絵軸の男

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肥南 / パロディ

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「これはなかなか、涼やかだね」
 購入したばかりの掛軸を床の間へ掛け終えて、ふむ、と南海は満足気に息を吐いた。散歩がてらフラフラと馴染みの骨董屋に寄った際に、先生好みの掘り出し物だぜ、と若白髪の店主に頻りに勧められて購った品である。
「夜になると絵に描かれた首が呻くんだと。君、こういうの好きだろう?」
 笑いながら告げられたおどろおどろしい口上に、うん、と素直に頷いたのが運の尽きだ。あれよあれよという間によく回る口車に乗せられて、少なくはない金子を巻き上げられた。その手腕と言ったら見事という他はない。こちらとて左団扇で暮らせるほどの暮らしはしていないのだが、なんとか出せる、というぐらいの、ギリギリの値段を吹っ掛けてくるのが、酷く厭らしいと思う。
 まあしかし、南海は満足していた。良い買い物をしたと言えるだろう。これで本当に呻き声が聞こえれば、重畳だ。
 まじまじと南海は掛軸を眺める。江戸の末期の絵だというから、精々が今から数年前の出来で、大して古いものではない。名のある絵師の作でもない。落款も何もない、ただ曰くがあるだけの、それだけの絵であった。黒い天地に赤茶の風帯がかかっている。柱に使われているのは擦れたような使い古しの布切れで、煤か埃かはわからないが、よくよく目を凝らさなければ地色が緑だとはわからない程に汚れている。風帯と同じ巾でできた錆色の上一文字。全体的に沈んだ色の表具に、本紙だけが抜いたように白い。折れ線の幾筋もついたその中に、男の首がポッカリと、吊られたように浮いていた。
 若い男の首である。それなりに見目の良い顔形をしているが、けれども眉間に皺が寄り、目をつむって口を引き結んだ表情は、尽きぬ悪夢によって魘されているようにも見える。顔だけを見れば眠っているようだが、首の中ほどをバッサリ斬られ、断面からは赤い血が滴っている。その血の赤が、ハッとするほどに鮮やかで、ただの絵ならぬ凄味があった。
 打ち首絵だ、と店主は言った。京のみやこを騒がせた人斬りだが、御一新の前に捕まって、首を斬られて晒された。その姿を写したのだという。
 少年を少し過ぎたぐらいの男の顔は、とてもではないが恐ろしい人斬りのものには見えない。海辺で魚でも捕って暮らしているのが似合いそうな、そういう顔つきをしている。どういった経緯で彼は人斬りに落ちたのか、それとも本当は人斬りでもなんでもない、無関係の他人の顔なのか、そういった事情にはそれほど興味が湧かなかった。ただ、本当に絵の首が呻くのか、それを楽しみに、南海は床についた。

 その晩、期待していたような声はまるで聞こえなかった。次の晩も、その次の晩も、常と変わらず静かなもので、南海はガッカリしながら骨董屋を訪ねた。
「鶴丸くん、先日の掛軸だが、前評判と違ってウンともスンとも言いやしない。残念で仕方がない」
 それを聞いた店主は、一寸虚を突かれたような表情を浮かべた後、ケラケラと大笑いした。
「そりゃ、良い話じゃないか。何者かはしらんが、きっと成仏したんだろ。君、徳を積んだぜ」
「でも、僕は絵の首が呻くというから大枚叩いたんだよ」
 成仏等と冗談ではない。話が違うと必死に言い募る南海に、店主はウーンと腕を組んで、
「君のことだ、どうせ夜はサッサと眠っているんだろう。せっかく絵が呻いているのに、寝ていて気づかないんじゃないか。それじゃあ、絵の方だって呻き甲斐もないってもんだろ。一度ぐらい、夜まで起きて見張ってみたらどうだ。俺も客からせがまれているし、いい加減、ろくでもない研究ばかりでなく、仕事のひとつもしてくれていいんだぜ」
 と嫌味混じりの助言をしてくれた。
 それには答えず、成程成程と頷いて、南海は骨董屋を後にした。

 店主に言われたからという訳ではないが、その日の夜、南海は掛軸を飾った次の間に、二曲一双に仕立てた屏風を広げていた。以前より得意先からは何度も催促を受けていたのだが、研究が忙しくて手がつけられていなかったのだ。しかし、打ち首絵に随分と金がかかったことでもあるし、ここらで金になる仕事をするのも悪くはない。南海は自分の本職を国書の研究者と自負しているが、世の人は南海のことを絵師だと思っているらしく、実際にも親の遺産とたまにくる絵の依頼とで日々の暮らしを立てていた。
 御一新を経て世の中は随分と変わった。幕末の動乱の前、南海は土佐の親元で暮らしていたが、世が変わると言う父に連れられて一家は京に登った。暫くは私塾に通っていたが、絵の才能があると言われ、狩野派の絵師に弟子入りした。絵師の弟子と言えども最初から絵を描かせてもらえる訳ではない。筆の稽古だと手習いをさせられるうちにすっかり嫌になってしまって、その頃にまた、父母が相次いで世を去ったこともあり、南海は早々に絵の道に見切りをつけた。師匠も、いつまで経っても変わらぬ南海の悪筆に余程閉口していたのか、引き留めることもしなかった。既に嫁いでいた姉と等分した財産はそれでも少なくはなく、それからの南海は興味の赴くまにあちこちの塾に顔を出し、書籍を購い、旅に出た。こうして一所に落ち着いて絵の仕事を始めたのは、ここ一二年のことである。元から仲間内の座敷芸として筆を取ることはあったが、それを買いたいという奇特な人間が出てきて、いつの間にやらそちらが本業のような扱いを受けるようになった。
 けれども時代の波に飲まれ、こうした仕事も段々と減っていくのだろう。ツラツラとそんなことを考えながら、南海は屏風の前で腕を組み、構図を頭のなかに思い描く。客からの依頼は夏らしいものを、とのことだった。少し悩んで、葦でも描くか、と当たりをつけた。葦原の中を高瀬舟が一艘進んでいく。その舟の舳先から鷺が飛び立ってゆく。葦は国生みにもある植物で縁起が良い。鷺もまた

右隻に舟を、左隻に鷺を描こうと決めて、手元の紙にサラサラとおおまかな下絵を描く。幾度か描き直して、漸く納得のいくものができたのは、丑の刻も疾うに回った頃だった。
 細筆をとって、屏風に向き直る。一度、目を閉じ、息を吐く。さあ描くぞ、と床に広げた右隻に筆の先を下ろした、その時だった。
 シクシクと、誰かの啜り泣く声が聞こえる。小さな声だ。無理矢理押し殺したような、幽かな泣き声だった。
 墨が広がらぬようにゆっくりと筆を持ち上げる。声は隣の、掛軸を飾った部屋から聞こえているようだった。これ程小さな声であれば、眠っていては気づかないのも無理はない。
 ソロソロと筆を置くと、南海は音を立てぬよう立ち上がり、隣の間へと続く襖を僅かに押し開いた。
 隙間から覗く部屋は、いつもと変わらぬようだった。灯りひとつない部屋の暗闇のなかに、襖の隙間から光がスウッと射し込んで、それだけがはっきりと見える。途端に、ピタリと声が止んだので、今度は何の躊躇いもなく、南海は襖を開け放った。部屋の隅においた角行灯の光が、隣の間の半ばまでを照らす。南海は屏風の脇に置いていた手燭を取ると、ズカズカと掛軸へと歩み寄った。灯りを寄せ、ぐいと顔を近づけて、なにかしらの変化がないかと目を凝らす。描かれた表情に違いはない。青年の顔は相変わらず、悪夢に魘されたように歪んでいる。首から垂れる血はテラテラと、今まさに流れているように赤く光る。不意に、鼻先にプンと血臭が香った。
 ホウ、と南海は目を開いて、指先を掛軸へと伸ばす。首の断面へと触れた指の腹は、ニチャリと粘ついた音を立てる。離せば、ツゥと細い糸を引いて、溜まった血の粒がポトリと床の間に落ちた。
「成程ねぇ」
 と南海は呟いた。夜毎、夜毎に斬られた首から血が流れ続けるというのなら、痛みに泣くのも仕方がないだろう。掛軸を壁から外すと、南海は再び画材を広げた隣の間へと戻った。

 次の晩、人の気配を感じて、南海は目を覚ました。灯りを消した室内で、枕元の闇が戸惑ったように蠢く。
「調子はどうだい」
 南海の声に、闇はピタリと動きを止めると、
「大分良い」
 と諦めたように答えた。もう少し高い声を想像していたのだが、思い描いていたよりも、落ち着いた男の声だった。
「灯りを取ってくれないか。あぁ、眼鏡があるから、踏まないように」
「はぁ」
 上体を起こしながら注文をつけると、男の溜め息が聞こえてきた。間を置かずに、ポッと部屋の隅の角行灯の灯が点る。闇になれた目を細めながら見やれば、見知らぬ男が行灯の傍らに膝をついていた。年の頃は十代の後半、二十にはなっていない。草色の衣の裾をからげて、下に黒の股引きを履いている。鉄色の羽織の上からもわかるほどに、薄いからだをした若者だった。吹けば折れそうな頼りない体つきは、しかし、眼光の鋭さ故に、抜き身の刀のようにも見えた。腰に差した脇差の鞘には、使い込まれたような艶があって、こうして見るとそれなりに人斬りに見えるなと、南海は漸く思った。
「あの、先生」
 上から下までジロジロと己を検分する視線に怯んだように身動ぎしながら、おずおずと男は口を開いた。
「先生、ふむ、先生とは僕のことかね」
「気に障ったか」
「いや、知り合いにもそう呼ばれているからね、別段気にはならないけれど」
「そうかよ」
 ほっとしたように男が息をつく。
「おれは学がないからよくわからねぇんだけど、あんた、昼間は随分と難しそうな本を読んでいるじゃないか。だから、なにかの先生だと思ってたんだが」
 その、とそこで男は言葉を切って、戸惑いがちに己の首に触れる。スッパリと斬り離されていた首には包帯が巻かれ、鎖骨の浮き出る胸へと続いていた。
「この恩に報いたいんだが、おれは生まれてこの方、人斬りしかしたことがない。だから、あんたの敵を、誰でも殺してやろうと思って」
 俯く男の前髪が表情を隠す。その後頭部を見ながら、南海はフワァと大きな欠伸をした。
 昨晩、掛軸を外した南海は、流れている血を拭き取ると、上から胡粉で首の切断面を隠してしまった。墨で包帯をグルグルと巻いてやって、首から下の体を新たに描き足してやった。それは単にこの加筆によって呻き声がどう変わるかという興味であったが、どうやら、男にとっては余計な世話とはならなかったようだ。
 まさか、男が実体を得て、絵から出てくるとは思わなかったが。
「言いたいことはそれだけかね?」
 目を頻りに瞬かせながら、南海は聞いた。えっ、と驚いた声をあげた男は、気圧されたように頷いた。
「ならば、僕はもう一度寝かせてもらうよ。君も知っての通り、昨日は遅かったからひどく眠たいんだ」
 男の体を描く作業を終えたのはすっかり日が上った頃だった。何もなければ眠ってしまいたかったが、朝から出かける約束が入っていて、夜になって漸く眠れたところだったのだ。
「僕の方は幾つか質問があるから、そうだな、明日の朝、また話を聞かせてくれたまえ」
 言いたいことだけを言い終えると、おやすみと南海は布団をひっかぶった。嘘だろ、本当に寝るのか、と男がブツブツ言っているのが聞こえたが、睡魔はすぐにやって来た。

 翌朝、目を覚ました南海は、数刻前と同じく、枕元に男が所在無げに座っているのを見て、おや、と声をあげた。
「君、昨日からずっといたのかね」
「あんたが、朝にまた話をするって言ったんじゃねえか」
 おれはこれっきりにするつもりだったのに、と男が疲れたように肩を落とす。そうかそうかと返しながら、南海は壁際に置いた文机へと這うようにして手を伸ばす。起き上がらぬまま、引き出しから帳面と筆を取り出すと、では早速、と男に向き直る。
「まずは名前だ。君、名前はあるかね」
「おい、朝飯はいいのか」
「僕は朝は食べないんだが、君はなにか食べるかね?」
 興味深いね、と笑えば、男は頭痛をこらえるように頭を抱えた。
「なんなんだ、あんたは……おれが怖くないのか?」
「これは異なことを聞くね。君は僕に恩義を感じているんだろう」
 こくり、と男が頷くのに合わせて、南海は笑った。
「なら、恐ろしいことはないだろう。君は僕を傷つけない、いいね?」
 男は戸惑ったように体を揺らしたが、やはりまた、こくり、と頷いた。それから南海は男と幾つか話をした。
 肥前、と名乗った男は、もはや絵に戻らず、昼も夜も南海の傍にいて、南海の世話を焼いたり、南海が絵を描く傍らで眠ったりした。そのうちに、字の下手な南海に代わって画賛を書き入れたり、研究の手伝いをするようになった。いつ頃からか随分字が上手くなったと他人に誉められるようになったが、南海は笑って仔細を話すことはなかった。

 南海の死後、彼の住居の床の間には、何も描かれていない真っ白な掛軸が、ひとつ残されていたという。

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2023/05/06

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