たましいの欠片

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肥南

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「肥前くん、髪を切ってくれないか」
 日毎に寒さが増す長月中旬、深更の自室にて。読書灯を頼りに、文机に向かって書を読んでいた南海が振り返りもせずにそう言った。
「またかよ、先生」
 布団にくるまってなんとはなしに南海の後ろ姿を眺めていた肥前は、ひとつ億劫そうにため息をついてから、ノロノロと起き上がる。薄い掛け布団を脇に寄せ、床の間に置いた和箪笥の一番上の引き出しから鋏と櫛を取り出した。いそいそと南海の背後へと座り込む姿は、言う程に嫌がってはいないようで、南海は薄く口許に笑みを浮かべる。
「首にかからないくらいで頼むよ。髪が当たってこそばゆくてね」
「まったく、後ろでくくればいいだろうが。手入れすれば元に戻っちまうってのに」
 ブツブツと文句をこぼす肥前だが、髪をすく手つきはひどく優しい。脇差らしく、わずかな光源でもハッキリと手元が見えているのか、手櫛で二三度、後ろ髪を梳かしただけで、櫛の歯をピタリと首筋に当てる。本柘植のとかし櫛は、掌の熱が移ったのかほんのりと温かく、南海は心地よさに目をつむった。
 僅かな間の後、ジャキ、ジャキ、と鋏の音が夜の静かな室内に響く。バラバラと肩にこぼれる髪の束を、肥前のかさつく指先が触れるか触れないかの軽さでもって、的確にさらっていく。それを何度か繰り返せば、たった四寸弱とはいえ、頭が随分と軽くなったような気がする。頤の上まで短くなった髪を確かめるように、南海は思わず首を振った。
「危ない、動くな」
 途端に肥前の手が、南海の頭をグッと後ろから抑えつけた。両の親指が項を押して、まっすぐと前を見るように、頭の位置を修正される。
「あんたも刀なら、刃物の危なさはわかってんだろ。それに、下手に切れて、変に短くなっちまったらどうする。恥をかくのは先生だぞ」
「そんならいっそ、すべて剃ってしまおうか。僕は坊主でも構わないよ」
「おれが嫌だよ」
 頭を固定し終えれば、軽口を叩きながらも、鋏を動かす肥前の手は止まらない。梳かして、切って、また梳かして。真剣に形を整える姿は、一端の理髪師さながらだ。尤も、南海専用の理髪師だが。何度か角度を変えながら、ためつすがめつしていたが、やがて満足したように頷くと、襟足を整え終えた合図に、フッと首筋にぬるい息をかける。
「いつもありがとう、肥前くん」
「……別に、おれもタダでやってる訳じゃないし」
 振り向いて礼を言えば、ふいと肥前は顔を逸らす。その手には切ったばかりの南海の黒髪が握られている。はい、と机の上からまっさらの半紙をとって肥前に渡すと、髪を切っている時と同じ慎重さでもって、そうっと揺らさぬように受け取って、手にしていた髪をその上へと放した。この時、肥前は礼を言うことはない。吐息で髪が吹き飛ぶことを恐れる為だ。それを知っている南海は非礼を咎めることなく、ただ、白い半紙の上にパラパラと落ちる己の髪をボンヤリと見つめた。
 細い髪だ。ゆるくうねる、癖の強い髪である。どちらかと言えば、髪質は悪い方だろう。朝などは特に収まりが悪く、自分で梳かすのは早々に諦めて、髪の手入れはすっかり肥前に一任している。だから、これは紛れもなく自身の髪ではあるけれど、所有権という意味で言えば、肥前の髪といった方が正しいように、南海は思う。畑で収穫された作物がその畑の物ではなく、土を耕し、種を蒔き、欠かすことなく世話をした者の物であるように。
 ジィと見つめる南海の目に気づいた肥前が、視線を避けるように半身を捩る。肉付きの薄い背を丸め、畳に落ちた分までも、一筋一筋丁寧に、取りこぼさぬように髪を拾い集めていく。パラリ、パラリ、と半紙の上の髪の山は少しずつ嵩を増していく。
「寒さが本格的になる前に、もう少し溜まるといいね。あの布団の薄さでは心許ないだろう」
「あんたはそんなの、気にしなくていいんだよ」
 ただの道楽なんだから。そう言ってひとつ残さず髪を拾い終えた肥前は、そうっと半紙を半分に折り畳んだ。更にもう一折り。四つ折りにされた髪の中に、南海の髪が溜まっているのが、影のように薄く透けて見えた。折角手間をかけて集めた髪を間違っても吹き飛ばさぬように、息を詰めて部屋の隅へと運んでいく。金塊でも運んでいるかのような厳重さに、南海は唇だけで笑った。
 床の間脇の引戸には、南海の髪を溜めておく袋が納められていて、肥前はそこへ先程切ったばかりの髪をこぼさぬように足していく。油紙でできた角底袋の中身はこの間の休日に布団に移したばかりだから、ほとんど空に等しかった。
「どうせなら、手入れで数珠丸くんぐらいに長く伸ばせたらよいのにね。そうすれば、随分効率がいい。研究してみようかな」
「あんまり手入れの回数が増えると、長谷部あたりに怒られるぞ」
「資材なら、肥前くんが遠征の時に、余計に拾ってきているじゃないか。こういう時の為だろう?」
 ハッと目を見開いた肥前が、そうだけど、と悔しそうに漏らす。ただ事実を指摘しただけだというのに、眉間に寄せる皺の理由がわからず、南海は首をかしげた。

 刀剣男士とは古今東西の名刀名剣を逸話によって形作り、審神者の力によりこの世に人の似姿として顕現させたものである。生きとし生けるものの理とは異なる理で存在するものとして、その存在は定点で固定され、時の影響を受けることがない。それ故、たとえ人の姿をしていても、その髪も爪も伸びることはなく、食事や排泄を必要とせず、夜に眠ることもない。ただ人の身を与えられた習い性として人の真似事をしているだけにすぎず、この世のものではない刀が折れるその時まで、本来ならば存在しないはずの肉体もまた、不変の理の中に置かれるのだ。
 その刀剣男士の肉体で、工作をしようと言い出したのは、一体どの刀だったのか。
 南海と肥前が政府より所属を移したこの本丸では、戦闘により損壊した肉体を用いて、什器を作るのが習いとなっていた。石切丸の背の皮を使った抱鞄、日本号の頭蓋を使った盃、秋田藤四郎の腕の骨を使った箸、それから刀剣男士たちの肉の脂肪を溶かして作った石鹸。戦場で切り離されたそれらを持ち帰り作成される品々は、生活のありとあらゆるものに及んだ。
 刀剣男士の死体とは綺麗なもので、血も肉も所詮は紛い物だから、切り口に血が滲むぐらいで、放っておいても虫が湧くこともなければ、土に返ることもない。しかし、一度切り離されたものは審神者の力の範囲外なのか、二度と繋ぐことはできず、切れれば切れたでそれだけだ。腕が飛ぼうが首が飛ぼうが、手入れにはより多く残った部位で事足りるから、残った部分は単なる余りになる。解かして資材が手に入るでもなし、そのままにしておくのは勿体ないからと、獣の死骸を加工するように、仲間の体から新たな物を作り出すようになるのは当然の帰結と言えた。
 まあ、腐りもしませんし、焼却する他ありませんからね、と言ったのはこんのすけである。りさいくるは地球環境にもやさしいですからね。好感度も高いですよ。
 政府にいた頃には考えもつかなかった肉体の使い道に、はじめは戸惑った二振りだったが、元々、時間遡行軍の残骸から罠を作ろうなどと言い出した南海が事態を受け入れるのは早かった。興味津々で他の刀の作品を見て回ると、自分も作りたいと言い始めた。南海が一度興味を持てば、誰にも止めることは難しい。早速、他の刀に習って、箸やら筆やらの細工からはじめたが、しかし、少しも経たない内に細かい作業は苦手だと早々に匙を投げてしまった。
 一方で、元は他人の肉体の一部だったのだと、触れることさえ躊躇していた肥前が南海の髪を集めはじめたのは、何度目かの出陣の折、目の前で南海の首が飛んだ日からである。慌てて頭を拾い上げたが、かといってどうしようもなく、しかしそのまま捨てて置ける筈もない。その日、肥前は片手で首のない南海の手を引き、もう片手に目を閉じた、まだ温かい生首を抱えて本丸へと帰還した。
 南海を手入れ部屋へと押し込んで、残った生首を、さてどうしたものかと膝の上に乗せる。切り口はスッカリ乾いていて、血の垂れることもない。常日頃、肥前以外の事柄で一杯になっている頭は、今はただ肥前の手の内にあって大人しく転がっている。それが物足りなくもあり、嬉しくもある。不思議な気持ちだった。確かについ先程までは南海の体の一部として、喋ったり食べたりしていたものが、物のようにして転がっているのは。
 乱れた髪を片手ですいてやれば、時間遡行軍の返り血だろうか、パラパラと乾いた血の塊が落ちて股引を汚す。ゆるくうねる黒髪は血の汚れが目立ちにくいから、戦闘中から今まで気づかずにいた。何度か繰り返してスッカリ汚れを落とし終えると、もうすることがなくなって、ただ入側に腰かけて、首を抱えてボンヤリと庭木を眺めるだけになる。隠居した老人のようだと思うが、肥前にはこれといった趣味もないから、それより悪いかも知れない。
 手入れ部屋前の入側の突き当たりは資材置場になっていて、戦場帰りの刀しか用がない。肥前は誰に見咎められる事もなく暫くそうして座っていたが、遠征帰りらしい風呂敷を持った宗三左文字が通りかかって、
「頭が手に入るのはなかなか滅多にない、珍しいことですよ」
 と出し抜けに言った。この南北朝生まれのきらびやかな刀と肥前とは、片や天下人の刀、片や人斬りの刀と一見、正反対の性質を持っていたが、人の命運を変えた物同士として、意外にもどうして仲が良かった。
 ノロノロと振り返れば、面白いものでも見つけたように、色違いの目を弧にする。肥前とは違い、宗三は死体の加工に忌避感がない。どころか嬉々として兄弟の腕やら足やらを集めては、匙だの筆だのに仕立てている。
 無理に周囲に勧めることはないが、これみよがしに新たにこれを作っただの、今度は何を作る予定だのと自慢して回るので、実際は仲間を増やすのに手ぐすねを引いて待ち構えているのは間違いがなかった。
「……おれはそういうのはやんねえよ。大体、これは先生の首だ。おれがどうこうできるもんじゃない」
「あなた、まさか南海太郎にその首を返すつもりですか? すぐに実験だなんだと切り刻まれて、跡形もなくなりますよ」
 そう言われて、肥前は押し黙る。細工物は飽きたようだが、他でもない自分の首だ。普段から遠慮会釈もない性格の南海のことだから、切って開いていじくり回して、中に爆薬でも詰めて、罠の代わりにするなどと言い出してもおかしくはない。本人はそれでいいだろうが、肥前は嫌だと思った。それを他ならぬ自分との相部屋でやられるのも、耐えられそうにない。
「……どうしろってんだ」
「最近、兄さまと小夜の髪を集めて、布団をこしらえてるんです。僕ら兄弟は三人とも、それなりに髪が長いでしょう。敵に斬られたりすることもあって、集まりやすいんです」
「……ふぅん」
「まぁ、あなたの好きにすればいいと思いますよ」
 肥前のいらえに手応えを感じたのか、ニヤリと笑って、宗三は会話を打ち切った。言いたいことは言い終えたのか、用を済ませて弟と柿を食べるのだと聞いてもいない予定を口にして、宗三はサッサとその場を去っていく。その背中を肥前は引き止めることなく見送った。
 手入れを終えた南海に頼んで、正式に首を手に入れた肥前は、その後、万屋で布団皮を一枚購入した。最初に布団へと詰め込まれたのは、毛先から顎の下までの、わずか四寸ほどの髪の束だった。短くなった髪を整えられた後、綺麗に顔を拭われた生首は、コッソリと床の間の脇の押入れにしまわれた。

「もう寝よう、先生」
「今、丁度いいところなんだがね」
「いつもそう言うじゃねえか」
 短くなった髪を触りながら、そうだったかね、と南海がとぼける。そうだよ、と肥前は返して、さっさと南海の手から本を取り上げて机の灯りを消してしまう。途端に部屋は障子越しの僅かな月明かりのみとなった。
 腐らぬ体は睡眠を必要としない。刀だった頃の知識が人間を真似ているだけで、幾夜でも眠らずに読書を続けることも出来れば、声を掛けられるまで起きずにいることも出来る。陽の運行も季節の移ろいも関わりがなく、ただ戦いの為の道具としてあることも出来る。
 それでもこの本丸に顕現した刀剣男士達はその選択をしなかった。畑を耕し、飯を食い、物を作って、身体を休める。人のように日々を営む。その意味を、肥前も少し、理解し始めたような気がする。
 ブツクサと呟かれる文句の割には、大して抵抗のない体を引き寄せる。南海の体は、体格の割には軽くて薄い。両脇に腕を差し入れれば、さして苦労もせずにズルズルと布団へと引き込めた。クスクスと漏れ聞こえる笑い声は、どうしようもない駄々っ子を許すような響きを含んでいて、年若い刀の生意気を、肥前は抱きしめる腕に力を込めることで咎め立てる。
「僕の面倒を見るふりをして、君はちゃっかりしているね」
「おれに面倒見られる先生が悪いんだろ」
 南海の眼鏡を外して枕元に置きながら、その口を吸った肥前に、呆れたように南海が言う。はねていた布団を被り直しながら、肥前は自分より見た目だけは年上の男の体に体を寄せた。
「こうすれば布団の薄さなんて関係ないだろ。俺は体温が高いから」
「まあ、そうかもしれないね」
 身動げば中身の少ない布団が擦れて、シャラシャラと音をたてる。刀剣も肉の体を得たからには、木や草や獣や魚と同じと言えるのかもしれないが、なまじ人間と同じ見た目であるが故に、その一部から作られた器物は、肥前には人の血肉を思わせた。勿論、それを誰かに告げたことはない。人斬りの刀の癖に、今更、さも繊細だと思われるのが嫌だった。
 どうしてか、肥前にとって、南海は最も死から遠いところにいる。肥前の元の主に人斬りを命じたのは南海の主だったが、肥前は彼が南海で人を斬ったところを見たことがない。一度欠けた刀は記憶が欠落するというから、その所為かもしれないが、腰に佩かれたところを見た気はしても、血を浴びた抜身の姿を見た覚えはいっかなない。しかし今の南海の太刀筋には無駄がなく、敵を斬るにも容赦がない。刀として振るわれたことがないとは到底思えないが、本人までもが刀工を基にした顕現だと言う。打たれたばかりの刀であれば、やはり人斬りには縁遠く、血の匂いのしないのは当然のようにも思えるが、肥前には難しいことはわからない。ただ南海の肉体だけが、肥前にとっては刀の頃と同じ、鉄と鋼でできた命を持たぬ無機物に思える。それだけのことだった。
 抱きかかえた南海の体温の低い体に、肥前の体の熱が移っていく。人の手に握られた刀のように、触れたところがジワジワと温くなる。
 こうして共に眠る言い訳がつくのであれば、冬までに布団がいくらも厚くならなくとも構わない。昔の人は、眠るときまでも刀を抱いていたというが、それが最後の身を護る術だったからだろう。肥前にとっては、自分から熱を奪うこの体は、ひとつの救いのように思える。
 目を閉じたまま肩口に顔を埋めれば、短くなった毛先が頬を擽った。背中に骨張った腕が回るのを感じて、ゆっくりと息を吐く。
 冬はもう、すぐそこである。

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2022/06/26

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