『兵衛さん。今日はいい天気よ。雲はちょっとまばらにあるけど、気持ちの良い青空。でもお昼ごろからにわか雨が降るかもしれないんですって。こんなに晴れてるのに…本当、嫌になっちゃうわ。』
「……」


ベッドに横たわり未だ意識の戻らない彼を背に、彼女は警察病院の個室の病室で窓の外を眺めながらそう言った。


『もう10年も、あなたはこの空を眺めていないのね…』


そして、私のことも…振り返って黒田の姿を見ると苗字は悲しげに表情を曇らせる。彼らの出会いはこの警察病院。元々ここの医師として働いていた彼女のもとへ警察官の黒田が怪我をしては度々顔を合わせていたことがきっかけだった。


『はぁ…あなたは怪我するのが仕事なんですか?』
「そう怖い顔しねぇでくれよ先生。俺にとっちゃ、コイツは勲章みたいなもんだ。」
『それは今あなたが生きているからこそ言えることでしょ?一つ間違えれば勲章どころの話じゃありません!!』


毎度毎度重症レベルの怪我を負ってはケロッとした様子で帰っていく彼に飽き飽きしていたが、その印象はある出来事を経た後一変する。仕事帰りにたまたま一人入ったバーでしつこく話しかけてくる近くの男に彼女が困惑していると…


「俺の連れに何か用か。」
「あ?何だお前。」
「用件があるなら俺が聞くと言ってるんだが?」
「んだよ、男いたのかよ…!!」


間に割って入った彼がかばってくれたことで事は収まった。


『あの、黒田さん…先程は助けていただきありがとうございました。』
「別にどうってことはない…しかし女が一人でバーに入る時はああいうリスクも有るということを肝に銘じておいたほうがいい。あんたみたいな美人なら尚更な。」
『はい。以後気をつけます…って、え?』
「ん?」
『今なんて…』
「……二度も同じこと言わせるなよ。」
『あ、ごめんなさい…』


黒田の顔が耳まで赤くなっていることに気づかず、苗字は顔を伏せてしまう。


「まぁあれだ。それでも今後どうしても行きたいってんなら、俺が付き添ってやってもいいが。」
『付き添う?あなたが?』
「やたらと図体のでかい強面の男がそばにいれば、変な虫も気安く近づいてこないだろ。」
『ふふっ、自分が強面なのは自覚あるんですね。』
「あんたなぁ…人が心配してやってるってのに…」


こうして二人の関係はより深みを増していった。やがて心を通わせた彼らは晴れて恋人同士となり、いくつもの季節を共に過ごしていく。しかし、その時は突然訪れた。


『明日からアメリカ?随分急な話じゃない。』
「俺も上から突然言われたから驚いたよ。だからしばらくは会えなくなると思う。」
『そう…仕事だし、仕方ないか。』
「…そんな顔するな。」


寂しそうに笑う苗字の額に黒田は優しくキスを落とす。


「心配しなくても、俺は必ずお前の元へ帰ってくるさ。」
『…必ずよ。必ず帰ってきて。』
「あぁ、約束する。信じてくれ名前。」


互いに抱き締め回した腕に力がこもる。今思えば、彼が急な休暇を取ってアメリカに行くと言ったあの時から彼女の中で何故か嫌な胸のざわめきを感じていた。このような事態にならないよう願っていたはずなのに。


『あの時、力付くでもあなたを止めていれば…こんなことにはならなかったのかしら。』


アメリカへ渡米した黒田が交通事故に遭ってもう10年。顔には火傷の跡と右目に包帯を巻かれ、髪はストレスのせいか白髪へと変色し変わり果てた姿で眠っている。この先永遠に目を覚まさず”植物状態”と判断されるかもしれない。それでも彼女は彼が目覚めることを信じ、毎日のようにこの病室へ通うことをやめなかった。


『お願い…早く起きて、兵衛さん…』


黒田の右手を両手で包み込むように握り、これまで幾度となく願った思いをその手に伝わるよう念じ続ける。すると…


「……」
『っ!!』


握っていた右手の指が微かに動いたのを両手から感じ取った苗字はすぐさま立ち上がり彼の顔に勢いよく自分の顔を近づけた。


『兵衛さん?…兵衛さん分かる!?私よ、名前よ!!私の声が聞こえていたら、右手の指を動かしてみて!!』


ゆっくりと左目の瞼が開き定まらない瞳孔が右往左往している中、彼女の声に応えるように黒田の右手の指が再び動く。その反応を受けて彼女は急いでベッド横のナースコールを押した。


『今先生呼んだから!!』
「っ、…」
『大丈夫、分かってる…』


何かを伝えようと彼は口を動かすが長い間眠っていたせいか声が出ない。だが苗字には分かっていた。自分の名を呼んでくれていることを。


『おはよう、兵衛さん…おかえりなさい…!!』


ポロポロと涙を流しながら黒田の手を握りしめたままその傍らにしゃがみ込む。まさに奇跡のような、ずっと待ち望んでいた瞬間だった。

その後黒田の容態は少しの後遺症は残ったものの、リハビリを経て驚異的な回復を見せる。そんなある日のこと。


『そうだ…もうすぐ退院だし、何かあなたのやりたいことでもやりましょうよ!!』
「やりたいこと…」
『ほら、あるでしょ?旅行に行くとか映画を観に行くだとか、スポーツ観戦なんかもいいんじゃない?警察官なんてめったに長い休み取れないんだし、羽を伸ばしたってきっとみんな許してくれるわよ。』
「俺は10年間も寝ていたんだろ。休むにしては少々羽根を伸ばしすぎた。」
『もう…相変わらず真面目なんだから。本当に欲がない人ね。』


せっかく提案したのを拒否されたようで彼女が拗ねたように顔を逸らす。だが、彼の方は様子が違った。


「欲があるとすれば、名前。」
『何?』
「お前を…俺から解放してやりたい。」
『えっ』
「もう、お前の自由を奪う権利は俺にはないはずだ。」
『……ちょっと待って、なんの冗談?』


突如思いもよらない言葉を発した黒田に対し、苗字は目を見開きながら聞き返す。


「10年も動かなかった俺のために尽くしてくれたことは今でも本当に感謝している。だがそのせいで、長いことお前を縛り付けてしまった。」
『そんな…』
「俺はこの失った右眼と顔に残った火傷の跡を一生背負いながら生きていくことになる。これまで以上に、苦労や迷惑をかけるに違いない。だから『バカ言わないで!!』


言葉の続きを聞きたくなかった彼女はその場から勢いよく立ち上がり遮るように声を張り上げた。


『私が…私がこの10年間、嫌々あなたの看病してたと思ってるの?冗談じゃないわよ!!私はただ…あなたが目を覚ましてくれることを、ただひたすら願って、祈って…待つことしかできなかったのに…!!』
「名前…」
『…それが愛することだと思っていたのは、私だけだったのね……』
「いや、そういうわけでは『分かった。私もこれ以上、あなたのことを苦しめたくはないし…もうあなたの前には現れないから安心して。』


そう言うと荷物をまとめて彼に背を向け、病室のドアの前でふと立ち止まる。そして…


『…さようなら。兵衛さん。』


涙をこらえながら声を振り絞り、その場を去った。ドアを閉めると数歩進んだ先で立ち止まり抑えきれなくなったその瞳に溜まっていた雫がこぼれ落ち、廊下に響かないよう口を手で抑えて咽び泣いた。



***



あの日以来苗字の方から黒田の元を訪れることははたとなくなり、数週間が過ぎて黒田が退院したことも人づてに聞くほどに二人の距離は遠いものに。


「では先生、お先に失礼します。」
『お疲れさま。』


彼という存在がいなくなり、これまで以上に仕事に邁進することを心に決めた彼女は患者のカルテに目を通しパソコンでの入力作業を業務終了後も続けており、帰りが遅くなることもしばしば。


『(さすがに若い時みたいには疲れが取れないものね…)』


肩に手を置き首筋を伸ばしながら病院の正面玄関を出ると…


「随分遅くまで残ってるんだな。」
『っ、』


柱に寄りかかり腕を組んでいる大柄の男性が声をかけてきたことに驚き、さらにそれが黒田であったことでより一層目を見開いた。


「無理をしては体に障るぞ。」
『な、何してるのこんなところで…!!』
「お前を待っていた。」
「…今さらあなたと話すことなんてないわ。」


そう言って横を通り過ぎようとしたが、彼の手が苗字の手首を力強く掴む。


『ちょっと、離してよ!!』
「名前。やはりお前は何か誤解しているようだ。いや、誤解を生んだのは俺の回りくどい言い方が良くなかったせいなんだが…」
『…どういう意味?』


黒田は真剣な眼差しで困惑の表情を浮かべている彼女をジッと見つめた。


「あの時、俺はお前に二つの道のどちらかを選ばせるつもりだった。もしお前が俺と別れて自由に自分の人生を歩みたいと願うのならそれでも構わない。しかし、たとえこの先苦労の耐えない道であろうとも俺は…お前が隣にいてくれる人生を歩んでいきたい。これ以上お前を悲しませることは絶対しないと約束する。だから俺についてきてくれないかと。」
『それって…』
「結論から言うと、俺はお前にプロポーズをするつもりだった。」


それを聞いた苗字はポカンと口を開け固まってしまう。


『…え、えっと、つまりあなたは私にぷろ…プロポーズするつもりでその話を始めたのよね?』
「あぁ。」
『でも、私が最後まで話を聞かずに早とちりしたせいで全部おじゃんになった…むしろ私の盛大な勘違いで話が拗れたってこと…!?』


真っ赤になった顔を両手で覆いながら恥ずかしがる彼女に、彼は柔らかい笑みを浮かべた。


「だがあれがあったからこそ、より確信したんだ。何が何でもこの人を必ず幸せにしなければならないと。」
『兵衛さん…』


そう言うと黒田は一歩前に進み、彼女に歩み寄る。


「お前を想う気持ちは今でも変わらない。だから改めて言わせてほしい。名前。俺についてきてくれないか。これからは妻として。」
『っ!!』


真っ直ぐ言葉を言い放つ彼の手元には、小さな四角い箱が。その中身が何なのか苗字には開けなくとも分かっていた。


「俺と結婚してくれ。」
『……えぇ。もちろん!!』


もう叶うはずのないものだと諦めていたことが現実となり、彼女は応えながら嬉し涙を流す。


「そうか…よかった。」
『あなたのこと疑ったりしてごめんなさい。あなたと10年以上も一緒にいるはずなのに、早とちりなんかして情けないわ…』
「そんなことはないさ。俺のためにあそこまで憤慨するお前の姿は、なかなか可愛かったぞ?」
『もう、からかわないでよ!!』


ムッとした表情を見せる苗字の姿を黒田は愛おしそうに見つめた。


『ねぇ。指輪、見てもいい?』
「あぁ。」


開かれた箱に入っていた指輪は街灯に照らされキラキラと輝いている。


『綺麗…』
「確証があったわけじゃないから自信はないが、多分サイズは合ってるはずだ。」
『今はめてみよっか。』
「オイ、そういうのはもう少し雰囲気のあるところで…」
『ならここでプロポーズするのもお門違いなんじゃないの?』
「それは…ただ単にお前に会いたかったし、一刻も早く気持ちを伝えて誤解を解かねばと逸る気持ちがそうさせたまでだ。」
『っ…』
「……どうした。急に黙るなよ。」
『兵衛さんって不意打ちですぐそういうことさらっと言っちゃうから…こっちがドキドキ抑えるのにどれだけ必死か分かってないでしょ。』
「こんなことお前以外に言うつもりはないが?」
『もう!!…だけど、この感覚もなんだか懐かしい。』
「あぁ、そうだな。」


そう言うと彼はおもむろに苗字の方へ引き寄せ、優しく包み込んだ。


「何度も確認して悪いんだが…本当に、いいんだよな?」
『ふふっ、今さら自信なくしてるの?あなたらしくもない。』
「そうは言っても…こんななりになっちまった。10年前よりだいぶ老け込んだし、顔や髪だって…」
『あら。昔より渋さに磨きがかかって、私は好きよ。それを言うなら私だって十分おばさんだし、シミもシワも増えてあの頃みたいに全然若々しくなんかない…』
「何を言ってる。今も昔も…お前は変わらず美しいままだ。綺麗だよ。」
『ほ、ほら…そういうとこ…』
「フッ、照れた姿もまた愛らしい。」


愛おしそうに目を細めた後、黒田は彼女の頬に大きな手を添えてその瞳を見つめる。


「名前、愛してる。」
『…私も。愛してるわ、兵衛さん。』


ゆっくりと距離が縮まり二人は久方ぶりに長い口づけを交わした。



***



それからまた数年が経ち黒田は長野への地方出向を命じられ、妻となった彼女もそれについていく形で医師の仕事を辞めることとなる。


「へぇーやっと終わった…お?あそこにいんのコウメイか?」


長野県警の大和敢助は報告書を課長に提出するため廊下を歩いていると、同僚で幼馴染の警部・諸伏高明の姿を見つけた。


「おうコウメイ、お前そんなとこで何して「シィー!!」
「あ?」
「静かにしてください敢助くん。何やらお取り込み中のようなので。」
「取り込み中って、一体誰と誰がだ、よ…」


諸伏の視線の先を見ると、廊下の物陰に隠れ背中を向けながら電話越しに誰かと会話している黒田の姿を目撃する。


「あぁ…今日は早めに事件が解決したから家に早く帰れそうだ。ちなみ晩飯は…フッ、そうか。それは今から楽しみだな。」
「黒田一課長じゃねぇか。話してる相手は誰だ?」
「よほど気心の知れている仲…恐らく近親者の類ではないかと。」
「そういやあの人たしか結婚してたよな。」
「えぇ。晩御飯のメニューを聞いているあたりから推測すると、電話の相手は黒田夫人でまず間違いないでしょう。」


二人が電話の相手を勝手に予想していると…


「…あぁ。俺も愛してるよ、名前。」
「あっ!?」「!?」


思わぬタイミングで思わぬ相手のとんでもない発言を耳にしてしまった彼らは驚きのあまり目を見開いた。


「またあとでかけ直す。じゃあな。」


そう言って電話を切ると黒田はため息を一つ吐き、後ろを見向きもせずに静かに口を開く。


「そこで何をコソコソと話している。大和、諸伏。」
「げっ…」「……」


あっけなく底にいることがバレてしまった大和と諸伏は観念したように彼の前へと姿を現した。


「何か俺に用があって来たんだろう。」
「あぁっと…報告書が出来たんで一課長に提出しようと思ったんですが、見当たらなかったんで探してたんですよ。」
「私も同じく。ですが電話で誰かとお話中のようでしたので、邪魔をしてはいけないかと会話が終わるのを見計らってからお声がけするつもりでした。」
「そうか。それは手間取らせてしまいすまなかった。」


これは後で目を通しておく。と黒田は二人から報告書を受け取る。


「ところで…今の報告から察するに、先程の電話の内容をお前たちは聞いていたというわけだな?」


語気を強めながら近づいてくる彼に大和と諸伏はその圧で口を噤んでしまった。


「聞く分には別に構わない。だが…聞いた内容は他言無用で頼む。」
「「……」」
「……分かったな?」
「「…はい。」」
「ならいい、お前たちも今日は上がっていいぞ。」


知るつもりもなかった上司の秘密を知り、戸惑いの表情で二人は顔を見合わせる。その後二人は約束通り黒田の秘密が広まらないよう努めていたが、後日着替えを届けに県警を現れた彼女のおかげで”愛妻家”、”おしどり夫婦”の噂は県警内で瞬く間に広がっていったのだった。





Nothing


万世不朽