史が変わらないのかとも思うが、刀剣男士の守る歴史はあくまでも人間の歴史だから、他の生き物には関わりがない。勿論、物である刀剣自身にも。
「猫は夜行性だからね。他の刀剣が眠っているから、起きている僕のところへ来るのだろう」
「先生は寝なくていいのかよ」
「夜の方が研究が進むものでね」
 そう言ってまた視線を帳面へと落として、書き物へと戻っていく。肥前は戦装束の羽織を脱ぎながら、部屋の隅に片付けられていた座布団を片手で引き寄せて、南海の背後に座り込んだ。少しだけ凭れるよう胡座を組んで、許諾の言葉も聞かずに己の頭を紺の羽織をはおった背中に擦り付けた。スン、と鼻を鳴らせば、風呂上がりの湿った髪の匂いがする。また中途半端に拭っただけで無精したな、と思うが、それを指摘するでもなく、ただただ呼吸を繰り返して、肥前はこの一瞬に没頭するために目を瞑った。戦で昂った精神を、そうして少しずつ落ち着かせる。
 どうせ毎夜のことで、今更、南海が文句を言うこともないとわかっていた。その為に起きている、とは思わないが、許されている、と感じることは、ある。
「何をそんなに熱心に書いてんだ」
 座る前、チラリと覗き込んだ帳面は相変わらず蚯蚓がのたくったような字で、パッと見ただけでは何が書いてあるのか判然としない。南海は肥前を見もしないで、これはね、と手を止めることなく解説を始めた。
「怪談話だよ。鬼をはじめとして鵺や土蜘蛛、山姥等、刀剣の逸話には化け物に関するものが多い。魔に対する純粋な力の象徴としての刀剣、ということだね。これは遡れば平安の頃、鳴弦の儀と呼ばれる魔除けの儀式を北面の武士が担っていたことと同じ意味を持つと考えられるが……、ふむ、同時に武勇の象徴が弓矢から刀剣へと移ったことも併せて考えれば興味深い」
 つと南海が言葉を切る。話しながら、何か思い付いたのだろう。グリ、と肩の肉が動くのを、肥前は額で感じた。ついで、ペラペラと紙が捲れる音が続いた。
「この猫が金華の猫なら、斬れば立派な逸話持ちだ」
 一体何を読んでいるのか、口にしたのは至極物騒な言葉だった。どうせ本気ではない。こうした南海の突然話を変える癖にも、この頃では随分慣れて、肥前も当たり前にそれに答えた。
「金華、っていうと支那か」
「そうだよ、浙江省は金華の猫は化けるらしい」
 清の文人、褚人獲の堅瓠集に曰く、金華の猫は人に飼われて三年も経つと、夜中に人家の屋根に上っては月を仰ぎ、その精を吸うのだという。月満ちて精怪へと変じると一旦は深山幽谷へと去るが、それからは夜毎に美男美女へと化けて人に取り憑くようになる。憑かれた人間は夢のような時間を過ごすが、金華猫に生気を吸われ、最後には弱り死んでしまう。
「化け猫の仕業かどうかは、取り憑かれたと思ぼしき人間に、一晩、青い衣をかけておけばわかるという。夜明け後、衣を確かめて、猫の毛がついていればそれは金華猫の仕業に違いない。確証さえ得られれば、後は猟犬でも連れてきて猫を捕まえる。そうして捕まえた猫の肉を食べれば、助かるという話なのだが」
 男には雌の肉、女には雄の肉しか効果がない。だから、もし捕まえた猫が呪われた人間と同性であればそのまま被害者は死んでしまう。
「へぇ……さすが、先生。物知りだな」
 滔々と語られる異国の怪奇譚に、肥前は目を閉じたままでぞんざいに相槌を打った。それほど興味のない話題に、抑揚の少ない南海の話し方も相まって、少しずつ眠気が押し寄せてくる。あからさまにやる気のないいらえにも、南海は気を悪くした様子もなく、有難う、と礼を言うと再び話を開始する。
「ところでこの判別法で出てくる衣だが、何故青い衣に限定されるのだろうね。一説に拠ると化けるのは黄色の猫が多いというが、成程、青色と黄色は補色関係にあり、黄色の毛を見分けるのに青い衣は適していると言えるだろう。しかし、一方で化け猫の毛色は純白が多いとか、黒が多いとか、そういった異説もあるわけで、であれば殊更青色にこだわる必要もないわけだ。敢えて青なのだ、と考えるならば、それは青色であること自体に魔除けの意味があることと無関係ではないだろうね。薬師如来の東方浄瑠璃浄土然り、耶蘇教の聖母摩利亞然り、東西を問わず、青は聖なるものの象徴として使われてきた歴史がある。青の顔料は高価な鉱石を砕いて作られることから、この色の神秘性を高めたともいわれるが、まあ、それは今は置いておくとしよう。話を戻して、青という色自体に意味があるという前提で、特に青い衣服、として考えた時、本邦において直ぐに連想できるのは、東大寺修二会に現れたといわれる青衣の女人だろうね。新暦三月一日から十四日の二週間にわたって行われる東大寺の修二会はお水取りという名で知られているが、これは奈良時代の僧、実忠が天界のひとつである兜率天に迷い込んだ際、天人たちが十一面悔過法を行ずるのを見て、下界でもこれを行いたいとして伝えたのが始まりだと言われている。修二会の期間中、実忠忌である三月五日の夜とお水取りの行事が行われる十二日の夜には所属する故人の名が記された過去帳読み上げがあるが、鎌倉の頃、そこに現れたとされる青い衣を纏った女の亡霊が青衣の女人だ。伝説では彼女は読み上げられる過去帳の中に自分の名前がないと恨み言を言って消えたとされるが、一般的にこれは女人禁制の仏教儀式における女性信者の無念を表したものとされている。しかし、修二会の発起者である実忠忌の最中に現れた、という点において、この女性に祆教のダエーナーの影響を見ることもできるのではないかね。実忠が迷い込んだ兜率天とは弥勒菩薩の浄土がある場所で、弥勒もまた祆教におけるミスラ神を起源とするものという説がある。ミスラ神は司法神であり、光明神であり、死後の裁判を司る神と言われている。則ち、弥勒の浄土において実施される悔過法とは、生者による死後の世界に対する祈りであり、再生を願う儀式なのではないかね? であれば、青衣の女人にダエーナーの影響を見るのもあながち的外れでもあるまい。ダエーナーとは祆教において教法を意味すると共に、個人の自我のことを意味しているが、死者の霊魂は死後四日目の朝、十五の乙女の姿となった己のダエーナーと邂逅するという。生前、善行を積んだ人間ほど、ダエーナーの姿は美しくなると言われていて、」
 熱心に自説を展開していた南海が、ふと、何かに気をとられたように口をつぐんだ。どうして、と眠気で回らない頭で、肥前は不満を覚える。南海の話す内容は次第次第に難解さを増し、いよいよ肥前にはわからなくなっていたが、内容など最初からどうでもよかった。ただ、南海の穏やかな口調が熱を帯びて、少しずつ早口になっていくのが、どんな子守唄よりも、肥前を心地好い眠りに誘う旋律だった。
 もはや口を開くのも億劫で、話の続きを促すように、肥前は南海の背にぐりぐりと頭を擦り付けた。イタタ、と声がして、微かな笑い声が降る。
「ねぇ、肥前くん、ねむるのなら、布団に入った方がよいよ」
 その言葉に、あぁ、とかうん、とか自分でもよくわからないようなあやふやな言葉を返しながら、肥前はうっすらと目を開く。瞼が鉄のように重い。わずかな視界の中、もたれ掛かっていた南海が動く気配がして、咄嗟に片手をついてなんとか体を支える。シュルリと衣擦れの音だけを残して、南海は立ち上がると、部屋の奥へと去っていく。それをぼんやりと見送りながら、先ほどまで南海に触れていた部分に風が吹くような心地がして、肥前はふるりと体を震わせた。引戸を開ける音、南海の小さな息遣い、布団がパサッと畳に敷かれる音。視線は文机に向けたまま、耳だけを頼りに南海の仕草を追っていると、肥前同様に置いていかれた黒猫が、右腿に擦り寄ってきていた。触れている箇所が生き物の熱でほんの少し温くなる。
「そういえば、他の刀たちが肥前くんは猫に似ていると言っていたが、そうしているとまるで兄弟のようではないかね」
 からかうような口調に、咄嗟に、ばかか、と肥前は返す。
「刀が、猫に、似るわけ……」
「しかし、刀剣男士というこの姿は猫が化け猫になるのとどう違うというのかね。たとえば鍋島の化け猫は、主の血を舐めることで妖力を得、見事仇討ちを果たしたという」
「仇討ちだなんて、そんな奴と一緒にすんじゃねぇ……気色悪ぃ」
「そうかい、気を悪くしたならすまないね」
「それを言うならあんたの方が……」
 その後は言葉にならなかった。僕の方がなんだい、そう聞き返す南海が近づいてくるのを、腕をとってグイと引き寄せた。二人して畳に倒れ込むのに、黒猫が一鳴きして逃げていく。肥前は手探りで南海の頭を抱え込むと、湿った髪に指を通し、鼻を擦り寄せ唇を奪った。薄い唇の間に舌を差し込んで、歯列をベロリと舐めてやる。すぐに開かれた咥内は、性急な求めにも驚いた様子もなく、長い舌を絡ませて肥前の舌を歓迎する。舌の裏をチロチロと擽る舌先は利かん気の強い幼子を宥めるようで、安心すると同時に腹が立った。
 南海の方が余程、猫に似ている、と肥前は思う。それもとびきり凶悪な支那の化け猫だ。行灯の下でも青く見えるほどの白い肌は月の光を吸ったようだし、緩やかに波打つ黒髪は猫の毛並みのように見える。肥前は彼にすっかり取り憑かれていて、もはや助かる見込みはない。
 あるいは、と眠りの淵に落ち行く肥前の思考は飛躍する。南海の語ったままに、肥前は美しい幻をみる。青い衣を纏う女、死後に会うという己の自我。化け猫から己を守るために纏う青い衣は、あの世の女のよすがである。けして善行を積んできたとは言えぬ肥前の前に現れる女とは、果たしてどんな姿をしているのか。清らかな乙女など、自分には望むべくもない。けれども、と肥前は夢想する。万に一の可能性として、青い外套をまとう美しい男が死後の世界で出迎えてくれたのなら。それは悪くない最後のように、肥前には思えた。
 合わせていた唇から、ゆっくりと熱が去って行く。それを惜しいと思う間もなく、からだ全体が温い温度に包まれる。おやすみ、と優しい声を最後に、肥前の意識はゆるりと夜にとけていった。

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2020/04/12

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