何も聞かないからあなたは優しい

「名前」

仁王の声が冷たい空気を少しだけ震わせた。11月も半ば。暖房をつけていない部屋は凍えるように寒く、外と同じようだった。
名前を呼ばれたにも関わらず名前は部屋の隅で毛布を被って縮こまったままいる。額をフローリングの床にぴったりくっつけて、小刻みに震える様は、まるで"子供"か"病人"のようだった。

仁王は開けたドアを後ろ手で閉めて、暖房をつけ、隅にいる名前の元へゆっくり進んだ。
しゃがみこみ、毛布を剥ぎ取り、顔色を伺おうとするも、床に額を押し付けた名前の顔は見えない。

「玄関の鍵、開けっ放しじゃった。もっと用心しなさんな」

返答はなかった。仁王なりに心配しているのだが、名前は小さく嗚咽を漏らしたりしゃくりあげたりするだけで言葉は発しなかった。

「今日も休んだんじゃな、仕事。ゆっくりする時間が必要じゃな」

依然、言葉はない。
仁王は淡々と独り言を述べるように語りかけていく。

「そういえば映画見に行こう言ってたのに予定たててなかったな。どうじゃ?今日は。映画見て、美味い飯食べて、その後イルミネーションでも見に行くか。まだ11月でもやってる所はある、他でもないお前さんと思い出作り…楽しそうじゃろ?」

名前の泣き声が大きくなった。そんな気がした。それに途切れ途切れに紡がれる言葉。時折しゃくりあげてしまうから、それは聞こえづらかった。

「におーくん、わたし、ごめん」
「お前さんは何も悪いことしとらんじゃろ?」
「へーじつなのに、きゅーによんで、ごめん」
「俺はわりと暇人じゃし大丈夫じゃ」
「わたし、としうえ、なのに、こんな、だめにんげんで、ほんとーにごめん」
「歳とか気にせんし、ダメ人間とも思っとらんよ。今日呼んでくれてありがとな。いつもお前さんは俺の事頼らんからの、こうやって頼られるのは正直嬉しい」

仁王は名前の頭を撫でながらそう言った。背中をポンポンとさすれば名前はやっと上体を起こした。

「お前さん、デコも目も鼻も真っ赤じゃ」
「うん」
「ぐじゃぐじゃじゃな」
「うん、ぶす」
「なにを言うか、可愛いにきまってる」
「あざす」
「少し落ち着いたな」
「うん」

名前は仁王の腕の中に潜り込んだ。仁王は嫌がる素振りもなく受け入れる。

「におーくん」
「なんじゃ?」
「優しくして」
「俺はいつも優しかろ?」
「うん、でももっと」
「構ってちゃんじゃな」
「うん、だめ?」
「そんな日があってもよかろ」

仁王は名前の腕を引きながら立ち上がった。

「それで、今日一日はどう過ごそうかの」

名前の腕を引き、クロゼットの前に佇む。取っ手を握りスライドさせれば、ハンガーにかかった服が目の前に現れた。

「おっと、この服は見たことないの。どうじゃ、お前さん。今日のデートに」
「で、でもかおぐちゃぐちゃだし」
「少し冷やしてメイクすれば完璧じゃよ、俺がお前さんをイリュージョンで変身させたるけぇの」

仁王がそう言えば名前はにこりと笑った。

「やっと笑ったの」
「あ、ほんとだ」
「お前さんを笑わすのは難儀じゃな」
「ごめん」
「だが、悪い気はせんよ。ごめんなんて、いらん。他に言うことがあろう?」
「ありがとう?」
「ちと違うの」
「うーん…なんだろ」
「おまんが俺に対してどう思ってるか」

その仁王の言葉に名前はハッとする。
もしかして愛が欲しいのかな、そんな風に思った名前は口を開く。

「………私、仁王くんのこと」
「俺の事?」
「ふふ」
「なんじゃー、たまにはいうてほしいんじゃが」
「デート、デートしてから言う」
「そうか、俺はお前さんのこと好きじゃよ」
「仁王くんってばずるい」
「ずるいのはお前さんじゃよ、ほら顔洗ってきんしゃい」
「はーい」

名前は部屋を出て洗面所へ向かった。
仁王はクロゼットから服を取り出して準備をし始めた。まるで専属のお世話係のようだと思ったが、不思議と悪い気はしなかった。

「さて、どうやって楽しませようかのう」

仁王の楽しげな呟きは部屋の空気に消えた。

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