「こんなものは芸術とは呼べません、彼はただの異常者です」
朝、何気なく点けたテレビで流れていたニュースではコメンテーターが顔を顰めて苦言を呈していた。ここ最近同じような話題ばかりだ。新進気鋭のアーティスト、ステファノ・バレンティーニ。そう謳われている彼の作品は見るに耐えないものばかりだった。思い出すのも憚られるような残虐的な作品。例えば死体を模していたり、或いは死体そのものを使用しているようなものだったり。あくまでも作品だ。そう分かっていても到底見る気にはなれなかった。一度だけテレビで見たがある。確かに衝撃的だ。でもそれは決して良い意味ではない。大抵の人はきっと彼のことを異常だと感じるだろう。思い出すと嫌な気分になる。大きなため息を吐き、残っていたコーヒーを流し込んでテレビを消した。そろそろ家を出なければ。
アルバイト先の喫茶店へと着いた私は混みつつある店内を見回した。こじんまりとした雰囲気とコーヒーの美味しさに惹かれて始めたこのお店での仕事。大変なときはあるものの、幸いにも楽しく仕事をさせてもらっている。大きな変化も贅沢な暮らしも望んでいない。自分の好きな場所で好きなことをして慎ましく暮らしていければ、私はそれで充分幸せだ。…なんて、仕事中に考えることではなかった。来客を知らせるドアベルが鳴り、私は顔を向けた。
「…い、いらっしゃいませ」
「一人だ。席は空いているかな」
「すみません、すぐに片付けますので少しだけお待ちいただけますか?」
「ああ。ゆっくりで構わない」
スラっとした体躯に質の良さそうなスーツ。上品な雰囲気を纏うその男性に、私は見覚えがあった。知り合いじゃない。あれ、誰だったっけ。つい最近どこかで──そこまで考え、慌てて口を開く。来店客を待たせてまで考えることじゃない。快く了承してくれた彼にお礼を言いながら、空いたカウンター席に残されている食器を急いで片付ける。あれ?もしかして、と思ったとき、私の手からカップが滑り落ちた。
「申し訳ございません…!」
あろうことか、落とした破片は床を滑り彼の近くへ。何度も頭を下げながら割れた破片を拾い集めていく。自然と手が震え、尖った破片の先で指先を切ってしまった。多分そんなに深い傷じゃない。このくらいならすぐに血も治るはず。そんなことよりも早く片付けないと。もう一度伸ばした手を、目の前の彼が掬い上げた。
「切っているじゃないか。早く手当てをしたほうがいい」
「だ、大丈夫ですから…!」
「せっかく綺麗な手をしているんだ。跡が残ってしまったら事だろう」
彼は私の指先に持っていたハンカチを押し付けた。真っ白なハンカチが見る見るうちに血で赤く染まっていく。申し訳ないと思いながらも、私は恐怖で震える手を抑えることが出来なかった。私の記憶が間違っていなければ、この人は多分ステファノ・バレンティーニだ。ただ作品を見たことがあるだけ。彼のことなんて、それこそ名前くらいしか知らない。それでも恐怖心を煽るには充分すぎるくらいだった。…でも。
「痛むか?」
私の目を見つめて首を傾げる彼が、そんな風な人間だとは思えなかった。自らのハンカチが汚れることも厭わず私の止血をし、更には傷を案じるような言葉。この人があんな作品を?と、そう思わずにいられない。彼に謝罪とお礼の言葉を述べ、消毒のためにバックヤードへ戻った私の頭の中はそんな疑問でいっぱいだった。適当に巻き付けた絆創膏には赤い血が滲んでいる。あの人のハンカチはきっともう使い物にならないだろう。
「本当に申し訳ありませんでした。ハンカチはきちんと弁償させていただきますので」
「僕が僕の判断でしたことだ。あのハンカチも安物だし、君が気にする必要は何もない」
「ですが、」
「いい、と言っている」
食い下がろうとする私を彼が静止する。コーヒーを一口飲んでから頬杖をつき、彼は私をジッと見つめた。前髪で片目を隠した特徴的な髪型。やっぱりこの人は…そう思っていながらも、作品と彼自身のイメージがかけ離れすぎていて結びつかなかった。とはいえ、今回の件に関しては当然ながら私に非がある。彼がどんな人間であろうとそれは変わらないし、それに対して謝罪や対価を払うべきだ。
「…どうしてもと言うなら、一つ頼みがある」
「頼みですか…?」
彼は真っ直ぐに私を見てそう言った。冷や汗が滲むのが分かる。何を言われるのか。恐る恐る聞き返すと、彼は小さく手招きをした。あまり大きい声では言えないのだろうか。耳を寄せるように彼へ近付く。
「行きたい喫茶店があるんだが付き合ってくれないか?」
「喫茶店?」
「ああ。君はここの従業員だろう?言わば他の店はライバル店なわけだ。だからあまり大きな声で言えないが、僕一人では入りにくくてね」
どこか悪戯っぽく笑いながら言った彼に胸を撫で下ろす。何を言われるかと思えばそんなことか。二つ返事で了承し、そのときのためにと連絡先が書かれた紙を渡された。名前は特に書いていない。つまりは、まだ彼がステファノだと確定したわけではない。彼の誘いに乗った私は、この先に何が起こるかなんて知る由もなかった。