花の国

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肥南 / 短刀化

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 肥前忠広が配属された本丸では、南海太郎朝尊は短刀として顕現された。勿論、特命調査として共に文久の土佐で時間遡行軍を追っていた時はそうではなかった。他の本丸と同じく、肥前よりは頭ひとつ分は高い成人の男の姿をしていて、腰には打刀を佩いていた。けれども、一度目の調査が終わり、南海からの要請を受けて再び相対した時には、もう彼は肥前の腰ほどもない背丈の子供の姿をして、七寸足らずの長さの短刀を差して笑っていた。肥前の先生は完全に失われてしまったのだと、その時に思った。
 これが歴史改変の結果であれば少しは望みもあったろうが、問題は審神者にあった。来歴は定かではないが、肥前の新しい主の家には森岡朝尊と銘を切られた刀があった。東北の山奥にどうした経緯で渡ったものかはわからないが、物打から折れて短刀に仕立て直されていたその刀を、土佐の武市端山の佩刀であったのだと、主は幼い頃より言い聞かされて育ったそうだ。
 それだから、自分には南海太郎朝尊は子どもの姿に見える、と審神者は言った。政府から事前に提示された絵姿も、審神者には十かそこらの子どもにしか見えなかった。審神者によって顕現された陸奥守吉行も、その他の刀たちも、みな同じだという。だから、審神者によって再び顕現された肥前の眼に、南海は子どもの姿で写るだろう、と。
 まさか、と肥前は思ったが、二度目の時間遡行で審神者の予想は当たってしまった。興味深そうに二度目の土佐城天守閣で壊れた銃に手を伸ばす子どもを抱き上げて、連れ去るように本丸へと戻った。
 それ以来、肥前が南海に触れることはない。

 歴史修正の予兆がないか見てきてほしい、と審神者が言ったのは、本丸に今年初めての雪が降った日だった。遡行軍の攻撃が確認された場所は出陣先として、歴史の改変が無事防がれた場所は遠征先として、政府から審神者へと通達が発せられるが、肥前が命じられたのは、それ以前の、歴史に瑕疵がないかを確認する為の斥候である。実際に部隊を送り込む前に遡行軍の痕跡がないかを見極める作業だが、そもそも政府にはそれ専用の部署があって、ありとあらゆる時間と場所を監視している。本丸ごとに行われる調査はほとんど物見遊山の域を出ないものであり、業務外目的の外出が難しい審神者や刀剣男士の為の福利厚生のようなものだった。必要ない、と断ろうとした肥前の言葉を遮るように、審神者は、主命だよ、と口にする。勿論一人で行けと言う訳じゃない、最適な同行者を選んでおいたから、と続けるのを最後まで聞かず、肥前は審神者に背を向ける。障子をわざと乱暴に開けて、入側に出た途端、ワッと小さな影が驚いたように跳び跳ねた。
「ひ、肥前くん、お話しは終わったかね?」
「……なんでいんだよ」
 南海が、エッ、という顔をする。肥前は咄嗟に審神者を振り返った。重々しく頷く審神者を認めて、思わず苦虫を噛み潰したような表情になる。
 同行者とは、南海のことだった。

 真っ先に鼻をついたのは真新しい杉の香り。目を開けば山の向こうまで一面の春景色。
「吉野山、だね」
 隣に立つ南海がニコリと笑う。肥前と南海は審神者の指示によって転移を済ませたところだった。通常の出陣や遠征とは違い、歴史修正の調査には特定の過去に飛ぶということはない。現地人との接触の危険や、調査の効率が重視され、特殊な時空が用意されているのだ。ここは過去と現在と未来が層のように重なった場所で、歴史修正等が発生していればそれは傷として必ず残ってしまう。ほとんど見えるか見えないかもわからない傷だ。けれどもけして消えない傷。それが歴史を変えるということだ。
 真後ろには新築らしい駅があって、吉野杉を使った一枚板の看板に吉野駅と書いてあった。広い開口部から見える構内に人の姿はない。青い列車が一台、静かに止まっているだけだった。目の前には左にいかにも閑古鳥が鳴いていそうな古びた土産物屋、その向こうにバス停があって、右奥にロープウェイ乗り場が続く。肥前は迷いのない足取りでロープウェイ乗り場を目指した。慌てて小さな足音が後を追ってくるのを耳だけで確認する。こちらも今にも潰れそうな年季の入った建物で、トタンの屋根を潜りながら、肥前は懐から小判を二枚掴み出す。それを適当に改札台に置いて、停まっていたゴンドラへと乗り込んだ。南海も真似して乗り込んでくるのを肘を掴んで引っ張りあげる。キチンと席に南海が腰かけたのを認めてから、肥前はゴンドラの扉を閉めた。途端にゴウっと音がして、ゴンドラが動き出す。
「わっ」
 ころりと南海が席から転がり落ちそうになるのを片手で受け止めて、反対側の席に腰を下ろす。
「ありがとう、肥前くん」
「ちゃんと座っとけよ」
 座りが悪いのかモゾモゾと腰を動かす南海から目を逸らして、肥前は窓の外に目をやる。ガタゴトと不穏な音を立てながら進むゴンドラの下には緩やかな坂道が蛇行しながら続いていた。無論、人の姿はない。道の両脇は山と谷に囲まれていて、桜に混じって藤の木が見えた。
「大和国吉野。天皇の離宮である吉野宮が存在した地だね。古来より桜の名所であり、豊臣秀吉が吉野の花見を行ったことでも知られている」
 聞きもしないのに話し始める南海を肥前は無視した。いつの間にか道は途切れ、ゴンドラは山の中を走っている。伸びる枝葉は今にも硝子窓に触れそうで、咲き誇る桜の花の中に小鳥が隠れているのまで見てとれた。
「肥前くんは何故、吉野に桜が多いか知っているかね?」
「知らねぇよ」
「吉野山は修験の山としても有名でね。修験道の開祖である役小角は吉野山中にて蔵王権現を感得し、桜の木に尊象を刻んだ。これにより桜は蔵王権現の、ひいては吉野の神木として広く信仰を集めることになったわけだ」
 ゴン、と一際大きくゴンドラが揺れて、停まる。肥前は黙ったまま扉を開けると、ゴンドラから飛び降りた。
 ロープウェイ乗り場を出ると、左右に参道が伸びていた。思わず立ち止まった肥前の横を、小さな影がすり抜けて、今度は南海が先立って歩いていく。迷いなく左の上り坂を選んだ南海の後を追いながら、肥前は目についた露店の品を物色した。鮎の塩焼きや麦酒を手にとっては、適当な小判を置いていく。流石に水が良いのか、香ばしく焼かれた鮎が旨かった。
 しばらく行くと黒い門が道の先に見えてくる。金峯山寺だよ、と南海が言う。
「役小角が開いた寺で、後には南朝、もしくは吉野朝というが、後醍醐天皇の開いた朝廷の中心地となる」
 そのまま石段を登り、南海は門を潜って寺へと入っていった。肥前も仕方なくその後に続く。
 境内の中央は不自然に石の柵で囲われていて、四方に桜の木が一本ずつ立っていた。
「後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が最後の酒宴をした場所だと伝わっているね」
 護良親王はその後、天皇に疎まれ、鎌倉に幽閉される。そうして動乱に乗じて殺害された。
 南海は何を思ったのかウンショと声をかけて柵によじ登る。細い腰を掴んで柵越えを助けてやった肥前を振り返りもせず、南海はパタパタと柵の中央へと駆けて行く。肥前は柵にもたれ掛かって、それを眺めていた。踞って地面を叩いたり、耳を着けたりしている南海を見ながら、残っている温い麦酒をチビチビと舐める。
「肥前くん、南朝と言えば、この吉野にも三種の神器があったことは知っているかね?」
「だから知らねぇって」
 南海は立ち上がり、少し場所をずらしてまた踞る。そうしながら、言葉を続ける。
「後醍醐天皇は元弘の乱にあたり、三種の神器を携行して挙兵した。この乱自体は失敗し、三種の神器は新たに即位していた北朝の光厳天皇に引き渡されるが、後に後醍醐天皇は光厳天皇に渡した神器は偽物であり、本物の神器は吉野にあるとして吉野朝の正統性を宣言した」
 三種の神器は天皇の最大の拠り所であり、これのない北朝は偽朝となる。だから、北朝はなんとしても三種の神器を取り戻そうとしたんだ。
 南海の言葉は流れるように続く。良くもまあそれほど詳しいものだと肥前は感心するような気持ちで南海を見ている。本ばかり読んでいるようだと、人伝に聞いてはいるが、肥前がその姿を直接見たことはない。
「ついには、後醍醐天皇の孫である後亀山天皇の代、明徳の和約により、三種の神器は北朝の天皇の元へと戻った。これにより天皇の正統性が北朝へと戻されたというわけだね」
 しかし、肥前くん、と南海は口をつぐんで立ち上がった。頓着せずに地面に膝を着いた所為で、青の戦装束が土で白く汚れていた。それを払いもせずに、真っ直ぐに鋼色の瞳が肥前を見る。
「本当に、北朝へと渡った三種の神器は本物だったのだろうか? 後醍醐天皇が偽物だと言った神器を北朝の人間達は見抜けなかったのだろう。ならば、次に渡される神器が本物であるとなぜわかるのかね?」
 そんなことは肥前にはわからない。南海は肥前のわからないことばかりを聞く。肥前が答えを知らないことなど、いい加減わかりそうなものなのに、何度も、何度も。
「そも、三種の神器は後醍醐天皇の前にも、消失の噂がある。鏡は宮中の度重なる火災によって焼失し、剣は安徳天皇によって海の底へと沈められた。勾玉も同じく安徳天皇の入水の際に携行されたとされるが、これは後に回収されたらしい。本当のことはわからないがね。まあ、結局これらすべては形代で、古来より伝えられる神器は正しく保管されているとも言われている。実物が無事であるならば、形代がいくら失われても問題ない、ということらしい」
「それは、」
「刀剣男士に似ていると思わないかね、肥前くん。ここにいる僕たちは皆、形代に過ぎず、ただ唯一の実物の刀剣さえ実在していれば、形代を用意することで何度でも顕現することができる。更にいえば、実物の刀剣が存在する必要さえ、ない」
「そんな言い方、ないだろ……」
 事実だよ、と南海は静かに言った。
「安徳天皇と共に消えた剣の代わりは、後に伊勢神宮の神庫から選び出されたという。これを神器である、と決めるのはどこまでも人間で、僕は審神者によって南海太郎朝尊と決められた刀剣男士だ」
 小さな口角がゆるゆると上がる。ねぇ、と柔らかな声が響く。唐突に風が吹いて、青い外套がハタハタと翻る。四本の桜が一斉に花びらを散らした。
「君は僕をなんと呼ぶのかね、肥前くん」
 小さな影が桜吹雪の向こうに、消えた。
「……先生ッ!」
 肥前は慌てて柵を乗り越える。まろぶようにして先ほどまで南海が立っていた場所へと駆け寄った。視界一杯を埋め尽くす淡い色合いの花びらの幕を掻き分けるように、必死に手を伸ばす。指先に触れた固い布の感触を、胸元へ強く引き寄せる。
「先生、南海先生……ッ」
 包むように抱き締めた小さな熱が腕を伸ばす。細い腕が首に回るのを感じながら、肥前は南海の肩に頭を押し付けていた。本当はずっと、こうしたかったのに。肥前はずっと、恐ろしかったのだ。刀工南海太郎朝尊を由来として顕現した短刀の刀剣男士、南海太郎朝尊が。
 肥前の記憶は、元の主、岡田以蔵を境に途切れている。それ以降も肥前はこの世にあった筈だが、それこそが逸話を基にした刀剣男士という物の在り方なのか、実物の肥前忠広の在処がようと知れないように肥前の記憶も霞がかかったようにぼやけている。
 けれども、実家に南海太郎朝尊が伝わったという審神者によって顕現された南海は。彼は刀工南海太郎朝や武市半平太だけではない、それ以降の記憶を持っている可能性がある。異なるのは姿形ばかりではない、刀剣男士を形成する逸話さえも異なるのだ。性格も、ひいては肥前に対する心情も異なるのではないかと、正しいかどうかもわからない推測に、肥前は怯えた。だから、呼べなかった。今もその呼称を肥前に許してくれるのか、わからなかったから。
 小さな手のひらが、肥前の後頭部を撫でる。よし、よし、とまるで自分より小さな子どもを撫でるように、細い指先が幾度も髪をすいてくる。
「やっと、先生と呼んでくれたね、肥前くん」
 にっこりと、嬉しそうに南海は笑った。

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2020/04/12

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