息が出来ない。
地面に叩きつけられたショックで肺から空気が全てなくなった、そんな衝撃だ。

"東の海"の果ての監獄で、虚ろな玉座に踏ん反り返り、金の流れを掴んで暴力で捩じ伏せた空虚で小さな王国の中、娯楽も看守もすべて思いのままにしていた。
いつものように食堂で、大勢の囚人たち、血に飢えたハイエナのような観衆の中、プライドだけは一人前の小悪党の新米囚人をいびり倒していたときのこと。

普段なら止めにも入らない腑抜けた看守のシルエットが、恐れを知らずに前へ進む。
透き通る女とも少年とも言えない清流のような声が「やめて」と一言。

ああ? と掴みかかろうとしたら、その力があらぬ方向へ、するりと流れを変えさせられ、床に叩きつけられた。
怒りに我を忘れて力任せに飛びかかると、またもや身体が宙に浮いた。
囚人たちが、歓声を上げる。なんて無様な。

「もう、忘れてしまった?」

伸ばされた手を思い切り払いのけると、その看守は残念を通り越して、胸を切りつけるような哀しみに満ちた声音で男を見上げた。
やっとまともに相対すれば、華奢な年頃の娘だということに気がつく。

「…何をした、女」
「少し、あなたの力を逸らしただけです」

はたいた手をさすって、彼女は頼りなさげに笑う。それがあまりにも懐かしく、既視感を覚える。
ーーいや、そんな、まさか。

「アニタ」

囚人たちが更に血を!と声を上げる中、遠く歓声が遠のいて行く。

「約束だと、私は思って今まで生きてきたんです」

あのいつも濡れたグレーの瞳が、今も同じように涙をこぼしそうなほどゆらゆらと揺れている。
立ち上がり、アニタの肩を掴む。

「ころせ!たおせ!」

遠くから引いては返す波のような罵声が飛び交っている。

「…覚悟は? って、聞くまでもねェな」

振り返って、観衆どもを見渡す。
ああ、そうか。

捨てるものが多いのは、俺の方か。


「いきましょう」


狂気にみちた愛の囁き。
アニタの手を取る。この世のものとは思えないほど、神々しく微笑む。

男より先に駆け出して手を引く彼女の背中が、扉を抜けた外の真っ白な光の中にとけていく。

海の匂い。風の香り。

「これが、自由か」

それは生まれて初めて見る景色のように、世界がひっくり返って、頭上に落ちて来たかのようだった。
空の青さ。海の深さ。

知っていたつもりでいたこと。
見えていなかったこと。

「はい。後でまた追いかけられることは必須ですけれど」

監獄の船を盗んで、海に出る。
潮風に吹かれるアニタの横顔は数年分おとなびていて、いたかもわからない架空の恋人に嫉妬さえ覚える。

「…くだらねぇな。本当に」

ぽつりと呟くと、アニタは前の話の返事だと思ったようで、

「まったく迷惑です。ほっといてほしいですよね」

などと言っている。
馬鹿馬鹿しい。声をあげて笑う。

「返り討ちにしてやるさ。ところでアニタ。お前、あれから何人と付き合った?」

誰とも。という返答に、告白してきたという人数まで律儀に答える彼女の頭をくしゃくしゃに撫でる。


よし、決めた。
まず最初に、そいつら全員、殺しに行こう。