うつろぶね

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肥南

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 浜に不思議な舟が打ち上げられたのだと耳にしたのは、山に獣を狩りに行った帰りだった。死んだばかりの兎二匹ばかりを手に山を下ってきた忠広に声をかけたのは、週に一度、村に魚を買い付けにくる商人の男で、一寸前に村人に聞いたのだという噂話をわざわざ語って聞かせてくれたのだ。村では外れ者の扱いを受けている忠広にとって、なにかと世話を焼いてくるこの男は煩わしいと同時に、ひどく有難い存在でもあった。男と別れて自分のあばら屋に戻った忠広は、己に声がかかっていないということは、女はまだ生きているのだな、と思った。
 舟には異国の女が一人、乗っていたのだという。そうして忠広は、浜に流れ着いた死体を踏みしだく役についていた。
 海は様々な場所と繋がっており、それ故に浜には様々なモノが流れ着く。空舟、荷、魚、そうして、人間。生きている人間もたまにはあるが、浜に着くのは多くが死んだ人間である。浜に近いこの村では、海から流れ着く死体には悪霊が憑いているといって、村に災いをもたらすと言われていた。その為、打ち上げられた死体は必ず踏みつけられ、悪霊を落とさなければ弔うこともできなかった。
 父が死んだ八年前からは忠広がその役を負っていて、普段は近寄ってこようともしない村人たちは、死体が揚がった日ばかりは、追いたてるように忠広を浜へと連れ出した。他の村では、こんな役目は罪人が負うのだと聞くが、忠広に不満はなかった。
 忠広の父は人殺しである。他国では侍だったというが、真実はどうだか知らない。兎にも角にも何かしらの罪を犯して、逃げ延びた先がこの村だった。村人たちは海から一番遠い村外れのあばら屋を父に与える代わりに、死人を踏む役目を押し付けた。大きな腹を抱えて父と共に都落ちした母は、忠広を産んですぐに亡くなったという。肺病で父が亡くなった後、その役を忠広が継ぐのは自然の流れだった。
 海に流され、浜へと打ち上げられた人間はそれほど長くは持たない。それがか弱い女人ならばなおのことだろう。噂を聞いた忠広はすぐに村人が己を呼びにくるものだと思っていたが、その後、数日経ってもその気配はなかった。それでいて、村外れから見る村のなかはやけに静かで、息をひそめているようにも見えた。まるで、なにか恐ろしいものに怯えているような。
 忠広の家から海に向かうには、村の中を横切る必要があり、役目の時以外に忠広が村を彷徨くのを村人たちは嫌った。村人は忠広を穢れている、と言う。村を守るためとはいえ、死人を踏みしだくことで穢れが移るのだと、そう言う。事実、父は苦しみ抜いて死んでいった。己もまた、父のように苦しんで死ぬだろう、と忠広は思う。

 新月の夜だった。忠広はそっと家を出ると、コッソリと浜へと向かった。不思議の舟と、舟に乗る異国の女とやらを一目見てやろうと思ったのだ。忠広は女人と親しく話をしたこともなければ、ましてや手を握ったこともない。村の女たちは揃って忠広を見れば顔をしかめ、視線を逸らす。このまま、嬶も貰わず、ひとりで死ぬばかりだと思っていたが、異国の女であれば忠広を見て眉をひそめることはないだろう。女が死なずにあるのであれば、そうして醜くあるのであれば、忠広が女を妻とするのもあり得るように思えた。
 家と家の間を、忠広は息を殺して歩く。砂をかく足が間違っても音をたてぬよう、慎重に歩を進めた。誰かが起きて見咎められることを忠広は恐れた。己のような身分のものが、なにかを欲したり、興味を持ったりすることは、ひどく見苦しいことに思えた。
 幸いにも村は深く寝静まっており、忠広は誰に見つかることなく、無事に浜へとたどり着いた。舟は、と探すと、浜の端、崖の陰に隠れるようにして大きな球体が転がっていた。
 それは見れば見るほどに不思議な舟であった。大きさは牛を縦横に三頭ずつ並べたくらいか。碗を二つ合わせたような丸形で、上半分には玻璃が貼ってあるのか、ぼんやりと中の灯りが透けて見える。下半分は二つの鉄を組み合わせてあるのか、色の違う板が交互に張り合わせてある。そうして舟の残った箇所には、絵とも文字とも思えぬ不可思議な記号がところ狭しと書き連ねてあった。
 フラフラと、引き寄せられるように忠広は舟へと近付くと、玻璃の窓を覗き込む。白い室内にはやはり不可思議な記号が壁一面に書いてあって、二つの唐櫃が並んでいた。床には赤い毛氈が敷いてあり、噂の通り、髪の長い女が一人、こちらに背を向けて座っていた。それにしても、恐ろしいほどに長い髪である。黒々として、まるでそれ自体が生き物のようにうねりながら床にとぐろを巻いている。あれでは立ちあがるのも一苦労だろうと忠広は思った。髪の隙間から、ヒラヒラとした青の羅紗がわずかに覗く。随分と上等な衣服を纏っているのだな、と思ったところで、先頃の商人の話が思い出された。
 このような不思議の舟が打ち上げられるのは、それほど珍しい話ではない。遠く常陸の国でも似たような舟を見たと伝わっているが、その舟にもまた、異国の女が乗っていたのだという。女は小さな匣を持ち、如何にも大切に扱っていた。噂では、女は異国の王の姫君で、決められた婚姻を破って姦通を犯した為に、王は間男の首を斬って匣に詰め、姫と共に舟に乗せて海へ流したのだと。それゆえ、女はけして匣を手放さず、中身を余人に見せようとはしなかったそうだ。
 今ここにいる女もまた、少し前屈みになるようにして、頻りに腕を動かしていた。それは何かをさすっているようにも見えたが、背後からでは一体何であるか、予想もつかない。こちらを向かないか、と思って暫く見ていたが、ふと、懐に仕舞った刀子を思い出した。これは忠広の父が持っていた太刀のなれの果てで、折れたか折ったかした際に、鋒だけ残ったのを布を巻いて刀子として使っているものである。普段は草を切ったり獣をばらしたりするのに使っていたのを、いつもの癖で持ってきてしまったのだった。懐から刀子を取り出した忠広は、恐る恐る先端を玻璃へ向けると、思いきって叩きつけた。カン、と高い音が夜の浜に響く。思いの外大きく響いた音に、慌てて辺りを見回したが、誰も現れる気配はない。躊躇いながらも、カン、カン、と忠広は二度三度と刀子を振るった。滑った切っ先が手のひらを薄く切って持ち手の布に血が滲む。それでも忠広は手を止めなかった。カン、と六度目の音が響いた瞬間、ピクリと女の肩が跳ねた。
 音の出所を探るように、女の顔が左右に振られる。首を振るのに合わせて、黒髪も揺れる。あれほどに長いのに、フワフワとどこか重さを感じさせない動きだった。どこにも当てを見つけられず、遂に女は立ち上がり、己の後ろを振り返る。まず鼻が見え、唇が見え、それから涼しげな目許が見えた。月のように白い肌、すっと通った鼻筋、唇は色の抜けたように薄い。薄い色の瞳が忠広を認めて、ゆっくりと笑う。その途端、猫に睨まれた鼠のように、忠広は、身動ぎひとつできなくなった。
 目の前の女は確かに美しかった。美しいが、それは忠広には縁のない美貌であった。このような人物を、忠広は生まれてこのかた一度も見たことがなかったし、想像してみせたこともなかった。そも、女か男かも、もはやわからなくなっていた。背の高いのは異国の女であるが故かも知れぬし、布の多い服の上からもわかる程に肉の薄い体であるのは、何日も海を漂ったからかも知れなかった。顔のつくりは女にしては華がなく、男にしては繊細だった。
 女は果たして匣を抱えていた。縦横同じ長さの、ちょうど人の首が入るほどの大きさの匣である。漆でも塗ってあるのか、ヌメヌメと黒く輝く匣を、女は己の胸の高さまで持ち上げる。骨張って、しかし白く長い指先が蓋に掛かって、爪先がツと隙間に差し込まれるのを、忠広は息を飲んで見詰めている。カラン、と床に放られた蓋の内側は、一瞬であったが、朱く塗られているように見えた。女は落ちた蓋のことなど頓着せぬ様子で、開いた匣の中を覗き込む。匣の中は、空だった。内側の朱塗りだけが鮮やかで、他には何も見えなかった。思わず力の抜けた忠広が、ズルズルと玻璃へと凭れかかった時、匣の中へ差し入れられた女の右の指先が不意に消えた。そのまま手首までが、手妻のように消えてなくなる。そうして再び引き上げられた女の腕は、赤い汁をポタポタと垂らしていた。肌の上を朱色の線が、幾つも幾つも滴り落ちてゆく。手首には髪の毛のような細い黒糸が絡んでいて、糸を伝って落ちる朱が、匣の内側へと消えていく。
 匣の中に何が納められているのか、もう忠広にはわかっていた。わかっていたが、目を逸らすことはできなかった。女の手が上へ上へと持ち上がる。ボタボタと朱が垂れる。糸の先から、球体が現れる。それはまるで人の首ほどの大きさをしている。いよいよ女は匣を抱える左手を離して、現れた血だらけの首へと添えた。匣は床に転がって、辺り一面に血を撒き散らす。
 固く閉じられた瞳、薄く開いた唇、無惨に切り離された首が、女の白い腕に抱かれている。どこもかしこも血塗れとなった舟の中、女は愛しげに抱いた首へ頬擦りする。ベッタリと白い頬を血が汚す。
 ――あの、首は。

 そこで目が覚めた。
 思わず跳ね起きて、辺りを見回す。血の匂いひとつしない、いつもの、本丸の自室だった。ホーホーと夜の鳥の鳴く声だけが、静かな中に響いている。
 あれはなんだ、と寝巻きの前身頃を掴みながら、肥前忠広はひとりごちた。荒れ狂う心臓を宥めようと呼吸を繰り返すが、戦の後のように体は言うことを聞かなかった。恐る恐る首もとへと伸ばした指先は、慣れ親しんだ包帯の感触を伝えてくる。そのまま首のぐるりを辿るように、指を這わせながら、大丈夫だ、と肥前は己に言い聞かせた。まだ、繋がっている。
 ふと傍らを見下ろせば、同室の南海太郎朝尊が、ウウン、と唸っているのが見えた。起こしたかと思えば申し訳なく、せめてはだけた布団を直してやろうかと、屈み込んだ時だった。
 パチリ、と不意に南海の瞼が開く。薄い色の瞳が肥前を写して、ニッコリと笑う。その途端、肥前は体が強張ったように固まるのを感じた。南海の腕がゆるりとあがり、骨張っているが白い指が、肥前の首をツゥと撫でる。薄く唇が開いて、奥に赤い舌がチロチロ見えた。匣の内側を覗いたような、鮮烈な朱だった。夢の中でさえ、何故この顔を見忘れたのか、ましてや女なぞと思ったのだろう、と肥前は思った。その顔は、今ははっきりと、よく知った男の顔に見えた。
「なんだ、折角手に入れたと思ったのに」
 そう言ったきり、腕は力を無くしたようにパタリと敷布に落ちて、再び静かな寝息が聞こえてきた。
 その晩、肥前はまんじりともせず、南海の寝顔を見詰めて夜を越した。

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2020/09/13

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