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夢司書 / 女司書 / ほの暗い

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「ようこそおいでくださいました、夢野久作さま」
 夢野久作が二度目の生を受けて初めて目にした物は、四方を本棚に囲まれた薄暗い小部屋とその中央に立つ陰気な成りの若い女だった。
 五畳半の部屋には明かり取りの窓もなく、ニスが塗られただけの木地の本棚は高さ二間程ある天井を押し上げるように上へと伸びている。棚一杯にギッシリと詰められた本の種類は様々で、和本もあれば洋本もある、辞典もあれば雑誌もあるといった具合に、古今東西の書籍を手当たり次第に詰め込んだような様相だった。天井には花型のガラス製洋燈ランプがひとつきり吊るしてあって、ソレも本の劣化を抑えるためか、随分と光量を絞ってある。最下段に並ぶ本などは半ば闇に沈んで、背表紙の書名すらも読み取れないほどだ。
 極楽にしては余りに暗く、地獄にしては明るすぎる。まるで穏やかな悪夢のような、そんな部屋だった。
「――久作さま、お身体に違和感は御座いますでしょうか」
 ボソボソと何かを話し続けていた女が不意に己の名を呼んだので、夢野は目をしばたたかせる。己では己のことを夢野久作であると自覚していたが、それでもその名を他者から呼ばれることに、驚きに近いものを感じたのだ。此処が死後の世界であるというなら、女もまた彼の世の住人であろうから、夢野の名を知っていてもおかしくはない。だが、死後の世界で生前の名が通用するというのもまた、おかしな話ではなかろうか。大体が夢野久作というのも数ある筆名のひとつであって、杉山萠圓の名で出した話も、香倶土三鳥の名で出した話もある。曹洞宗の寺で出家した時の名もあれば、禅僧として名乗った名もある。死後のことだから分からないが、恐らく寺で戒名も付けてもらったのだろう。なのにそのどれでもなくて、夢の久作のごたる、と父の漏らした、その名で呼ばれるのはやはりおかしな話だと思った。
 女は何の応えもない夢野に気を悪くした風もなく、ただ淡々と話し続けた。曰く、自分は〈特務司書〉という職業の者である。特務司書とはこの国の文学を守る為に働く公僕のひとつであり、この部屋は彼女の職場である〈帝國図書館〉の一室である。夢野に二度目の生を与えた、正にそれこそが特務司書の特務と呼ばれるに足る能力であり、帝國図書館には彼女の力によって既に名だたる文豪文士が再びの生を得て名を列ねている。夢野にもまた、それら先人の列に加わって文学を守ってほしい。そういう話だった。
「否といえば、どうするんです」
「その時は、元の場所へお帰り頂くことになりましょう」
 その時になって初めて、女が革装丁の四六判の洋書を手にしていることに気がついた。仄明かりの下で闇に溶けるように暗い臙脂の革表紙は、四角をそれぞれ鉛で補強してある。今は真ん中からパックリと開かれて、白い薄い掌が黄みがかった頁を撫でていた。掠れたタイポの並びはどこか見覚えがあったが、この暗さではハッキリとは読み取れない。
「断れば命はない、ということですか」
「物騒な事を仰らないで」
 女は微かに笑んだようだった。一度死んだ自覚のある夢野にとって、元の場所とは黄泉のことだったが、頁を離れた女の左手がスイと糸を吊り上げるような仕草をして、貴方さまの魂は、と静かな声が先を続けた。
「或る方がこの本から掬い上げたのを、私が此の世に存在するように仮初めの体を与えました。本の中にあるままでは、侵食に抵抗する術は御座いませんが、体を保つ限りは敵を打ち倒すことも可能ですから」
 それだから、魂が本へと戻るだけだと女は言う。殺人などという野蛮なことはなにもないのだと。
 女の言うことは荒唐無稽であり、信ずることは到底できそうになかった。けれど、死人が蘇る以上の不思議がある訳もなく、このまま何の話の種も拾わずに地獄に逆戻りするのも酷く詰まらない事のように思われたので、一先ず女の言を受け入れることにした。ましてや、戻る先が地獄かどうかも定かではない。
 女は――司書は礼を言って洋書を閉じると、夢野を部屋の外へと誘った。扉の向こうには緋毛氈が敷かれた廊下が左右に延びており、出てきたのと同じ木製の扉が等間隔に並んでいた。男が一人、真横の壁に凭れて立っていて、司書と夢野が出てくるのを待ち構えていたように身を起こす。艶のある黒髪を顎の辺りから三つ編みにした、スラリとした若い男だ。男は手持ち無沙汰に髪を弄っていた手を止めて、人好きのする笑顔を見せた。
「なんや、もう終わったんか?」
 はい、と司書は頷いて、こちらが、と男へと手を伸べて夢野を見た。
「夢野久作さまの魂を掬い上げた、織田作之助さまです」
「おっしょはんは相変わらずかったいなぁ。どーも、オダサクこと織田作之助です。これからよろしゅうな」
 西の訛りが強い口調で織田作之助と名乗った男はヘラリとなつっこく笑った。聞き覚えのない名前だが、この場にいるということは彼もまた文豪と呼ばれるに値する作家なのだろう。
「それでは、よろしくお願いいたします」
「おう、任せとき」
 司書はキッカリ四十五度の礼をすると、踵を返して左の廊下へと歩き去った。思わず後を追おうとする夢野を、
「夢野センセはこっち」
 と織田が腕をつかんで引き留める。
「彼女は?」
「あぁ見えて、ごっつう忙しいねん。なんせ、ワシらの世話だけやのうて、侵食者の研究までせなあかんからな」
 そやから、センセはワシと来てな、と言って、織田は司書が歩き去ったのと反対方向へ歩き出した。夢野より頭半分高い男の、腰まで垂れた長い三つ編みが左右に揺れるのを追いながら、夢野は去っていった司書の後ろ姿を思い出していた。わずかにかいま見えた洋書の背表紙――そこには確かに見覚えのある『ドグラ・マグラ』の七文字が書かれていた。

 此処が食堂、此処が補修室と一通り図書館の設備を説明された夢野は、一度私室となる洋間に案内された後、織田に連れられ、再び談話室へと戻ってきていた。一面に腰高窓が並ぶ二十畳程の洋室には織田と夢野以外に人影はない。レースのかけられた飾り棚の上に花瓶と隣り合って置かれた金の置き時計だけが、カチカチと規則的な音を立てている。先端に白蝶貝が嵌められた短針は、十一と十二の丁度中頃を指していた。窓の外の景色は既に暗く沈んでおり、ガラス越しに見える庭園の街路灯に照らされる範囲だけが、おぼろげに植生の輪郭を見せる。
「この時間やったら、起きとる人間は大体バーにおるんとちゃうかな」
 夢野にソファを勧めながら、織田は慣れた様子で壁際の棚から白磁の珈琲茶碗コーヒーカップ碗皿ソーサーを取り出す。金の縁取りに紅色の花模様が描かれた華奢なつくりの一揃いは、此処での生活に余裕があることを感じさせた。
「珈琲にします? それともお茶の方がええかな」
「貴方は?」
「ワシは珈琲」
 同じモノを、と言えば、りょーかい、と軽い了承が返って、入口脇の水屋へ織田の姿が消える。数分も経たない内に再び現れたその手には丸盆が載せられており、二脚の茶碗から白い湯気が立っていた。
「永井センセから貰うたチョコレートが残っててラッキーやったわ」
 ホイ、と小卓に置かれた薄紅色の化粧箱と共に聞こえてきた名前に、夢野は思わず聞き返した。
「永井先生?」
「永井荷風センセや。流石に永井センセは知っとるんやね」
「えぇ」
 永井荷風の名は福岡の田舎文士である夢野にも聞き覚えがあった。ただし、名を知っているだけで、直接の交誼は無い。活動家であった父のこともあり、夢野は東京の文壇には縁遠く、その人となりを知っている者は少なかった。
 化粧箱から薄い板状のチョコレートをつまみ上げながら、えぇと、と織田は何かを数えるように指を折る。
「今図書館におるのは……三十人くらいかな。有名処もようけおるでぇ。森鴎外センセに夏目漱石センセ、正岡子規センセ、北原白秋センセ、太宰くんの大好きな芥川龍之介センセ」
 太宰くんっていうのは、ワシの友達なんやけど、と織田が言うのに、生返事で頷く。次々に上げられる名前は確かに夢野でも耳にしたことのある人物ばかりだが、やはり知り合いと言えるものはいない。
 反応の薄い夢野を気にした風でもなく、織田は話を続ける。
「夢野センセはワシらが……文豪が、なんで此処に喚ばれたかは聞いた?」
「えぇ。簡単に、と言ったところですが」
 あの狭い一室で司書から告げられた言葉を、夢野はかいつまんで復唱して見せた。
 夢野の死より疾うに数百年が経ったこの国の文学は、今、未曾有の危機に瀕している。〈侵蝕者〉と呼ばれる正体不明の勢力により、過去の文学作品が次々と改変及び抹消されているのである。夢野のような無名に近い作家の作品でさえも、その魔手は止まるところを知らず、ほとんど手当たり次第と言って良い。凡そ、この国の文学と名のつくモノはすべて標的と考えて良いほどだという。
 一方で、侵蝕者に対抗するのは誰でも良いというわけではない。一定以上の文学的素養を持ち、文学作品の中へ直接介入のできる資質を持つ者だけが、侵蝕者と対峙することが出来る。
 文学への介入――司書曰く〈潜書〉とは、アルケミストの素質を持つ者しかなし得ないのだという。アルケミスト! 文明開化も明治維新も遥か遠く、ましてや夢野の生きている時代からは信じられないほどに科学の進んだ世にあって、無から金を生み出す技術が真に存在しているとは驚きだが、夢野に再びの肉体をもたらしたのが、何を隠そうアルケミーの技術だった。
 アルケミストに浪漫は必要だが、浪漫趣味の者が必ずしも文学に通じている訳ではない。とはいえ、文学に通ずる者もまた、アルケミーの才能を持つかどうかは本人の資質による所が大きく、これが現時点で、態々過去の文豪達を転生させてまで戦いへと駆り出す理由である。アルケミストによって与えられた肉体はアルケミーの成果そのものであり、文学の才能は言うまでもない。
 要は今を生きる人間にとって、自分達はひどく都合の良い存在なのだろう。文学を守るというただそれだけの目的を果たす為に存在する人間。いつでも使い捨てにできる操り人形。元より死んでいる存在は、生きている者との縁が既に無く、たとえ戦いの最中に不幸にあったとしても、無が無へと帰るだけである。悲しむ者もなければ、怒鳴りこんで責任を追及する者もいない。立場の弱さは明白で、腹が立つより生者の身勝手さへの呆れが先立つ。一度喪った体を再び与えることが可能ならば、二度目三度目もやはり可能なのだろうか。とはいえ死人ゆえの寛大さか、それとも諦感か、己の存在を他人に良いように扱われることに対する恐怖はない。ただ、何故そこまでして、という疑問が勝った。
 ヒトをヒトたらしめているモノは言葉なのだ、と司書は語った。言語の獲得により、ヒトは唯此処にある一瞬を離れ、永遠という概念を得た。永遠の中では誰もが己を見失い、また再び獲得する為に、己の中に言葉を蓄積していく。だからこそ、文学を守ることは、ヒトの歴史を、未来を、命を守ることなのだと。
 私もまた、言葉によってある存在なのです、と口にする司書の相貌からは、何の感情も読み取れなかったが。
「言うて、それほど悪い暮らしでもないで。二度とでけへんと思っていたことができる。会われへんと思っていた人にも、会える」
 折角の機会や、楽しまんと損やしな、と笑う織田の顔は、声の明るさとは裏腹に、少しの愁いを帯びていた。ソレは現状への不満というよりも、何か、得体の知れないモノに対する怯えのように見えた。
 僅かに溢れた感情を取り繕うように口を閉ざした織田の瞳を、夢野はジッと見つめる。瞳の裏側、感情の根本、人間の内側を覗き込むのは、生前からの趣味だった。
「まるで夢のような、ですか」
 推測を口にすれば、織田の兎に似た赤い瞳がパチパチと瞬く。赤い瞳の人間も、ここまで髪の長い男も、夢野は生きている間はついぞ見なかった。スラリと縦に長い痩身は日本人離れして、肌の色も白に赤みがかって、陶器でできた西洋人形のようだった。かくいう夢野もまた、胸の前に長い榛色の髪を真っ直ぐに垂らして、黒の手袋から僅かに覗く肌は象牙の色をしている。これは己が知る己の姿とはまったく似ても似つかないが、それでも奇妙に自分自身の身体であるという確信があった。それこそ、まるで夢の中のように。
「……夢、か。そうやなあ」
 フワリ、と織田が笑う。それまでのわざとらしささえ感じる明るいだけのものとは違う、柔らかい笑みだった。
「あんまりエエ夢やから、覚めるのが恐ろしいのかも知らん、なぁ」

 果たして、夢野の第二の生は、順風満帆と言って差し支えなかった。夢の中にしては、しがらみも不自由も存分にあったが、父親や金策に翻弄されないだけでも夢野にとっては十分に恵まれた生活だと言って良かった。図書館には金や酒、女によって破滅を経験した文豪達も幾人かいたが、制限された自由の中では金の使い道も決まっていたし、新たに与えられた体はどれほど酒に酔ってもけして飲まれることはなかった。薬を常用する者もまた同様で、薬を飲むことはありふれた娯楽の一つと化し、それによって体調を崩したり精神に異常を来す迄には至らない。また、外に出れば他の女と会うこともあるだろうが、こと図書館の中では、女の性を持つ者はあの司書しか存在しなかった。何よりも、日々の暮らしに窮したり、他者からの承認に苦しんだり、重すぎる期待に悩んだりする必要がないことが、精神に安定をもたらしているように見えた。そもそもが皆、死人である。図書館に集う旧縁との関係以外に、心を煩わすことは何もない。
 図書館には司書の他にも数人の生者がいて、やけにがたいの良い館長と呼ばれる壮年の男と、館長代理と名乗る喋る猫、生意気だが大人びた双子の子どもの三人と一匹は、その誰もが司書よりは饒舌で、文豪達に対して友好的な態度を崩さなかった。研究対象として見られていると感じることも度々あるが、錬金術師の名に相応しい人並外れた好奇心が理由と思えば不快という程でもない。顔を会わせる回数は司書の方が多いというのに、館長の恋愛遍歴や猫の好物、双子の休日の過ごし方等を知るようになっても、司書のことは何一つわからないままでいる。
 不思議なことに、生前、どれだけ浮き名を流した文豪であろうと、司書に手を出す者はいなかった。無論、何気ない会話はする。猫がじゃれつくような他愛のない言葉を投げかけ、外出した際には土産を持ち帰る者もいる。自身の著作を勧め、茶会に招き、時間が合えば食卓を共にすることもある。しかし、それだけだ。誰もがそれ以上の関係へと踏み込むことができずにいる。たまたま同じ職場で働く同僚以外の何者にもなりきれない。友人にも、ましてや恋人には。
 司書は落ち着いた言動とは裏腹に、よく見ればまだ若いと言ってよい年頃のようだった。肌の張りや体の線からして、二十代半ばであろうと文豪達は推察した。司書はその歳の子女にしては地味と言っていい、飾り気のない紺色の、脹ら脛の中程までの丈をした詰襟の長衣ワンピースを常に着用しており、僅かに覗く足元も白い靴下を履いていて、顔と両の手ぐらいしか、肌の見えるところがなかった。化粧っ気はなく、貴金属の類をつけている所を見た者もいない。あまり同じ服ばかり着ているので、疑問に思った文豪が聞いたところによれば、図書館の制服でもないらしく、着飾ることにはあまり興味がないようだった。
 趣味は、と聞けば、ない、と答える。仕事がありますので、と言うが、確かに図書館から外出しているのを見たことがない。館長や双子は外からの通いだが、司書だけは図書館の司書室に住み込みで働いていた。
 郷里は近く、この仕事は親の勧めで始めたものだという。聞けば応えは返ってくるが、そこからの会話が続かない。何を聞いても表情さえ殆ど変わらないとなれば、尚更会話が弾む理由がない。
 図書館には彼女が声を上げて笑うところを見た者が居なかった。無論、最初の小部屋で夢野が見たような、僅かな表情の変化はある。仏の浮かべる笑みのような、微かにソレとわかる笑み。しかし、彼女の浮かべる笑みは仏とは違い、慈悲や慈愛を感じさせるモノではない。言うなれば、そのように作られた、彫刻の笑みであった。
 司書は醜女ではなかったが、けして眼を見張る程の美女という訳ではない。しかし、奇妙なことに、彼女には作られたような美しさがあった。ほぼ左右対称の目鼻立ちや、形のいい首筋、真っ直ぐな立ち姿はどこかの名工が丹精込めて作った人形を思わせたが、一方で、石膏のような白い肌は室内灯の下では不健康に陰り、黒い瞳は何事にも興味がないというように感情を示さない。袖から見える手首は折れそうに細く、見る者を不安にさせる。しかし、線の細い、今にも倒れてしまいそうなか弱い女人に見えて、司書は誰にも付け入る隙を見せなかった。その堅苦しさは、石や氷でできた彫刻のようだったが、このアンバランスさこそがまさに彼女が生きた人間であるという、妙な説得力を生んでいた。
 高名な彫刻家を父に持ち、自身もまた数々の彫刻作品を残す高村光太郎は、石を彫ったというよりはあの人は塑像でしょう、と言う。塑像とは芯となる木に粘土で肉付けて作る像のことで、つまりは大理石のような硬質な存在ではなく、ある種の柔らかさを持っているということらしい。とはいえ夢野には、司書の柔らかさがどこにあるのか、欠片も理解できなかったのだが。
 謎めいてはいるが只の人でしかない司書から、不可思議の存在である侵蝕者達へと夢野の興味が移るのに、そう長くはかからなかった。化け物じみた容姿を持ち、洋墨インクの炎を纏って現れる正体不明の生き物達。しかも、こちらはハッキリと敵であると名言されている分、切っても突いても分解しても、誰からも文句を言われることがない。一個の存在を己の興味の赴くままに蹂躙できる現実は、夢野を色めき立たせた。たとえそれがアルケミスト達の筋書き通りであろうと、その思惑に敢えて乗ってやってもいいと思うほどに、夢野は未知の生物の分解に熱中した。
 ……しかし、それも長くは続かなかった。
 侵蝕者達は様々な形態、大きさをしていたが、すべてにおいて死骸が残らないという共通点を持っていた。どこを心臓と呼ぶのかはわからない。けれど、息の根を止めた、その次の瞬間には消滅への秒読みが始まるのだ。胸を開く、腹を裂く、頭を割って、中を探る。その間にも四肢の先から、尾の端から、輪郭が崩れ消えていく。表現に決まった形などないように。口にした言葉を取り戻すことができないように。
 どれほど分解しても、魂どころか爪の先すら掴めない相手に、次第に夢野は興味を失っていった。正しくは、思考が行き止まったというべきか。これより先に進むにはどうすればいいのか、とそればかりに気を取られるようになってしまった。
 たとえば息絶えるその前に、死にかけの侵蝕者を珍しい蝶を標本にするように、押しピンでその姿のまま止め置いておけたなら。それならばどんなにいいだろうか、と夢野は思う。トドメを刺さずに、少しずつ少しずつ、皮を剥いで、肉を裂く。間違っても殺してしまわないように、慎重にユックリと、バラバラに分解する。そうしてナカをまさぐって、魂を探り出せたなら。
「アナタの異質さは随分と理解した気でいましたが……。フフフ、本当にアナタって人は油断がならないですね」
「お褒めに与り光栄です」
 偶々行き逢った江戸川乱歩と成行でテーブルを囲むことになった際、何か困り事はないかと尋ねられた夢野は、至極正直に、最近頭の中を占めている難問を打ち明けた。夢野が生前から敬愛してやまない、この日本の探偵小説の父とも言うべき大作家は、図書館に知己の少ない夢野を何かと気にかけて、顔を合わせる度に親しく声を掛けてくれるのだ。直接会ったこともない、ただ批評を交わしただけの相手に対しては格別の厚遇に、夢野は日頃から有難さを感じている。尤もソレが本心かどうかは、夢野自身にもわからないが。
 江戸川とて、別に夢野に何かを期待しているわけではないのだろう。富からも功名からも離れたこの図書館では、ただの好悪、親切心、性分などで物事が進められることが多い。恐らく江戸川は他者を楽しませ、自身も楽しむことを好む性分故に、夢野にもまた目を配ってくれるのだろう。そう思えば、未見の恩人と言えども特に遠慮することもなかった。ズイ、と談話室の低い卓越しに体を前へと乗り出して、それで、と夢野は話を続ける。
「乱歩さんは随分早くにこの図書館に転生したと聞きました。何かスバラシイ発想をお持ちでないかしらん」
「そうですねぇ……」
 珈琲で唇を湿らせながら、江戸川は勿体ぶるように考え込んでみせた。
「実を言えば、ワタクシも一度、研究のために侵蝕者を持ち帰ろうとしたのです」
「オヤ!」
 夢野は思わず喜声を上げた。流石は日本を代表するトリック・スター、江戸川乱歩である。一流のトリックは入念な下調べから生まれるものだ。しかし、続きを待つ夢野の視線の先で、江戸川は肩を落として首を横に振った。
「八雲さんにも協力いただいて、生け捕りにした侵蝕者を鞭で縛って本の外へと連れ出そうとしたのですが……図書館へと戻った時、確かに捕まえていた筈の侵蝕者は影も形もありませんでした」
「戻る直前に捕縛から抜け出したのでは?」
「イイエ、ありえません。縦にも横にもキツく縛っておいたのです。それに、一度や二度の話でもありません」
「つまり……」
 江戸川は結論を口にはしなかったが、頷くことで夢野の推論を肯定した。つまり、生死に関わらず、どうやっても侵蝕者を本の中から連れ帰ることは不可能なのだ。
 侵蝕者については未だにその殆どがわかっていない。アルケミスト達も日々昼夜を問わず研究に明け暮れているようだが、謎めいた正体の尾の端すらも掴めていない状況である。負の感情の塊だと推測はされているものの、どうしてそれらの感情が文学に影響を与えるまでの力を持つようになったのか、誰が、何の目的で文学を消そうとしているのか。そも、文学を消すとはどのような行為の果てに成立するのか。侵入経路さえも明らかになっていない未知の侵略は、ただ敵を倒すという行為のみで辛うじて防がれている状態で、しかし実際には既にこの世界から誰にも知られぬうちに消え去った文学もあるのかも知れない。アルケミスト達にできるのは、古今東西の名作と呼ばれる文学の概念をこの帝國図書館に集めに集め、ただソレ等に変化が無いかを観測するのみである。此処から漏れた名もなき書物の数々は、侵蝕者達に抵抗する術がない。江戸川に見出されなければ、夢野の書いたモノもまた、そうした無力の中にあっただろう。
「そういえばアナタ、以前、ポーさんの文学から、守護者の残骸を持ち帰ってきたでしょう」
「エエ、そんなこともありました」
 不意に思い出したように江戸川が口を開いた。〈守護者〉とは侵蝕者と同じく、文学の中に存在し、潜書した文豪達と敵対する存在であるが、こちらは実際には文学に仇なすモノではなく、その名の通り文学を守るモノである。多くはアルケミストによって設置されるモノで、他のアルケミストによって自身の秘儀が暴かれるのを防ぐために書物へと潜まされる。それ故、同じくアルケミストの術によって文学へと送り込まれる文豪達を敵とみなして攻撃を仕掛けてくる。厄介な存在ではあるが、アルケミスト達はこの仕組みを利用して、まだ侵蝕されていない、或いは侵蝕者の撃退に成功した文学に対して、守護者を設置しようと試みていた。図書館に存在する文豪の数よりも、古今東西に存在するあらゆる文学の数の方が多いことは明白で、鼬ごっこに攻防を続けたところで数に劣るアルケミスト側がいつまで現状を維持し続けることができるかはわからない。守護者の設置は侵蝕者側への明確な打撃とはならないかも知れないが、少なくとも防衛線の維持には役に立つだろう。
 そんな経緯もあり、折角夢野が持ち帰った守護者の残骸は、調査に使用すると言って、業腹にも双子に取り上げられてしまった。取り返す術は無いものかとちょくちょく研究室を訪れて、研究の手伝いなどもしてみたが、遂に一欠片たりとも夢野の元へと戻っては来なかった。尤も夢野も途中からは錬金術の神秘を覗き見るのに夢中になって、守護者のことはスッカリ忘れてしまっていたのだが。
 双子の研究はまさに守護者を文学の中へと設置・維持するものであり、幾度かの失敗を経て、漸く実った成果だった。
「守護者と侵蝕者の違い、この辺りに謎を解く鍵がありそうですね」
 ニヤリ、と笑う江戸川が、まるで推理小説の探偵のようにピンとまっすぐ人差し指を立てる。白手袋に包まれた指先は、そのままクルリと宙に丸を書いて、第一に、と話を続けた。
「現状、文学内において何らかの活動を行うことができる存在は、文学自体の登場人物、侵蝕者、守護者、この三種に絞られますが」
「もうひとつお忘れではないですか。我々――文豪、ですよ」
「確かに」
 江戸川が頷くのを見ながら、夢野は僅かに緑茶を啜る。茶葉も珈琲豆も、この図書館に備え付けられているものは高級ではないが質の良いものばかりだった。
「重要な指摘ですね。ではこの四種に共通する点、また異なる点は?」
 フム、と夢野は考え込む。江戸川と同じく絹の手袋に包まれた指先を組み替えながら、思索を巡らせる。
「人型か、人型でないか。自らの意思があるか、ないか。文学を守るのか、破壊するのか。死体が残るか、残らないか。それから、本の外でも存在できるか、できないか」
「ひとつずつ検討しましょうか」
 登場人物達はその役割によって様々な形態をとり、物語に沿って行動する。一見、ソレは彼等の意思にも見えるが、すべては作家の筆によって定められている。彼等の行動によって物語は成立するが、外からの侵蝕者と積極的に対立することはない。彼等の物語上の死では死体が存在するが、本の外ではけして存在することはできない。
 侵蝕者もまた、文字めいた容姿のみならず、洋墨瓶等の無機物を始め、人型、獣型と様々な形態をとる。登場人物に成り代わったりと物語へ介入したり、文豪への攻撃を見るに、意思を持つ存在のように思えるが、侵蝕者であると判明した後の会話が成立しない為に断定することは出来ない。鼓動や呼吸を確認できていないので、ソレが想像しうる死であるかは不明だが、一定の損傷により存在が消滅する。また、その一部も本の外へは持ち出すことができない。
 一方で、よく似た存在である筈の守護者は可成り定義が明瞭である。羅馬ローマにおける知恵の象徴たる梟を模した成りをして、設置者の意思に従い、外敵から文学を保護している。そこに守護者個々の意思は存在せず、生物というよりは機械人形に近い。壊れれば残骸が残り、本の外に持ち出すことも可能である。
「こうして改めて考えると、侵蝕者と守護者とはあまり似てはいませんね」
「ハイ、寧ろ、」
 我々に似ている、と夢野は笑った。
 文豪は決まって人型をとるが、ソレは彼等の生前の姿とは似ても似つかないマッタク別人の姿である。現に目の前の江戸川乱歩という作家も、生前見知った禿頭の眼鏡姿は影も形もなく、烏の羽によく似た紫がかった癖のある黒髪に緑の目をした美青年のなりをして、洒落た作りの片眼鏡を左の眼窩に嵌めている。血の繋がった者であっても、外国人めいた彫りの深い顔立ちを見てとても彼とは気付かないだろう。うつし世はゆめ、夜のゆめこそまこと。そう好んで揮毫した男こそが今は夢のような美男として存在している。
 夢野も初めはわからなかった。しかし、彼が江戸川乱歩その人だと言われ、確かにそうだとも思った。そうして認めてしまえば、もう逆に、以前の姿を思い出せなくなってしまった。
 記憶として認識はしている。特徴を言葉にして説明することもできる。しかし、映像として思い浮かべることができない。この不可思議な現象について他者と共有したことはないから、これが夢野だけの問題なのか、そうでないのかは知らない。
 それ以外の面においても生前に比べ思考が制限されている可能性はあるが、ハッキリとそうであるという自覚はない。此処に存在し、己の意思でもって文学を守っているという認識はあるが、しかし、それがアルケミストによって与えられた仮初の自我ではない、と断言することもできない。文豪達がアルケミストの哀れな操り人形だとして、人形がどうして操者の意思を知ることが出来るだろう。
 これまで、幸運にも撤退の遅れた者はいないから、この体でもって経験する死がどういうものかもわからない。大抵の傷は補修室と呼ばれる部屋で数時間眠れば夢でも見ていたかのように治ってしまう。抑々、本の外と中とを、どうやって分けることが出来るのか。
「成程。差詰、ワタクシたちは信頼できない語り手ということですね」
「エエ、エエ! その通りです。フフ、私は果たして正気かしら、それとも既に狂っているのかしらん?」
「実にアナタ好みのお話じゃあないですか」
 江戸川もまた声を弾ませながら、しかし、それでは推理のしようがない、と珈琲皿の縁を徒に指で弾く。チン、と高い音がベルのように響いた。
「前提から信用ならないというのなら、そこから真実を導くことは不可能でしょう。ならば、まずは前提の確認から始めなければ」
「前提、というと?」
「ワタクシたちが、他の人間、たとえばこの図書館に出入りする人間たちとドウ違うのか、ということです」
 帝國図書館に出入りする人間(猫を除く)は文豪達を除けば四人いる。館長、双子、そして司書である。
 見た目は文豪達とそう変わりはしない。会話によって意思の疎通がとれるので、自我を持って話したり動いたりしているように見える。
 文豪を転生させ、侵蝕者の存在を教え、文学へと送り込んでいるのはまさに彼等で、文学を守る、という立ち位置は疑いようがない。
 彼等が生前の夢野達と同じ種類の生き物であるのならば、死もまた見知ったソレであろう。
 当初は文豪のみが可能であった潜書は、アカとアオの双子によって、特別な技術さえあれば彼等にも可能であることが判明した。
 では、夢野ら文豪は、彼等と同じ人間である、と言えるのか?
「ひとつ大きな違いは、ワタクシたちは死を知っている、ということです」
「それは確かに、大きいでしょうね」
 人が死ぬのは一度だけ。死は不可逆であり、溢れた水が盆に返ることはない。しかし、その不可能を可能にし、夢野は此処に存在している。
「でも、私達がそうであるように、彼等も転生した人間ではない、と言い切ることはできないのではないですか?」
 それができる技術はある、と証明する存在が、この図書館には数多揃っている。
 永遠の命は人類の長年の夢であろう。死への恐怖は常に人類と共にあり、生を輝かせてきた。科学の発展は言うに及ばず、様々な文学作品もまた、死の恐怖によって生み出されたのだ。
 死さえも克服してみせた人間が次に怯えるのが文化の喪失、と思えば、納得できる部分も多い。
 夢野は戦中を生きた作家だ。五歳の頃には日清戦争が起こり、十五の年には日露戦争が勃発した。一年志願兵として近衛師団に入隊し、慶應義塾大学在学中には陸軍少尉も拝命したが、実際の戦場へ向かったことはなく、夢野が知っているのはただ戦争の時代の空気だけである。
 侵蝕者との戦いは銃弾の飛び交わぬ、謂わば文化的な戦争であろう。しかし、此処に夢野の知る戦争の空気はない。それがたとえ死んだとしても、再び生を得ることが可能だという前提に基づくものであるとするならば。
「イイエ、彼らは転生してはいないそうです」
 江戸川が首を振るのを、意外な物を見る目で夢野は見た。
「断言できるのですか?」
「ハイ。あくまで、本人の談ですが」
 転生したばかりの頃、江戸川も同じ疑問を持ったのだという。数ヶ月様子を見た結果、館長に直接疑問をぶつけるに至った。江戸川の見立てでは、彼は必要のない嘘は吐かない人物である。どのような反応を返すかまで含めて返答を待つ江戸川に、館長は事も無げに答えた。
 この図書館には文豪以外に、転生した人間はいない、と。
「彼等が一度目の生を生きる人間であると信じるに足る理由、転生を経たワタクシたちが彼らと異なる箇所があるとすれば、それは、」
 その時、談話室の入口から、ガチャリ、と真鍮製の取手ドアノブが回る音が室内に響いた。夢野と江戸川は示し合わせたように口を噤み、チラリと視線を投げ交わす。
 夢野も江戸川もどちらかといえば場をかき乱し、混乱を生むことを好む傾向があるが、しかし事を起こすにはそれ相応の時節がある。文豪達の中には司書を始め図書館職員に酷く好意的な者も居る。彼等に聞かれでもしたら、直様司書へ注進が飛ぶであろう。
 別段、司書の耳に入っても困ることはないのかもしれない。だが、困るかもしれない。これはそういう類の話である。
 果たして、扉を開けて入ってきたのは、夢野と江戸川の敬愛する米国の大作家、エドガー・アラン・ポーだった。室内であるから、羽根の付いたシルクハットは脱いでいる。光の当たり方で鴇色にも見える薄い砂色の短髪の下、精悍な形の太い眉がいつでも不機嫌に顰められている。白色人種らしい抜けるような白い肌に嵌め込んだような青の瞳は辺りを睥睨するように光り、ゴシック文学の王たる威厳にあふれていた。
「先客がいたか」
 靴音も高く、ポーが夢野達の囲む小卓へと歩みを進める。許可も取らずに長椅子を陣取ると、
「何やら悪巧みでもしていそうな面子だな」
 とニヤリと笑う。
「滅相もない! ワタクシたちほどの平和主義者はこの図書館でもなかなかいませんよ」
 大仰な程驚いて、江戸川が首を振る。夢野も合わせて微笑んで、江戸川に追従するように頷いた。
 しかし、そんな芝居じみた反応を、ポーはフンと鼻で笑い飛ばすと、尤も、と口を歪めた。
「貴様らが何を考えたところで、私に敵うところではないが」
「えぇ! えぇ! それはもう! ただ、贅沢を言うならば、一度でいいので、アナタをアッと言わせるようなトリックを仕掛けてみたいものですが」
「一度で良いのか?」
「そりゃあ、叶うならば何度だって!」
 笑う江戸川の顔に裏はない。憧れの大作家とこうして親しく言葉を交わす僥倖に酔っているようだった。
 ポー自身はこの件に関して言えば、協力者となりうる人物である。読者を楽しませてしかるらんとするエンターテイナーとしての気質は、どのような真実であれ白日の下に晒そうとする強欲となって現れていた。恐らく、ポーが一人で現れたのならば、江戸川も夢野も嬉々としてその企みを語っただろう。しかし、彼等は口をつぐんだ。ポーの背後に二つの人影を認めたからである。
「江戸川さん、夢野さん。こんにちは」
 フワリ、と子犬のようになつこい笑みを浮かべて挨拶を寄越したのは、堀辰雄だった。結核により肺を病み、四十八年の生涯を閉じた私小説家である。四十七で死んだ夢野が言える義理でもないが、死ぬ寸前まで仕事をし、人と会っていた夢野とは違い、堀の晩年は執筆もできず、病床に臥すばかりだったという。しかし、今の堀は夢野よりも明るい飴色のおかっぱ髪を揺らし、頬を薔薇色に染めて、如何にも健康な若者の成りをして、かつての病は見る影もない。
 堀は扉を開けたまま、司書さん、と後ろを振り返った。
「どうぞ、お先に座っていてください。僕は紅茶を淹れてきますから」
 半分開けられた扉の隙間から、影の射すように司書がスルリと入ってくる。ピクリとも動かぬ無表情は相変わらずで、幽鬼のごとき静けさだった。ありがとうございます、と常と変わらぬ慇懃無礼な程の丁重さで礼を述べる司書に、態々立ち上がったポーが手招きをする。やはり何の断りもなく傍らの椅子を引いて、手を取って座らせてやる。夢野や江戸川には逆立ちしても真似できない、紳士の国の末裔らしい仕草だった。
「お邪魔いたします」
 僅かに目を伏せて司書が言った。邪魔だとは欠片も思っていなさそうで、しかし歓迎されるとも考えていないように見えた。江戸川はご一緒できて光栄です、と芝居地味た笑みを浮かべ、夢野はただ黙ってニッコリと口角を上げる。司書が現れたことで、愈々夢野と江戸川の話は中断せざるを得なくなった。
 ソッと目配せを交わして、銘々、行儀良く珈琲茶碗を手に取った。示し合わせたような態度に、態とらしさを感じたのか、ポーの右眉がピクリと跳ね上がる。口を開いたポーが何事かを言う前に、お待たせしました、と明るい声がそれを邪魔した。
「司書さんは砂糖なしのミルクティ、ポーさんは珈琲のストレートで良かったですか?」
 カチャリ、カチャリと音を立てて、堀が卓へ紅茶碗を置く。空いている場所へ自分の茶碗を置くと、横の卓から椅子を引いてきて、司書の隣を陣取った。
 窓を背にして時計回りに、ポー、江戸川、夢野、堀、司書の順だ。敢えて一つの卓を仲良く囲む必要もないと思うが、此処で文句をつけて下手に反感を買えば、今後の企みに支障が出るかも知れない。恐らく、司書はどうと思う事もないだろうが、堀はそれこそ母犬を慕う子犬のように、司書に殊更懐いていた。僅かでも司書を害する気配があれば、普段の弱気が嘘のように、牙を向くことは想像に難くない。堀は他にも芥川龍之介を始めとした複数の文豪と仲が良く、夢野としても警戒されることは避けたかった。
「お三方は一体どんな訳で連れ立って?」
 ニコニコと江戸川が別の話題へ水を向ける。何か言いたげな顔をしながらも、ポーが目を瞑るように息を吐いた。水面下のやりとりには気付かぬまま、堀が明るい声でお庭に薔薇が咲いたので、とそこで言葉を切って、司書の顔を覗き込んでニコリと笑う。
「司書さんと一緒にお散歩していたんです。司書さんはいつも働きすぎるから」
 ねぇ、と甘えるように堀が司書の肩に僅かに凭れるが、司書は、仕事ですから、とにべもない。それでも夢見るようにウットリと目を細めて堀は笑う。その感情の源泉を暴いてみたい、と夢野は不意に思った。頭蓋を、あるいは心臓を? 生憎に今まで夢野の目の前で死んだ文豪はいないので、転生した人間の魂の在り処はまだわからないままだ。
 笑顔の下に狂気を押し込めながら相槌を打つ夢野を他所に、他愛もない世間話が続いていく。
「では、ラヴクラフトさんはまた?」
「あぁ、何処に行ったのか見当もつかん。或いは元から存在しなかったのかもしれん」
「神出鬼没とはあの人の為にある言葉ですよ」
 クスクスと江戸川が笑う。堀は半分眠っているような顔で、うっすらと笑みを浮かべている。司書は変わらず能面の如き無表情で、ポーは退屈そうに江戸川を見ていた。
 そのまま、淡々と時間が過ぎて行くものだと、誰もが思っていた時。
 ガチャン! と急に騒々しく食器の打つかる音が談話室に響いた。何事かと視線を卓へ戻せば、前に大きく倒れ込んだ司書の腕が、茶碗を押し退けている。溢れたミルクティの黄土色が司書の紺の長袖を濃く濡らして、肘の先からポタポタと床へと落ちていく。
「司書さん!」
 慌てて堀が立ち上がる。その振動で倒れていた茶碗がグラリと回って床へと落下する。ガン! バリン! と陶器の破れる音が続き、大変、と掘が唇だけで呟いた。
「此奴め」
 ポーがその長い腕をグイと司書の背へ回す。彼が摘み上げたのは黄色い目をランランと光らせた一匹の黒猫だった。どうやら背後から飛びつかれた為に、司書が姿勢を崩したらしい。黒猫はポーの眷属である、彼の同名の著作に現れる亡霊だ。猫は不機嫌そうにナァと鳴いて、フッとその姿を消した。
 この間に水屋へ走っていた堀が、箒と塵取りを手に戻ってくる。
「司書さんは危ないので、離れてください」
「いいえ、私も」
 膝を折り、破片へと手を伸ばす司書を止めようと堀の手が床へと伸びる。司書の手から破片を遠ざけようと焦りに逸る指先が、距離感を見誤ったのか、散らばった破片にサクリと触れた。
「痛っ」
 弾かれたように堀の手が跳ねる。切れた指先を握りしめ、クッと眉間に皺を寄せる。
「堀さま」
 司書の声は静かだった。心配しているようにも、無関心なようにも聞こえた。幾らでも聞き手の心情を反映させられるような、温かくも冷たくもない声だった。
「僕は大丈夫です、ほら、ね。だから、司書さんは着替えてきてください。袖が濡れているでしょう」
 開いてみせた堀の手には血の一滴も付いていない。それもその筈だ。転生した人間は、幾ら傷つこうと血を流すことはない。
 パクリと裂けた傷口は深淵だけを覗かせて、切れた瞬間に凍ったように変化がない。木像についた傷ならば、このように見えるだろう。右の中指の腹から第一関節までを斜めに走る傷口は、血を溢さない代わりに自然に治ることもない。書き損じを塗り潰しでもするように、洋墨をタラリと垂らして治す。奇怪も奇怪、確かに見た目は間違いなく人であろう。それも飛び切り上等と言える。けれども、果たして、こんなモノを人と言えるのか?
 その時、夢野は気づいてしまった――一度は死んだ人間と、死んだことのない人間を判別する方法を。

 それから数日、夢野は石の裏の虫のように大人しく過ごした。江戸川は江戸川で、憧れの谷崎潤一郎に呼ばれて妖しい潜書に掛り切りになっている。コレは夢野に都合が良かった。江戸川と夢野は馬が合う。猟奇趣味等は意外にも萩原朔太郎も好んで、三人で連れ立って映画を見にも行ったりしたが、それでも夢野は自身の計画を誰にも打ち明けなかった。一人に話せば誰からどう漏れるかわからない。取って置きの秘密こそ、自分一人の心の裡に留めおくに限る。
 そうして一週間ばかしが過ぎた。
 その日は朝から食堂で幸田露伴に『魔法修行者』の話を聞いていた。昭和三年に発表された幸田の短編小説である。物を書くには物を知らねばならぬというので、作家には古今東西の歴史や物事に通じた者が多い。中には魔法や魔術だのの眉唾物においてもだが、もはや己自身がその張本人になってしまったからには、これまで夢物語と断じて来た話も俄然真実味を増した。
 『魔法修行者』は我邦における魔法の大観を談じるものだ。上古の厭勝えんしょうから始めて、荼吉尼、飯綱と来て、細川政元、九条植通と話が進む。飯綱法の成就者である九条植通は何処に寝泊りするに於いても夜には必ず屋敷の屋根に梟が留まったと言って、これは天狗の随身伺候した故だと言う。空を飛ぶ、地震を起こすなどの景気の良い話はどうもあてにはならないが、安倍晴明の識神なり、天狗や狐を使役するなりというのは、身につまされる話である。無論、使役される側の話だ。
「とは言え、錬金術と同様に魔法が存在するとも思えないが」
 そう話を締め括った幸田が、頭をガシガシと掻き上げる。
 幸田露伴は良く日に焼けた肌を持つ、体格の良い壮年の男だった。短く刈った赤毛に吊り上がった眉も相まって、如何にも克己的な、厳格な印象を周囲に与えた。実際、酒を過ぎた者や暮らし振りの杜撰な者が捕まって説教を受けるのを夢野も幾度か目にしたが、けれども概ね温厚な男である。生前の接点こそ無いものの、尾崎紅葉と共に一時代を築いた大文豪は、やはり天下を取る者にはそれなりの度量が必要なのだろうか、夢野のような新参者も分け隔てなく扱ってくれた。
 食堂には夢野の他に芥川龍之介の姿もあり、二人して幸田の高説を拝聴していた。珍しい組み合わせではあったが、狭い図書館のこと、顔見知りでない者はない。茶を勧め、煙草を勧めしている内に、同業の気楽さから話が弾むこともよくあった。愛煙家で知られる芥川はゴールデンバットをスパスパ吸い、目前の灰皿には既に吸殻の山を作っている。とはいえ、大先達の前だ。いつもよりかは遠慮していると見えて、吸殻の増える速度が若干遅い。幸田と夢野は芥川を横目に、ユックリと煙管を吸っていた。
「ハァ、けれども、錬金術というのは、詰まるところ耶蘇教キリストきょうの術でしょう。『神学大全』のトマス・アクイナスは有名な神学者ですが、錬金術にも詳しかったと言います」
「しかし、そも錬金術というのは、その名の通り、卑金属を金に変成さしめる事を目的としたものでしょう? 人の身を作り出す、ということなら、我が国に一日の長がある」
 と言って話しだしたのは芥川だった。
「平安の頃、鬼が人の死体を集めて美女を作るという話がありましたよね」
「『長谷雄草紙』だな」
 幸田の言に頷いて、芥川が話を続ける。
 曰く、平安の歌人、紀長谷雄は双六勝負の報奨として、鬼から美女を譲り受ける。この美女は実は鬼が様々な人の死体から良いところばかりを集めて作った人間で、百日触れねば本物の人間になる筈だったが、期日の前に触れてしまった為に、水と化して流れ去ってしまう、そういう話だ。
 話す芥川の横顔を夢野は盗み見る。青みがかった黒髪が優しげに弧を描く眉にかかっている。スッと通った鼻筋はさながら面相筆で書き上げられた美人画のソレの如くで、薄い唇へと優美に続く。項で括られた髪は艷やかに流れ落ちて、床に届くほど長い。話す度に興味深げに輝く瞳は玻璃を嵌め込んだような空色で、長い睫毛が鳥の羽ばたきのように瞬いていた。
 成程、人の死体の良いところばかりを集めて作ればこういう人間になるだろうという顔貌だと思った。
 たとえば脳髄だけがソノ人で、他人の肉や皮を使って新しく人間を作ったとしたならば。それはやはり脳の人格を持った人間になるのだろうか。そうだとするなら、夢野の体を夢野自身であると知覚している脳だけが本当の夢野で、此処にあるこの体は他人の死体の寄せ集めではないと果たして言い切れるだろうか。
 尤も、芥川も夢野も、触れても水と化すことはない。それとも眠っている間に既に百日が経っていたのか、今の夢野には知るすべがない。
「とは言え、やはり我邦に限る話ではない。錬金術においても同様に、ホムンクルスと呼ばれる人工生命を生み出す術は存在する。また、これはドイル氏から聞いた話だが、英国にはシェリー夫人による『フランケンシュタイン』という、死体を繋ぎ合わせ、新たな生命を生み出すという有名なゴシック小説があるそうだ。鬼と科学者という違いはあれど、長谷雄草紙によく似ているが、こちらは猶太ユダヤのゴーレムの影響があるという」
 ゴーレムとは、猶太教の司祭が生み出す泥人形のことである。呪文を記した符を額だか舌下だかに貼り付けることで、司祭に忠実な下僕として仮初めの命を得るという。ゴーレムを元の土塊に戻すのは簡単で、呪符の文字を一文字消すだけで事足りる。希伯来ヘブライ語で真理を表すその呪文は、頭の一文字を失うと、死を意味する語になるからだ。
「耶蘇教に伝わる最初の人類であるアダムはゴーレムの一種だという説もあるらしい。人工生命の創造は万国共通の夢だ、という事だろうな」
 遅寝をした者達が食堂へゾロゾロと雪崩込んで来たのを機に、幸田はそう締め括って、錬金術の話はそれきりになった。
 幸田達と別れた夢野は、一人フラリと奥庭に出た。先程の話を考えていた。
 夢野の考えはこうだ。
 転生した人間は外目では区別ができず、他の人間と遜色が無い。どころか生前より優れた容貌に変化していることも屡々だが、それでも常人離れした、とまでは言えない。ならば、やはり一番確実なのは血を流させる事である。薔薇の棘に指を刺させるでもいい、胸を刀子で突くでもいい、兎に角、チョットでも血が流れれば、それは一度も死んだことのない人間である。
 しかし、この計画は他の文豪や司書自身に気づかれると、破綻する可能性が高い。堀や織田のような分かりやすく好意的な者だけではない、江戸川等の司書と一定の距離をおいている者も矢張り共犯者たるには不安が残る。
 それは好意の有無だけが影響するのではないからだ。この図書館にいる文豪の中で、司書以外の手でこの世に生を受けたものは徳田秋声の他になく、転生の仕組みは未だ謎に満ちており、何かの手違いで司書が死んだならば、文豪が無事だという保証はない。それだに誰が好んで危うい橋を渡るのか。当に自殺願望者の計画である。
 夢野は今生に満足している。けれども一方でいつ死んでも良いとも思っている。一度死んだ自覚がある者にとって、穏やかな来世は地獄で見る夢と同じだろう。いつかは覚める夢ならば、夢野は地獄の獄卒だとて、心ゆくまで分解してみたかった。
 日の差す明るい庭園には不似合いの薄暗さで夢野は小道を漫ろ歩いた。成程、過日に堀が言っていた通り、庭の彼方此方に小ぶりの薔薇が咲いている。濃い緑の葉を鮮やかに繁らせて、その合間に赤薔薇、黄薔薇、白薔薇と天鵞絨ビロードのような花弁が覗く。薔薇というのは手間のかかる植物なのだそうだ。何よりもまず土が大事で、よくよく肥料を遣る。一年目には大きく育てる為に花芽を摘んで、けして花を咲かすことはさせない。大きさも十分というところになって漸く花を咲かせる支度が整うが、薔薇の花は虫が付きやすく、美しく咲かせ続けるには小まめに虫を取り除いて、病気にも気をつけてやらねばやらない。その癖、重々受けた恩を嘲るように棘は鋭く尖り、容易に手折ることもできない。
 そのうちに一つだけ、夢野は虫食いの痕のある赤薔薇を見つけた。食われた花弁は茶色く枯れて、茎に巻き付くように萎れている。コレにしよう、と思った。手袋をつけた指を花枝へと伸ばしてポキリと折る。転生後に手に入れた鞭や巨大な鋏を軽々と扱う力は、小指の太さにも満たない細い枝を手折るには十分すぎた。手袋越しに棘が僅かに突き刺さる感触にニッコリと笑いながら、ただ一枚の変色した花弁を毟り取る。萼を離れた花弁はヒラヒラと草の上へと落ちていった。
 葉と棘の付いたままの薔薇を一輪、クルクルと指先で玩びながら司書を探す。昼餐にはまだ早い時刻、食堂にはいないだろうし、潜書は午後からの予定だから司書はまだ司書室にいるかもしれない。それとも誰かに誘われて談話室に顔を出しているか。昨日の潜書で傷ついた者はいなかった筈だから、補修室にいることはないと思うが。
 ひとまず談話室から回ろうか。他に誰がいるとして、偶々渡した薔薇の棘で偶々司書が怪我をしたところで、誰も夢野を責めないだろう。寧ろ大袈裟に驚いて、アリバイ固めでもしてやろうか。そう思って夢野は談話室へ続く小道へと足を向けた。談話室にはステンドグラスの扉の勝手口があって、日中は開放されている。態々玄関に回らずとも、庭から直接、図書館内に戻ることができるようになっていた。
 所々に植わる喬木に視界を遮られつつ、幾つか角を曲がれば庭の中程にある池に至る。河童を見たとか、イヤアレは鰐だったとか、様々な目撃談のある池だ。その傍らの腰掛けに、女が一人、座っていた。
 この陽気に浮かれもせず、首の詰まった飾り気のない紺の長衣をピッチリ着込んで、背の半ばまでの長い髪を前に垂らして俯いている。如何にも陰鬱な、生気のない、真昼の幽霊のような有様の――夢野の探し人だった。
 始め、ソレを生きた人間とは思えなかった。等身大の人形が、丁度椅子に腰掛けて見えるように打ち捨てられているのかと思った。真面目に考えればそんな事はないのだろうが、ソレ程に、生きている気配というのがしない。一度死んだ夢野の方が、余程生き物らしいと思った。
 グルリと腰掛けを回って司書の正面に回る。そうして僅かに膝を曲げて、司書の顔を覗き込んでも、司書は顔を上げなかった。眠っているのかも知れないと思ったが、垂れた髪の隙間から、黒い瞳が静かにコチラを見返していた。
「貴女、どうしてコンナ所にいるんです」
 髪を掬って片耳にかけてやる。そうする間も司書はピクリとも動かなかった。薄い、飴でもかけたような艷やかな唇が、ハクハクと音にならぬ息を数度吐き出しただけで、諦めたように目を閉じる。親切な文豪ならば、体調が悪いのかと司書を心配しただろう。それでなくとも、誰かに言付けたりはするかも知れない。けれども瞼の下に消えていく己の姿を見つめながら、夢野の脳裏を過ったのは、今ならば誰にも見つからないという犯罪めいた予感だった。叫ぶ気力もない手弱女の首に、衝動のまま手を伸ばす。
 片手で足りそうな細い首を、両手でシッカリと掴まえる。黒革の手袋が擦れてキュッと音を立てる。そのまま上に引き上げれば、司書の顔が天を向く。白い額にかかる黒髪、その合間から再び現れた目は硝子玉のように澄んでいて、不意に、アア、コレは絞められる鶏の目だと思った。そこに浮かぶのは聖母の如きすべてを飲み込む赦しなのか、若しくは人にはわからぬ種類の諦観か、感情の読めぬ潤んだ瞳が、夢野をジッと見つめていた。ウッスラと開いた唇の隙間が嫌に黒黒として、光まで飲み込む底なし沼のようだった。
 次第にワケノワカラヌ気持ちになって、夢野は司書の首を絞めたまま、その唇を吸った。温かく潤む口腔内に己の舌を差し入れて、無茶苦茶に暴き立てる。吸いながらますます首を絞める。最後の吐息まで吸い取るように、相手の舌を引きずり出してジュッと吸う。千切れそうな程強く歯を立てる。そうしながら人の肉の弾力を、頸骨の硬さを、押し潰すように両手に力を込める。左右の指で作った内周を少しずつ狭めて行く。遂にポキリ、と首の骨の折れる感触がして、夢野は唇を離して司書を見た。死の間際、僅かに震えた舌だけが、司書の見せた抵抗らしい抵抗だった。
 目を閉じてダラリと弛緩した体は、操り糸を失った人形のようだった。手を離せば膝から折れて、グニャリと草の上へ倒れる。先程まで合わせていた唇の端が、唾液でテカテカと光っている。倒れた司書の傍らに膝をついて、夢野は薄い胸に耳を当てた。もはや心音はしなかった。
 死んだ女の両腕を掴み、草陰へと引きずり込む。密に茂る薔薇の棘が手袋に包まれた手の甲を引っ掻き、女の白い顔を掻く。意識のない人の体は重いというが、女は驚く程軽かった。手を離せばトサリと軽い音を立てて落ちる。その軽さに我知らず胸を高鳴らせながら、夢野は横たえた女の服へと手を伸ばした。
 紺の詰襟の、首から縦に並んだ金の鋲を、プツリプツリと一つずつ外す。腰の辺り迄で手を止めて上身頃を左右に開けば、何の装飾もない白シャツを着込んでいることに気がついた。愈々禁欲じみてきて、司書というより聖職者のようだった。良く糊の効いたシャツに連なる白蝶貝の釦は、スルリと簡単に外れる。コチラも同じように腰まで外して、今度は引き抜くように広げれば、生成り色の肌着を透かして、白い胸当てが見えた。
 下着姿の女を放って、夢野は洋袴ズボンのポケットから白い包を取り出した。握り込めば片手にスッポリ隠せる程の大きさの長細い白のハンケチーフに包まれたのは刃渡り四センチ程の小刀だ。少し大きめのバターナイフのようにも見えるが、これは錬金術の助手をした時に双子の研究室からくすねた物で、怪しい術でもかかっているのか、不思議と何でも良く切れた。気に入った夢野は手紙を開けるのも鉛筆を削るにもこの小刀を愛用したが、生き物に使った事は未だ無かった。機会がなかったからである。
 アルケミストに請われて向かった本の中では、夢野の言葉は刃となって敵を切り裂く。野犬を打ち殺すように鞭を振るえば、侵蝕者達は忽ちに地に伏せた。生前、為す術も無く発禁処分を受け入れるしかなかった無力さは最早何処にもなく、此処では言葉は放てば放つだけ、確かな暴力として存在していた。
 あの様な小説を書いている所為で誤解される事もあるのだが、夢野は決して快楽殺人鬼ではなく、精神異常者でもない。人を手に掛けたのは正真正銘、コレが初めてだ。
 それでも一度、生き物をその手で分解する快楽を覚えた夢野にとって、ギラギラ光る切っ先は、もはや言葉と同義だった。
 刃先を女の胸へと突き立てる。肌着の首周りから始めて、スッと下へと滑らせれば、柔い綿布は簡単に切れた。同じ様に胸当てを真ん中で切り裂けば、何にも遮られることのない真っ白な胸が眼前に現れる。
 新雪のような、と言えばいいのか。白磁のような、と言えばいいのか。夢野にはわからない。江戸川の心酔する谷崎潤一郎ならわかるだろうか。彼程には女体の描写に興味がない夢野は、しかしこの後に予定する行為の為に、暫しウットリと目の前の光景を見つめた。酒にでも酔ったような心地だった。
 陶酔の中、夢野は再び小刀を振るう。銀の刃はただ滑らかに皮膚へと吸い込まれていく。鎖骨の僅かに上、首と呼んで良い部分に刀身が縦に半分沈む、まだ血は出ていない。そのまま両の鎖骨の間を通すように、胸へと刃物を下ろしていく。烏賊の刺身でも切るような、頼り無い感触。胸骨を縦に裂いてもそれは変わらなかった。柔い腹を抉り、臍の上に刃先が到達しても、一貫して変わらぬ手応えに、段々と夢野の熱は冷めていく。半ば諦めの心境で抜き取った刃物は一滴の血も臓物も纏わずに、ただ銀の光のみを放った。女の上半身に縦に走った切れ込みに、ぞんざいに指を掛けて左右に開けば、ポッカリと――暗い空洞が覗く。
 真っ黒な虚のような、手を差し入れてベタベタと触っても、ぬめついた感触さえ見当たらない。熱くもなく冷たくもない。確かに折った首の骨さえ、今はもうなくなっているようだった。
 コンナモノ、セルロイドの人形と同じじゃないか。皮だけ人の形をして、中身は空っぽの伽藍堂。魂の容れ物でさえない。夢野が見るべきモノは何も無かった。
 突き放すように手を引き抜く。もはや何の興味もなかった。片足を掴んで、草の上を引き摺る。裾が捲れ上がって、女の細い白い太腿が露わになったが、夢野の心をホンの僅かも動かすことはなかった。叢を抜けて池の傍まで戻る間、夢野は誰に見つかっても良いと思ったが、生憎と見渡す限りには猫の子一匹いなかった。
 最初、夢野はこの女の死体、イヤ死体と言うのも烏滸がましい、人形のガラクタを図書館の玄関か談話室に持ち込んで、何もかもぶちあけてしまうつもりだった。どんなに好意があろうとも、利害関係があろうとも、こうなっては最早関係がない。己の生死を握っていると思っていた者が、血も通わぬ人形だったと聞けば、逆上して館長や猫に詰め寄る者もいるだろう。誰がどんな感情を見せるのか、館長はどんな言い訳をするのか、良い見世物になるに違いない。
 けれど、この計画を夢野はアッサリと捨てた。切られて血が流れないのは司書だけではない、転生した文豪達の特徴だった。つまりは己を含めた文豪全てが、この詰まらないガラクタと同じ、人間のフリをした人形なのだ。死体の寄せ集めならまだしも、中身の空虚な人形だなんて! これでは自分が本当の夢野久作であるかどうかも疑わしい。それとも、そう思い込んでいるだけの全くの別人の魂なのかしらん? もしか、魂でさえも錬金術によって作られた擬物かもしらない。
 ともかく転生のカラクリがバレたとなれば、犯人たる夢野だけではない、図書館の文豪達は漏れ無く全員殺されるだろう。徳田だけは残されるかも知れないが、それでも今の今までこの秘密を誰も知らなかったのであれば、それは知られてはならなかったからだ、と考える方が容易い。一人一人の口を閉じて回るより、全員殺して新たに別の文豪を転生させた方が秘密は守りやすいだろう。まるで初めから何も無かったようにして、やり直すのだ。
 しかし、それでは夢野が面白くない。どうせ己も人形であれば、この人形劇の幕が下りきる最後まで、舞台に立っていたいではないか。消えた司書はどうなったのか、誰かが関与しているのか、転生の秘密はバレてしまったのか……? これから夢野が始めるのは疑心暗鬼のまま進む、さながらミステリ仕立ての人形劇だ。
 鼻歌を歌いながら、夢野は草の上へ人形を放る。腹にドカリと馬乗りになって、裂いた胸へ辺りの小石を詰めていく。直ぐに見つかっては興醒めだ。空の人形がよく沈むよう、土も適度に混ぜ込んだ。そうして重みを増した人形を水遊び用の小舟に載せて、池の中程まで漕いでいく。広いと言っても池だから高が知れているが、それでも畔からは余程目の良い者でなければ、水底に何か沈んでいるとはわからないだろう。一度ニッコリと笑いかけて、夢野は人形を手放した。
 ボチャン、と舞台の緞帳が上がる重い音が、静かな庭園に木霊した。

 小舟を返し、悠々と玄関から図書館へと戻った夢野は素知らぬ顔でその夜を過ごした。何人かの文豪に司書の行方を聞かれたが、見ていないと答えればそれ以上の追及はない。何せ図書館は広く、司書はいつも忙しくしていたものだから、そんなこともあるだろうと、皆深くは考えていないのだ。
 いつ気がつくだろう、と夢野は誕生日前の子どものようにワクワクしていたが、傍から見ればいつもと同じ調子で夕飯を食べ、浴場に行き、バーで少し酒を嗜んでから眠りについた。昼食を抜いていたことに気づいたのは寝台に横になった後だった。
 翌朝は普段よりも可成り早く目が覚めた。いつもと異なる行動は慎むべきだとは思いつつも、二度寝を決め込む気にもならず、ひとまずは朝食を取ろうと食堂へ向かう。平目の麹漬け焼き定食を粗方食べ終えて、残るは甘夏二切れというところに、
「早いな」
 断りもなく、正宗白鳥が隣の席へ塩鯖定食の載った角盆をドンと置いた。至極当然といった風に真隣を陣取ると、そのままサッサと食事を始める。仕方なく夢野は甘夏へ伸ばしかけていた手を戻して、人畜無害な笑みを浮かべながら正宗に話しかけた。
「白鳥さんこそ、随分早いですね」
「偶々だ」
 会話はそれきり途切れた。話す気がないのであれば、始めから無視をすれば良いものの、他に誰も居ない食堂で知らぬふりをするのも憚られたのだろう。要らぬ気遣いだった。
 正宗白鳥は褐色の肌を持つ、眼光鋭い美青年である。無論、生前の姿とは似ても似つかぬ形貌だ。彫りの深い顔立ちは希臘ギリシャ彫刻にも似て、けれどもその端正な薄い唇は当たり前のように解した鯖の身を食んでいる。
 夢野と正宗とは生前に交友があった訳では無い。歳は正宗の方が十ばかり上なだけだから、夢野の著作を目にする機会もあったかも知れないが、自然主義文学から始めて評論で名を成した彼が本格的に評論に活動の軸足を移した頃にはもう既に夢野は此の世にいなかった。
 正宗と言葉を交わしたのは、転生後、名探偵明智小五郎が初めて登場する江戸川乱歩の短編小説『D坂の殺人事件』へ潜書した時が初めてになる。殺人現場である古本屋の床に、無惨に打ち倒された侵蝕者を前にして、死だの魂だのに関する会話を幾つかしたと思うが、細部については覚えていない。恐らく、他愛もない内容だったのだろう。事実、それ以降も彼との関係が大きく変わることはなかった。正宗の虚無主義的態度は、夢野の快楽主義めいた生き方とはまるで異なっている。文壇も名誉も関係のない図書館において、態々気の合わない文豪と付き合う必要はない。
「そういえば」
 食事を終えるべく指についた甘夏の汁を手巾で拭いていた夢野に、正宗がふと、思い出したように声をかけた。
「お前のことを司書が探していた。夜に司書室まで来て欲しいそうだ」
「司書が?」
 スッと、背を氷の手で撫でられたような心地がした。
「それは、いつ」
「昨晩、確か……風呂から出て自室に帰るところだったから、一時過ぎか」
 夜の一時ならば、とうに池の底に沈んでいた筈の時刻だ。正宗の思い違いか、或いは――夢野を試しているのか。
 司書を池へと沈めた時、周りに人気は無かったし、その後も疑われるような振る舞いをとった覚えはない。しかし、もしも犯行現場を誰かに見られていたとすれば。それが司書と転生の秘密を共有する者ならば、夢野を声高に糾弾するよりも、秘密裏に夢野を亡き者とすることを選びはしまいか。
 正宗白鳥はけして早くに転生した文豪ではない。館長や司書とも距離が近い方ではなく、何よりその性質から、権威を疎む様子さえあった。恐らく、正宗は何の関係も無いのだろう。では、正宗が会ったという司書とは一体何だったのか。
「……態々呼び出される心当たりはないのですが。他に何か口にしてはいませんでしたか?」
「そうだな、特には……。直前に池に落ちたらしくて、それどころではなかったし」
「池に?」
「あぁ、頭から足の先までずぶ濡れで廊下に立っていたから、幽霊かと思ったくらいだ」
 我知らず、口角が上がる。
 これは正宗の思い違いでも、夢野の犯行がバレたのでもない。
「フフフ、白鳥さん、前にお話したことを覚えてらっしゃいますか」
「急に何の話だ」
 今度こそニッコリと、夢野は心の底からの笑みを浮かべた。
「魂というものがあれば話が簡単だ、とそう仰ったでしょう。エエ、本当に! ホントウにそう思いますよ」
「……相変わらず、わからない奴だな」
 殺した筈の司書が池の底から蘇った。そうとしか考えられなかった。

 とてもではないがそのまま大人しく夜まで待つ気にはなれなかった。朝食の席を辞した夢野は足早に司書室へと向かう。まだ司書は眠っているだろうか。それとも既に活動を始めているだろうか。
 正宗の話では、深夜一時の時点で司書は池から上がったばかりのようだった。館長代理は知らないが、館長や双子はとっくに退勤している時間だ。そうして今は出勤するには早い時間。司書が夢野の凶行を報告するとすれば、必然的に館長代理か文豪の誰かになる。司書の正体を知り、転生の秘密を共有する文豪の最有力候補はやはり徳田秋声だろう。最初期から司書の側に従い、面倒事を厭いながらも、生来の面倒見の良さが災いして他人の世話を焼くのに忙しい男だ。彼ならどんな秘密でも、一度決めれば何があろうと黙って墓の下まで持っていくに違いない。
 徳田の部屋は司書室の右隣にある。そんなところにも、司書の徳田に対する信頼が伺えた。
 司書室のある辺りへと近づいた夢野だったが、流石に馬鹿正直に真正面から訪ねることはしなかった。どんな罠が待ち構えているかわからない。忍者にでもなったように廊下の角の壁に張り付いて、司書室前を目だけを出して覗き込む。各個人の私室の壁は、ここが図書館である性質故か、けして生活音が漏れるほど薄くはない。けれども音がしなくとも、人の息づく気配というのはなんとはなしにわかるものだ。暫く廊下をジッと眺めていた夢野だが、誰も出てこないとわかると、ソウっと扉の前へと忍び寄った。
 司書室の扉の鍵は日中は掛かっていない。夜間は今まで訪ねたことがないのでわからないが、基本的には司書と司書に助手として指名された文豪だけが鍵を持っており、二人共が外している時は施錠する決まりになっている。司書から指名される文豪はまるで規則性がなく、だからこそほとんどが自薦のような形で決まることが多い。これまで司書に対して興味のなかった夢野は、それ故に助手を務めたことがなかった。
 扉の取手をソっと覗き込む。横向きにポカリと空いた鍵穴の奥は黒鉛で塗り潰したように暗かった。解錠されている時は鍵穴が縦になっている筈だから、在室しているかどうかまではわからないが、今は施錠されているらしい。
 そのまま音を立てないようにユックリと夢野は廊下を後にする。踵の高い革靴を今だけ恨めしく思ったが、幸いにも毛足の長い毛氈が足音を吸収してくれた。
 ロの字型の廊下をグルリと回り、司書室と丁度真反対の扉から図書館の心臓部である書庫へ抜ける。三階建ての中央を吹き抜けにした円柱形の巨大な開架式書庫には隙間など無いようにギッシリと本という本が詰め込まれていた。夢野の著書も掲載雑誌もすべての初版初刷が蔵められているが、これらは実際に存在する訳ではなく、一種の幻なのだと言う。アカシア記録、と呼ばれる概念らしいが、詳しく説明できる者はおらず、殆どの文豪がそういうものである、という段階で理解を停止しているようだった。本の森を抜け、並び立つ書棚に比べれば小さくさえ感じる観音開きの扉を開けば、両側に曲線階段を備えた玄関ホールに出る。天井の吊り照明は書庫に比べて数段階明るくて、土中から出た土竜のように夢野は数回瞬きをした。
 館長の退勤時に施錠される正面玄関の扉は既に解錠されていた。朝も早くに此処を通った者がいるらしい。スルリと外へ出た夢野は、そのまま表門から敷地外に出ることはせず、左に折れて図書館脇の雑木林に向かう。談話室前の奥庭と違い、こちらはほとんど手を入れておらず自然のままになっていて、人の訪れも数えるほどだ。それでも夢野が態々ここへ向かったのは、司書室の窓が林に面しているからだった。
 林の中へ深くは踏み入らず、図書館の赤煉瓦造りの壁沿いを歩く。書庫の辺りは一階部分に窓はなく、上階の窓も日焼けから書物を守る為に白い窓掛けに覆われていた。この辺りは建物の陰にあたり、昼でも殆ど日の光が射さない所為で、いつでも少しジンワリとした湿り気のある空気が漂っている。所々、煉瓦の隙間に暗い色の苔が生えていた。
 書庫部分を過ぎて、ロの字の右上の角を曲がった所で、不意に横から声をかけられた。
「夢野さん」
 耳に心地良い、落ち着いた声だった。振り向けば林の中に、色の違う格子柄の襟巻きを揃いで巻いた細身の男が二人並んで立っている。
 どちらも前髪を斜めに切って、片方の目に掛かっている。髪の色も、服の色も、対照的と言って良い程異なるのに、此方をジッと見つめてくる金色の瞳の強さだけでまるで双子のように似て見える。
 新感覚派の双頭、横光利一と川端康成だった。
 一瞬の戸惑いを見抜かれたのか、フと横光が表情を緩めて、言葉を継いだ。
「深更に菊池さんの真珠夫人が侵食されてな、手前と川端は先程帰って来たばかりだ」
 言外にソチラはと聞かれ、
「どうにも早くに目が覚めてしまって、少し散歩をしていました」
 当たり障りのない返答をする。そうか、と横光は一応の納得をしたようだった。
 此処で誰かと出会すのは想定外だ。引き返した方がいいのかそれとも、とチラリと司書室の方を伺ったのを、横光は目敏く気づいて、司書は、と言葉を続ける。
「まだ潜書室にいるのではないか。手前達と入れ違いで芥川さんと久米さんが潜書することになったからな」
「そうですか。ありがとうございます」
 変に否定するのも怪しくて、ニコリと笑って礼を言う。別段、今すぐ司書に会う予定はなかったが、今後の雲行き次第では疑われる行動は控えた方が良いだろう。
 横光の朝焼けよりも鮮やかな紫の髪が、風に吹かれて靡いている。図書館に居る文豪の中には彼のように、異国風と言うだけでは説明のつかぬ容姿をした者も多々存在したが、不思議と違和感を覚えることはなかった。聞けば今の世には染髪どころか目に色硝子を被せて瞳の色を変える技術や、顔形をまるで変えてしまうことさえできるそうだが、己や他の文豪達の変わり身は到底、そういった外科的手術では無し得ないように思える。アルケミーのある世界だからだろうか、科学ではなく呪術や魔法の類で説明された方が納得がいった。それか、やはりこれは地獄で見る夢なのではないかと。
 その時、今の今まで黙りこくっていた川端が急に横光の名前を呼んだ。
「あぁ、そうだな」
 横光はそれだけで何もかもわかったように頷くと、
「すまないが、手前達はこれで」
 軽く会釈をして、クルリと夢野に背を向けた。川端の手を引いて、私室のある正面玄関方面へと歩いて行く。童女のように手を引かれた川端が、フラフラと頼りない足取りでその後を追う。彼の老人じみた白髪が、歩みを進める度にコクリコクリと上下していた。夜っぴて潜書していたというなら、殆ど夢現なのかもしれない。横光と夢野が話す間も、川端の目は何度も閉じて開いてを繰り返していた。
 二人の後姿が角を曲がって建物で見えなくなるまでを見送って、夢野はその場を後にする。目的は達した。夢野が懸念していたのは、司書が蘇ったのではなく、別人が司書の振りをしている可能性だった。
 横光は司書に対して、何も口にしなかった。何かしら違和を覚えたなら忠告のひとつぐらいはしただろう。横光はこの図書館においては、割合、親切な部類の文豪だった。正宗にしてもそうだ。親切とは言い難くとも、嘘を吐く理由はない。彼等が何も言わないということは、少なくとも彼等が気づくような大きな違和感はない、ということだ。

 結局、夜まで司書の姿を見かけることはなかった。意図して避けていたこともある。何を言われるかもわからないのに不用意に人目の多い場所で顔を合わす程、命知らずではないつもりだ。どうやら表立って夢野を糾弾する気はないようだが、司書が夢野をどうしたいのかはまだ見当がつかない。
 簡単に蘇ることができる命なら、一度や二度殺されるくらいは何でも無い事なのか。それとも、元から魂のない物体には死という概念さえ存在しないのか。しかし、夢野はただ司書を殺しただけではない、その体を切り裂いて彼女の正体を知ってしまった。司書が操り人形だとして、その傀儡師までが夢野を放っておくだろうか。
 順当に考えれば、司書の上司である館長が傀儡師の第一候補だろう。江戸川の言を信じるならば、館長は一度も死んだことのない男である。イヤ、転生してはいない、だったか。
 一方で館長が司書と同じモノであることを否定する根拠はない。司書より人間味があるとは言え、館長も双子も、切り開いて中身を覗かぬ限りは、誰も彼も、何者かわからないのだ。だが、猫に頭の上がらぬ様子や、報告書に追われている普段の様子を見れば、むしろ館長は雇われ人である可能性の方が高いであろう。マァ、全ては夢野の憶測に過ぎない。
 やはり、謎解きをするには司書を脅して話を聞き出す他はないように思える。恐らく司書は一人ではあるまい。同席するとすれば、館長か、徳田か。夢野達文豪は有碍書の外では得物が使えないが、幸いにも夢野には以前くすねた小刀がある。館長の実力の程は知らないが、弓を得意とする徳田ならば十分制圧できるだろう。
 玄関ホールの大時計が、ボーンと十時の鐘を鳴らしたのを確認して、夢野は司書室へと向かった。
「どうぞ」
 コンコンと響く二度のノックを待ちかねていたかのように、間髪入れずに応えがある。動揺も驚きもない、いつも通りの司書の声だ。数秒間、他の声も物音もしないことを確認してから、夢野は細く開けた扉の隙間に影のように体を滑り込ませる。
 十畳程の四角い部屋は、些か寂しさを感じる程に必要最低限の物だけが置かれていた。中央に鎮座する応接卓と長椅子の一揃い、壁際に設置された五段の本棚にはギッシリと本が詰め込まれ、その隣には額装された帝国特務司書任命書が白い壁に掛かっている。反対側には司書の寝室である隣室への扉のみがあり、当然のように閉まっている。向かって奥の大きな腰高窓は、灰青色の窓掛けでピッタリ覆われて外の様子は見えない。その窓の前、左右に書類の詰まれた執務机の奥に司書は立っていた。夢野が入室してから室内を確かめるその間も、瞬きひとつ、身動ぎひとつせずにジッと夢野を見つめている。
 元から人形じみたところのある女だったが、そうしていると愈々、人ではないのだと強く感じられた。
「こんばんは」
 まるでそう決められているかのように、この場には不釣り合いな穏やかさで司書が言った。
「エエ、今晩は。お招きアリガトウゴザイマス」
 笑いながら夢野が返す。飯事でもしているような白々しさだった。視線で着席を促され、長椅子に足を組んで座る。卓の上には花柄の急須と揃いの湯呑み二つが用意してあって、急須の口からは白い湯気が細く立ち上っていた。
 滑るように卓へと歩み寄った司書が、慣れた手付きで茶を淹れる。トプトプと増えていく緑の液体に、毒だろうか、とフと思って、夢野は薄っすらと笑った。態々夜を待って呼び出したからには、飲んで直ぐに死ぬ毒ではあるまい。夢野が真実に辿り着くのが先か、死んでしまうのが先か、それも面白いと思った。元より有るはずのない生である、簡単に手放すつもりはないが、執着する必要もない。
 差し出された湯呑みを奪うように手にとって一気に飲み干す。溶岩でも流し込んだように熱い茶だった。ジリジリと熱を帯びる喉からハァと息を吐き出して、
「体調は如何ですか」
 笑って聞いてやった。
「問題ありません」
 もう乾きましたので、そう答える司書の顔はニコリともしない。自身の湯呑みには茶を注ぐことのないまま、コトリと急須を卓の上へと戻した司書が、
「お替りは如何ですか」
 唇だけを動かして問う。結構と手を振るだけで答えて、サテ、どう話を切り出したものかと思案する。
 夢野の予想に反して部屋には司書以外の姿はなかったが、寝室に誰かが潜んでいる可能性は十分にあるだろう。何かの合図でもって飛び出してくる、ということは考えうることだった。
 ならば、下手に口を開くのは下策ではないか。現状、目撃者がいないと仮定するならば、夢野の犯行を裏付けるのは司書の証言のみである。直接的な危害を加えるにも、冤罪の可能性があるのなら犯人の自供を待つのが確実だ、と司書の協力者が考えてもおかしくはない。最も、文豪全員をだまくらかして、今更そんなチッポケな良心に意味があるかはかわからないが。
 しかし、次の手を逡巡する夢野を待たず、司書が口を開いた。
「夢野久作さま」
 転生した夢野があの小部屋で初めて聞いたのと全く同じ、静かな、淡々とした声だった。
「お聞きになりたいことはございますか、なんでもお答えいたします」
「ナゼ? 冥途の土産、ということですか」
「知りたいと思う心は止められるものではありません。特に貴方方のような深く物事を考えて、言葉を紡ぐことを生業とする方々は」
 何もかも見通しているような言だった。賢しらな、と反射的に反発を覚えて、けれども現状、司書の口から聞く以外に事態を理解することも難しいことも理解できた。
 長椅子の肘掛けを数度、コンコンと指の先で叩いて、そうして夢野は覚悟を決める。
「貴女は何者なんですか」
「貴方さまは既に御存知の筈です」
 口元に緩く笑みを浮かべて明言を避ける司書に、
「私が知っているのは」
 と畳み掛けた。
「貴女が人間ではない、ということだけです」
 言いながら、寝室の扉をチラリと窺う。今の所、誰かが飛び出してくる気配はない。
「それで十分ではありませんか。これ以上の、一体何をお知りになりたいと言うのでしょう」
「魂の在処を」
 司書の顔から笑みがスッと抜け落ちる。それからは、その顔にはなんの感情も浮かばなかった。
「魂……」
 ポツリ、と呟かれた声は、途方に暮れているように聞こえた。
「貴女は伽藍堂だ、張りぼてだ。そんな事は知っていますが、けれども、その張りぼてが動くのはどうした理由か、私はそれが知りたいのです。教えていただけますか」
「……私は、言葉によってある存在です」
 ソレは最初の小部屋で聞いた言葉だった。
 ヒトをヒトたらしめているモノは言葉なのだ、文学を守ることは人間を守ることなのだと、転生の意義を語る、その序でのように口にされた言葉。大袈裟な、と笑うには夢野は言葉の重要性を良く知っていた。知らなければあれ程に文学に関わって生きることもしなかったろう。
 不意に、もしや、とひとつの可能性を思いつく。
「貴女も作家なのですか?」
 江戸川が館長に確認したのは、転生した人間はいない、ということだ。そのまま理解するのならば、転生前に人間であった者が人間として転生した者、ということになろうが、生前は人間だが転生して人以外に成り果てた者、として捉えることは可能ではないか。そうであるならば、館長は嘘は言っていない。或いは、館長は何も知らないまま、雇われているだけなのか。
 司書の名は、と思い出そうとしたところで、初めから知らないことに気づく。
 司書だけではない、館長もネコも、アオとアカという記号めいた呼び名の他は、名前らしき単語を聞いた覚えもない。個人を呼び分ける必要がなければ肩書だけで確かに十分事足りる。だがそれでも毎日のように顔を合わせる人間の名を、誰一人として知らないとは。
「いいえ。誤解されていらっしゃるようですが、私と貴方方は明らかに異なる存在です。私には貴方さまのような才能は御座いません」
 けれども、私と貴方方は等しく人ではない、と司書は続けた。
 愈々と話が核心へと近付く。思わず身を乗り出した夢野に臆したように、司書の顔が僅かに伏せられる。
「ひとつ、私からもお訊ねしたい事が御座います。お答えいただけますか」
「どうぞ」
 殆ど被せる勢いで次の発言を促す夢野とは対照的に、司書は少し間を置いて、
「昨日、貴方さまが私に口吻くちづけたのは、あれは一体何の意味があったのでしょう」
 夢の内容でも呟くように、そう口にした。
「サァ……」
 対する夢野は思いもよらぬ質問に呆気にとられた。実のところ、目の前の女に口吻たことなど、今の今までスッカリ忘れ去っていた。言われて始めて、嗚呼ソンナ事も有ったな、といった具合である。首の骨を折った手の感触はよくよく覚えていたが、衝動的にした口吻の方はどうだったか。熱かったか、冷たかったか。固かったか、柔らかかったか、それだけの事もまるで覚えていなかった。況や、何故口吻たか等覚えているはずもない。
「意味はなかったのでしょうか」
「アア、ハイ、そうですね」
 会話の内容だけを聞けばまるで痴話喧嘩のように聞こえたが、本来怒り狂ってもおかしくない筈の女は至極落ち着いて、自分から口にした癖に毛程の興味もないように見えた。それを言うならば夢野の方だって、不実な行動を慌てふためいて弁明するべきところを、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で見つめ返すだけである。
 そのうちに段々と、自分がこの女に興味がないのと同じように、女の方も夢野に興味がないのだ、ということに気づいた。
 全く何の罪もなく縊られたことをこそ言い咎めるべきなのに、ただ口が触れたそれだけの意味を問うて、責め立てるわけでもない。
 単純に疑問だったのだろう、と夢野は思う。魂のない人形は人間の衝動は理解しがたいのだろう。存在しない意味を理解しようと努める程度には。
「夢野久作さま、私は貴方さまの魂を目にしたことがありますが、私自身の魂はついぞ見たことがないのです。在るのか無いのか、それさえも」
 唐突なそれが、最初の質問の答えだと遅れて気づく。
「貴女が私と異なる存在だ、という根拠は?」
「私には前の世と呼べるものはございません」
 だから魂があるかどうかわからない、と司書は言う。
「ひとつ、お目にかけましょう。私と貴方が異なる証となるものを」
 長椅子から立ち上がった司書が、卓を回って夢野の斜め前に立つ。見上げる夢野に僅かに微笑んで――それは人の笑みではない。作られた観音の笑みである。そうして、夢野の頬を両手で挟んだ。
「口吻を、してもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
 色気も何も無い問答だった。
 司書の顔が降りてくる。薄い、その癖いやに艶めいた唇がポッカリと開かれて、洞の中から赤い舌が覗く。雨垂れでも受けるように、夢野の方も口を開いて受け入れて、ただの礼儀のように舌を絡める。その温い体温だけは覚えているような気がした。
 ピチャピチャと粘ついた水音だけが司書室内に響く。どれくらいそうしていただろう、絡めた舌がグッと引き込まれて、中程に円い歯列が柔らかく立てられる感触があった。恋人同士がする甘噛の真似かと、されるがままに夢野は舌から力を抜く。と、ガチン、と歯の噛み合う重い音がしたのは直ぐのことだった。
「……ァ、」
 噛み千切られた舌が喉に貼り付いて、呼吸が止まるのを、他人事のように理解した。息ができない、イヤ、息をしなくても――何の問題もなかった。
 切れた舌の断面から流れ出た血が口腔を満たしていく。不思議と血腥さは感じない。それどころか、何処か懐かしいような匂いがする。この匂いを夢野は良く知っていた。どんな書物とてこの匂いとは無縁ではあるまい。書籍に張り巡る葉脈、物語を産む胎盤に満ちた血の匂い。
 ユックリと顔を離した司書の赤い唇は、墨でも飲んだように、黒く濡れていた。薄く開いた唇の端から、ボトリ、と塊が落ちる。夢野の膝の上を黒く濡らしたソレは、ヌラヌラと蠢いたかと思うと、最後には断末魔を漏らすように一度大きく引き攣れて、身を捩ったままバタリと倒れ込んだ。そうして見えた裏側に、鞣革でできた薄片が張り付いているのに気づいた。
 皮手袋に包まれた黒い指先が塊を、舌に良く似た長半円の黒い塊を摘み上げて裏返す。活版だろうか、規則的な、しかし見覚えのない記号のような異国の文字が二つ、並んでいた。どこか英字のnとxに似ているようにも見えたが、明瞭に異なっている。
「私は確かに貴方さまの言う通り、ただの空虚な人形です。土と泥で作られた中身のない入れ物です。ですが貴方は私とは違う。貴方は一冊の本であり、一編の物語です。洋墨によって綴られた、美しい言葉の集合体です。けれども最初の一行だけは私も貴方さまも同じ――אמת生きよ、と」
 司書の口から出たその言葉を、どこかで聞いた覚えがある。胎児の見る夢のように、朧気な記憶の彼方。
 意味もわからぬ異国の単語を問いかけようと開いた口は、ゴボリ、と黒い血を吐き出すのみだ。口だけではない、歯列が、唇が、顔の皮膚や骨格が、ドロリと黒く溶けていく。ボタボタと落ちる洋墨の匂いが、今や無視できないほどに室内を満たしていた。
「夢野久作さま」
 司書が夢野の名を呼んだ。夢の久作の書いたごたる、と父の漏らした、夢野の著作を最も言い表したであろうその名を。
 己は夢を見ているのか。悪夢のような話ばかりを書くうちに、その中へスッカリ囚われてしまったのか。
「あの日、私の舌を噛み切っていたならば、貴方さまの頁はまだ続いておりました」
 嘲る風も残念がる様子もなかった。ただ司書の漣一つない静かな黒い瞳に、夢野の姿が映っていた。自身の姿がユラユラと陽炎のように揺らめくのを夢野は見る。ほんの小さな黒目の表面に映り込む、己の輪郭が崩れる様を言葉もなく見ていた。
 それはまるで、司書の瞳の中へと己という存在が溶け込んでいくようにも見えた。
「貴方さまの魂は、」
 司書の白い指先が洋墨に沈んでいた薄片を拾い上げる。
「消えるわけでは御座いません。此処は帝国図書館、焚書坑儒は致しません。新しい本を用意いたしましょう。それまでは少しお眠りください。悪い夢を見たと、そう思って」
 ピチャン、と雫の垂れる音を最後に夢野の意識は途絶えた。

 コンコン、と扉を叩く音に司書は誰何の声を上げながら振り返る。まだ良いとも言わないうちにガチャリと取手の回る音がして、顔を出したのは徳田秋声だった。
「あまり遅くまで起きていると明日に……うわぁ」
 室内を見るなり盛大に顔を顰める。その視線の先には洋墨に濡れた長椅子があった。一瓶丸ごと引っくり返したのか、吸いきらない洋墨が座面を溢れて床にまでボタボタと垂れ落ちている。
「また?」
「はい、お恥ずかしながら」
 司書がこうして洋墨瓶を割るのは初めてのことではなかった。徳田の覚えている限り、三度は同じ光景を目にしている。最初は江戸川乱歩が来た、数日後のことだったか。感情表現が少ない、取り付く島がないと陰で言われているようだが、一人にすると偶にこうしてやらかすので、文豪達の前では気を張っているのだろうと徳田は思っている。最初に出会った自分ぐらいにはもう少し気を許してくれても良いのに、と思わないこともないが、けれどもこの虚勢が年若い彼女にとって必要なことならば、敢えて何も言うまいとも思う。元より徳田自身、目立つことは避けたい質だ。司書が助けを求めるまでは、コッソリと支えるくらいで良いと思っている。
「手伝おうか?」
「ありがとうございます。けれど、大丈夫です」
「夜も遅いし、程々にしなよ」
 緩く頭を振って断られるのもいつものこと。食い下がることもなく、素直に自室へと戻ろうとした徳田は、ふと応接卓の上に湯呑みが二つ出してあることに気がついた。仕舞われていないということは、先程まで誰かが訪れていたのだろう。
 しかし徳田の思考は相手を推し量るでもなくそこで止まる。
 まるで何も見なかったかのような、不自然なまでの無関心さで、フイと卓子から目を逸らして、
「じゃあ、おやすみ」
 司書へ就寝の挨拶を告げると、静かに扉を閉めた。

「おはようございます、夢野久作さま」
 深い眠りから覚めたようにボンヤリとした思考の中、夢野久作が目にした物は、四方を本棚に囲まれた薄暗い小部屋とその中央に立つ陰気な成りの若い女だった。
 五畳半の部屋には明かり取りの窓もなく、ニスが塗られただけの木地の本棚は高さ二間程ある天井を押し上げるように上へと伸びている。棚一杯にギッシリと詰められた本の種類は様々で、和本もあれば洋本もある、辞典もあれば雑誌もあるといった具合に、古今東西の書籍を手当たり次第に詰め込んだような様相だった。天井には花型のガラス製洋燈がひとつきり吊るしてあって、ソレも本の劣化を抑えるためか、随分と光量を絞ってある。最下段に並ぶ本などは半ば闇に沈んで、背表紙の書名すらも読み取れないほどだ。
 極楽にしては余りに暗く、地獄にしては明るすぎる。まるで穏やかな悪夢のような、そんな部屋だった。
「――久作さま、お身体に違和感は御座いますでしょうか」
 ボソボソと何かを話し続けていた女が不意に己の名を呼んだので、夢野は目をしばたたかせる。目前の女を、まるで今気づいたかのようにジロジロと見つめる。
 アア、この女を知っている。仏のような笑みを浮かべて、その癖、救いなどひとつも持たない――彼女は、一体何であったろうか。
「……司書?」
「はい、何で御座いましょう」
 帝国図書館特務司書、そう頭では理解しているのに、魂の奥底で違うと泣き喚く子どもがいる。胎児が母親に怯えるように、直感的な恐怖が背筋を走る。
「っふふふ、」
 口角が勝手に釣り上がる。笑声が唇から転げ落ちていく。
 この昂りは恐らく狂気だ。破滅の道を行こうとも、この美しい狂気に抗うことは夢野にはできない。どうせ、一度は死んでいる。二度死のうと同じことだ。この生は夢のようなものだった。
 いつかは覚める夢ならば、夢野は地獄の獄卒だとて、心ゆくまで分解してみたかった。
 たとえ、ソコに何も存在しないとしても。
「貴女は何者なんですか」
 その問いに、笑みを崩さぬまま司書は答えた。
「貴方さまは既に御存知の筈です」
 この会話さえ、既に読み終わった物語のようにだった。何もかもが終わりを迎えて、けれども頁がまだ残っている、そんな風な。
 最後の頁になんと書いてあるか、夢野は知らない。知っているような気もするが、その読み方を夢野は聞いたことがない。
 しかし、不思議と夢野の脳は最初の一行を覚えている。
「……emeth生きる
 司書がパタリ、と本を閉じる。いつの間にかその繊手は重たげな革装丁の四六判の洋書を持っていて、その暗い臙脂の表面を撫でていた。
「えぇ、そうです」
 薄い赤い唇が、本当に、心の底から。微笑んでいるようだった。

「――私達は、言葉によってある存在なのですから」

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2024/02/03

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