魔女たちのコンフィチュール
魔法の炎でしっとりと焼き上げたブリオッシュは、今や紅茶味のシロップと冷気を孕んで甘い香りを漂わせていた。思い思いに膨らむ小麦の丘のなかでもとりわけ形の良いものを二、三個アイスハウスから取り出して、アプリコットのジャムを塗る作業に入る。てろりとジャムを含ませた刷毛で表面をつやつやにしたら、いちばん楽しい飾り付けの時間。まずはカスタード、次にラズベリー。それから忘れてはならないのが、あのひとが大好きなドレンチェリー。とろとろと艶やかで赤い実は、白うさぎの瞳のよう。ハーブも彩りとして添える。タッセルのついたテーブルランナー、よく磨かれたカトラリー、花の形に折ったナプキン。セッティングは完璧に済んで、このテーブルに足りない要素は客人だけとなった。レシピブックを閉じる。ジャボタイを結ぶ。今日は苦々しいくらいにうっとりと晴れて、窓から差し込む光が柔らかい。ドア前の階段を踏む靴音を感じて、慌ててダイヤモンドリリーを生けた花瓶を玄関に置き直したとき、来客を示すドアベルが高らかに鳴り響いた。
「エフェメラ、変わらぬ歓迎に感謝しよう」
彼女はドアが開くのとほぼ同時に言葉を発し、レザーのオペラグローブをはめた指で帽子をつまんでいた。「ミィミィ、遠……」私が用意した挨拶は先手を打たれてあえなく砕かれ、彼女はそれを楽しむように帽子を掲げ、恭しく一礼して見せる。マルメロに似た双眸が開かれ、いかにも魔女らしい三角帽が再び頂かれたあとも、私は口を噤んだままでいた。こちらに応える気がないのを知ると、いつもの勝ち誇った余裕を侍らせて、砕かれた言葉が再び接合されるのを優雅に待っている。もはや嘆息するしかなかった。
「ばかなことを言うひと。まだ歓迎しているとはわからないでしょう」
ここであなたを追い返すこともできる、とねめつけると、心底可笑しそうに口角を横に引く。私は彼女のその憎たらしい表情が好きだった。
「きみにその気はない。せっかく準備したデザートが無駄になってしまうから。ああ、でも試してみる価値はある。きみの魔法で焼き上げたケーキは何日経てば腐るのだろう。興味がないと言ったら嘘になるかもしれない」
「腐らせるケーキはあってもあなたに振る舞うケーキはない」
「冗談だよ」
ミィミィが左胸に手を当てるのは「許して」という意味だった。
ミィミィは閑雅なスリットが入ったクラレット色のマーメイドドレスの上に、黒いレースのマントを纏っていた。ベルベットで仕立てられたドレスは重厚な光沢を孕んでもったりと皺を作り、無数のアンバーが縫い付けられたマントは裾を引かれるたびにちらちらと瞬いた。彼女の姿は朧月夜の湖に映る豊かな影を想起させた。並べた食器の色を変えたくなってしまう。たったひとつの存在が入って来ただけで、部屋じゅうが夜になってしまったように感じた。
「ここは変わらないね、十月の最後の日なのに」
彼女はカーペットに踏み入れるなり上下左右を観察して、手探りに背もたれを引き、瞳を巡らせたまま悠然と着席した。古代の遺構や希少な宝石を眺めるのと同じ鋭敏な視線を使われて、部屋は心なしか萎縮した空気を含む。
「くどい。素直に聖アルティア記念日って言えば」
「言ったらきみは機嫌を損ねる。……今年はサヴァランか、美しいね」
帽子を取ると、彼女はただの貴婦人に見えた。僅かに肩を上げてマントをさばく仕草は、羽を持つ生き物の呼吸を思わせる。見惚れていたのも束の間、挨拶も片手間に握られたナイフがケーキスタンドの上段に向かったので、魔法でぴしゃりと弾く。
「品がないわね、せめてサンドウィッチから食べて」
マルメロ色の目をした魔女はやや驚いた演技をしてみせ、しかしまったく悪びれずにナイフを手に納め直した。その様子を眺めていると安心する自分がいた。
「わかっているよ、でも私は健啖家でないから。年に一度のきみのデザートを逃せないと思って」
「サンドウィッチだってとっておきなのに」
「すまなかったよ」
口腔から零された謝辞はしなやかに撓む。久々に聞く彼女の声は砂漠の一日のようだった。熱いかと思えば震えるほど冷たく、冷たいと思えばのぼせるほどに熱い。耳のなかに落ちていく響きはどろりと蠢き、うなされるようで、浸食されるようで、私は背筋を伸ばした。
「言い忘れていたけれど、今年のきみも素敵だよ」
丁寧に切り揃えたサーモンとアボカドのサンドウィッチがフォークで運ばれるのを見て、言いしれぬ歓喜に酔う。ああ、ミィミィ。あなたが気がついたかはわからないけれど、この部屋にだって一年前とは違ったものが置いてある。ジャスミン模様のコンポティエや、枝で休むカナリアを彫ったゴブレット、エメラルド色のモーニングカップ、それらと同じくらい、あなたのことを気に入っている。
2
「今夜、観劇に行こうと思っていて」
ミィミィはデザートにナイフを滑らせながら、静かに言葉を落とした。毎年恒例の話だ。わざとらしくならないよう気を遣っているのか、まったくこちらに視線を向けない。少し意地悪をしようと、私も知らないふりをする。
「いつにも増して洒落こんでいるのはそういうわけ?」
彼女は驚きもせず微笑し、至って自然に顔を上げた。フォークに刺さったサヴァランからシロップが滴り、皿に小さな湖が生まれる。
「きみには及ばないよ」
穏やかに眺められて、得意げに立て襟を指で引っ張ってみせる。白鳥のように優美な仕立ての雪色のドレスは、ワードローブの手前の区画に置いているほどお気に入りだった。
「それで、カリブンクルス座でルーベルの演出なのだけれど、一緒にどう」
彼女はデザートを緩やかに口に運び、咀嚼する。常に余裕ありげな彼女がはらはらしている様を見るのは実に小気味よい。勿体つけてドレスの自慢でもしようかと考えたが、おざなりに聞かれるのも不愉快なので早々に幕を引くことに決める。
「演目、『アルティア』でしょう? 行かないわよ」
ミィミィはカトラリーを置く。喉を絞るような静寂で彩った、繊細で引き締まった響きを紡ぎ出した。
「没後百年を記念した特別な演出でも?」
「行かない。私はあの話は嫌い。一人で行ったら」
彼女は困ったふりをして瞳を逸らし、足を組む。あと二、三は説得する方策があるのだろう。見出した解法がたった一つではないのにも関わらず、二、三では落ち着かないところが彼女らしかった。
「命日はきみと過ごすように、というアルティアの遺言に背きたくはないな」
「守る必要もないわ、そんな漫ろ言。あなたの世界で流行のアクセサリーは死人に束縛されることなの? とてもナンセンスね。笑ってしまいそう」
柔らかなウィスタリアの花模様で縁取りされたティーカップを持ち上げる。傾けるとミルクティーの表面がするすると形を変え、器の内側に羽ばたく小鳥の嘴を濡らした。
「きみがこの誘いを断り続けて百年と思うと、感慨深いものがあるね。けれど、今回も昨年と同様に、積み上げてきた百年の日々と違わないやり方で拒絶して、差し支えないと信じられる? 悔悟することが皆目ないと言い切れる? ルーベルは同じ演目を二度は演出しない。きみも知っているだろう」
私は言葉の糸を縒りかけて、口を閉じる。沈黙を誤魔化すためにミルクティーを啜った。神出鬼没のルーベル。優れた演出家でありながら脚本も複数手掛けており、ほかでもない歌劇『アルティア』の原作者だ。不定期に世界の各地で公演を行っていると聞くが何もかもが謎で、やたらと顔の広いミィミィでさえその実態は掴めないという。ルーベルの素性などに興味はないが、五十年前に観た『リヴィエラ』は素晴らしかった。闇夜に透きとおるカーテンの淑やかさと、白昼にそよぐアルストロメリアの烈しさを兼ね備えていた。零れる台詞はしらしら光るサフィレットのごと艶めき、氷のようにほろ苦い。それでいて舞う靴音はショコラショーに埋めたマシュマロに似て深く甘いのだ。古代の賢人の書庫を天窓から覗き、豊かな庭園の花を踏みつけて歩くごと荒唐無稽で無作法。瞼を閉じたいのにどうしようもなく惹きつけられてしまう。それがルーベルの歌劇だった。私はソーサーに描かれた小鳥たちから視線を外し、眼前の魔女と向かい合う。
「それほど行きたいのなら、アルティアではなくあなた自身の言葉を使って。誘惑してみせなさい、蝶を追い扇で撲つように。胸のなかで最も大切にしている部分を開けて、そのほかのすべてのドアを閉ざして。エトランゼ、初冬に満ちるベルガモットの香りより、夕暮れに奏でるヴィオロンの音色より、美しいものをあなたは知っている」
幾許かの躊躇いを混ぜて、私は好奇心を掻き回した。それはいかにも魔女らしい、まっすぐに屈折した感情だった。
「ミィミィ。旅先で出会った一等気高いものに、私をたとえて」
あなたの心の構造を教えて。私はそれと同等の要求をしたのだ。世界を旅する魔女は、今はこの狭い部屋の内に閉じ込められていた。アルティアの城でお茶をした頃、彼女を世界から隔離したコンサバトリーは私の所有物ではなかった。だがそれはもう関係ない。保有者がいなくなってしまえば、鳥籠は意味を持たなくなる。飼い主を失っていずれ死ぬ鳥を、私が棺に納めるのだ。
「きみは……」
ミィミィは頤に手を当て、迷う演技をしている。一刹那で答えが出ているのにも関わらず、悩む素振りを見せるのは彼女の癖であり、意識的な演出だった。紅い唇が開かれる気配に感情は忙しなく動き、指先は震える。私は、あなたを完全に仕舞い込むために、あなたを閉じ込めている最も小さな箱のことが知りたい。彼女は微かな笑みを従えて、長い足を組んだ。
「きみの言葉は星空の下で紐解いた詩篇に似ていて、木陰で縦譜をなぞるひとときのようだ。声はチェンバロの鍵盤のすべらかな憂鬱を想起させる。しかしスモーキングジャケットで過ごす午後の緩慢さも帯びていて、種を弾き飛ばすインパチェンスの熱っぽさも感じられる。流し目はこの街の湖の蒼い水面をナイフで切り取ったようで、オパールを光に透かしたよう。マグノリアの香りを思わせる気品がある」
上辺を飾った言葉だけでは不満だ、と目配せをする。返答は、無言の「わかっている」だった。
「そしてエフェメラ、きみ自身は、やはり炎に喩えるしかあるまい。けれどそれは暖炉で柔らかく燃える火ではない。堅牢さを持っていて、温度を与えるためより物を燃やすためや、ただ眺めるために存在する火。薄暗い窓辺で私は手紙を綴っていて、書き損じたものを焼べる。修正すべき箇所を思い浮かべながら、文字が黒雲母のごとく燃え落ちるのを見つめている、その静謐な感覚に似ている。故郷を持たない私に安らぎを齎してくれる、どこにいても変わらない、しかし一瞬一瞬で全く異なるものを感じさせてくれる、きみはそのようなものだよ」
彼女は急に諧謔を弄するときと同じ抑揚を使って、「まさかこれでも満足できないなどと言わないだろうね」と付け加えた。しかし次の瞬間には組んでいた足を戻し、自然にカトラリーを取っていた。こちらを見て、勝利を確信したからだろう。
「あなた、なぜ詩人でないのかしら。そうやって世界じゅうのひとを拐かしてきたの?」
ミィミィは何も答えずに、サヴァランの残りを片付けている。いつもの憎らしいマルメロ色の瞳だ。私はそっと席を立つ。
「一瞬で支度してあげる。ドレスコードは?」
「別にゆっくりで構わないよ。きみは着替える魔法、不得手だろ」
「好んで使うほどではない、と言ってくださる?」
「きみは着替える魔法は、好んで使うほどではないですよね。
今回の『アルティア』は、漆黒の薔薇が合言葉代わり」
階上のワードローブに意識を集中する。この白いドレスのまま黒薔薇を引き立たせるなら、レッグウェアとシューズは黒の入ったものがいいだろう。とりあえず、鮮やかなピオニーパープルのジャケットを呼び出して、袖を通す。
「毎年毎年随分と趣向が違うのね。昨年はハウンドトゥースチェックのラバリエールではなかった?」
それから、アクアマリン色のパンプスは脱いでしまって、オニキスのように艶やかなショートブーツ。失敗してパンプスを左右逆に靴箱に戻してしまったが、顔に出さないようにする。
「その前は星座の彫刻されたカフスボタンだった。ルーベルが決めているという噂もある」
グローブとソックスは黒いチュールにカラフルな蝶の刺繍が入った揃いのもの。カクテルハットかトーク帽か悩んだが、どちらもやめて、直接薔薇を髪に挿すことに決めた。髪を編み直し、薔薇の茎をくぐらせる。
いかが、と聞きかけたとき、ミィミィがぱちりと指を鳴らした。
「充分素敵だけれど、タイブローチがあったほうがいい」
視線で示されて自分の襟元を見やると、オリーブグリーンの宝石が三角形に煌めいていた。角度によって覗くレッドやイエローは、秋の並木道を思わせる。彼女は三日月の照る夜のように、不穏な美しさを漂わせて笑った。
「私が発掘したスフェーン。きみが欲しがるかと思って研磨しておいた。アメトリンもあるけれど」
「いい。この色のほうがジャケットが映える」
ほんとうにジャケットにぴったりの色合いだ。礼を言い、襟の形を整える。ミィミィが再び帽子を被ったとき、そこには二輪の黒薔薇が咲いていた。
「もう出かける気? せっかちね」
「きみがジャケットまで着るから。時間になるまで街を回ろう。聖アルティア記念日でみな浮かれている。チェリーとケシのシュトゥルーデルは絶品だよ」
「私の料理は食べないくせに」
「きみより古い時代の魔女だから、甘いものと空騒ぎが大好きで」
彼女は何やら赤い花を二、三出すと、気障な仕草で私に捧げた。機嫌を直せということだろう。ミィミィは物を転送したり、着替えたりする魔法が得意だ。一応これも、とアメトリンのブローチを勝手に私のジュエリーボックスに押し込んでいる。
「ねえ。私も着替える魔法、上達したでしょう?」
細い腕を捕まえると、人のジュエリーボックスを荒らし終わった魔女は「もちろん」と即答した後、やや目を泳がせる。それから、レザーのオペラグローブで帽子のつばをつまんだ。
「でも一瞬よりは少し長かったかな」
悪戯げに片目を瞑ったミィミィの足を、私はブーツの踵で思いきり踏みつけた。
3
魔女の街ニニュー。その発展に一役買った早世の領主アルティア。彼女が愛した異邦の魔女。哲学、音楽、数学、天文学、考古学、地上に存在するあらゆる学問に長けた側近、それこそがミィミィだった。
史劇『アルティア』でミィミィに相当する存在は、アルカヌムという役になっていた。彼女が二百年前に使っていた筆名だ。どれほど舞台を眺めても、美しき領主に旅の学者を紹介した幼馴染の魔女はもちろん出てこない。私という存在は彼女たちの物語に不要らしい。今更それで気を害することはないが、平然としているのも癪に感じて顔をしかめていると、レザーのオペラグローブが横から伸びてくる。珍しく眉を下げて神妙にしている異邦の魔女は、無言でフランボワーズのギモーヴを差し出した。
私は気取った態度でレースの扇を取り、手をなぞって見せる。異国の文化をまとめた本、他でもない"アルカヌム"の著作のなかで、「私はあなたのことが嫌い」という意味だと紹介されていた仕草だ。ここ百年ほど、少なくとも年に一度はこの振る舞いを実践しなければならない状態に追いやられていた。アルティアが亡くなってから、彼女は時々質素で従順な、猫のような表情でこちらを見る。私はそれが何よりも不快だった。
舞台装置が転換し、場面は一瞬で白くなめらかな壁で覆われた寝室に変わる。ニニューを侵攻から守り抜いたあと、肺を病み床に臥すアルティア。アルカヌムは治療法を求めて各地を漂泊し、新しい街に着くたびに籠いっぱいの花を送る。そうして幾年も花と手紙のやり取りを繰り返し、ようやく治療法の端緒を開きアルカヌムが帰ってきたとき、病人は息絶えようとしていた。アルティアは濡れた瞳を輝かせ、静かに恋人の手を握る。それから、劇の見せ場であるアルティアのアリア。『御身のほかに我が愛の証明は』、この街では子供でも知っている曲だ。ばかなタイトル。死の床とはいえ、アルティアがそのような熱烈な言葉を囁くはずがない。
そもそも、ミィミィはアルティアが花盛りの病室で死んでいった様子を知らない。推測するに、旅に出たのも治療法を探すためではなかっただろう。強欲な魔女が世界じゅうの秘密を解き明かしている間に、彼女のたったひとつの真実は死んでしまった。
アルティアは敗北者だ。水のような純潔、類まれな美しさを以てしても、ミィミィから世界を奪い取ることはできなかった。ただし、それは生きている間の話でしかない。冷たい土のベッドに身を預けたのちに、アルティアは貪欲な学者にとって永遠に探求すべき命題になったのだ。
ミィミィは主に仕えた百年間をニニューで過ごしたが、主亡き後、また世界を旅するようになった。前と何ら変わらない。しかし、気短かな魔女がアルティアのためだけに百年もこの街に束縛された事実の前に私は膝を折った。彼女は街を去った。私は彼女を縛り付けるだけの価値を持たない。アルティアが身罷って初めて証明されたことだった。
二百年前と今とで、ミィミィの様子にさして違いはない。彼女の生のどの期間を切り取っても、ただ鷹揚に構えた魔女がいるだけ。けれど、薄く濡れたような声音、飾り気のない視線は、アルティアの死後に使われだしたものだ。そのことを考えるたび、私は身震いしてしまう。彼女はおそらく、冥府の眠りに秘められてしまった「あの人は私を愛していたのか」という問いの答えを、探し回っている。いいえ、正しくは、それを解明できないのを知っていて、毎日を誤魔化し続けている。そう思えてならない。
夜半に見上げる曇り空を感じさせるひと、朝の空気に溶かされた清澄な光の色を双眸に映す魔女。アルカヌム、天才学者、領主の恋人、異邦の魔女、様々な呼び方ができるけれど、あなたは唯一。あなたみたいなひとが、ほかに存在していてほしくない。きっと清らかなアルティアも、その程度には執着したはずだ。
ミィミィ、陽なたで味わう紅茶のように、雨音に包まれながら開く古い戯曲のように、あなたがお気に入り。あなたが旅先で出会ったあらゆる言葉を、この胸にはない賛辞を、この街では使われない罵倒を、一切を私の手によって降り注ぎたい。ミルクをたっぷり染み込ませた甘いケーキみたいに、その学殖を感情でべちゃべちゃに塗り固めたい。私はあなたを知り尽くしたいとは思わないが、あなたのすべてを自分の魂に持ち込んで、調度のように扱いたいのだ。なめらかな光を宿すティーカップのように、棚に咲き乱れる色とりどりの背表紙のように。画集のなかでいちばん好きな絵は、思わず切り取ってしまいそうになるほど愛おしい。だから、私はあなたを世界から切り離して、死という額装を施す。
十月の最後の日、アルティアの命日、あなたが年に一度だけニニューに帰ってくる日。この特別な日に、私がテーブルに並べる食事には毒が含まれている。丁寧に磨いたカトラリーが上品に煌めくたび、皿に落ちる料理の影が少しずつ形を変えるたび、心が踊る。黎明の薄雲のように涼やかなミィミィ、あなたは砂糖で彩られた劇薬によって息絶えて、永遠に私であるといい。あなたのいない私に、演じるだけの価値はない。
4
「な……」
アルティアの病室は花で満たされていた。壁一面の極彩色を見て私が浮かべた狼狽を、彼女は逃すことなく嘲笑した。
「エフェメラが飾ってくれたの。素敵でしょう?」
その声音の舌怠い高揚に、私の足は思わず後退っていた。部屋を眺めて恍惚に浸る様は、初めて書物を与えられた少女のように純真でありながら、恐ろしく苛烈なものを含んでいる。ひととおり景色を愛で終わり、再びこちらを見据えた彼女の嗤笑のあまりの典麗さに、背筋に冷気が走った。
「あの子は器用だわ。テーブルセッティングやフラワーデザインも上手なの。前はコンサバトリーの鉢植えの模様替えをしてくれた」
彼女はささやかな自慢話を忘れずに披露してから、お座りなさい、と気疎い表情でベッド際の椅子を指差す。私はそれを無視して近づくと、いつか異国の女王の前で見せたのと同じやり方で跪き、真珠を砕いて細工したような指先に接吻した。ジャカランダ色の衣服に身を包んだアルティアは静謐で霊妙な輝きを纏い、無数の花に囲まれて、冬の夜更けに似ていた。
「そうした容体振ったところは相変わらずですね、アルカヌム。どれほど形式で着飾っても無意味だというのに。あなたの所作は軽薄さが目立って雅でない。少しはエフェメラを見倣ってほしいものだわ」
「雅でないと来たか、手厳しい」
膝を起こし、椅子の横に立つ。この部屋の空気は私を鬱屈とさせた。可能なら長居したくなかった。
「いつもお花をありがとう。毒の定期便とは小洒落たアイデアね」
「やはり看破していらっしゃった。お気づきなら、なぜ拒否しなかったのです?」
送ったときは雑駁に束ねられていた放漫な色彩の花々は、今や部屋をひとつの器として、精緻な調和を奏でていた。さすがエフェメラが手掛けただけある。もし私が私でなくなったならば、一ヶ月でも留まっていたいと思わせる部屋だった。大きな窓から注がれる午後の光の眩さに花々は溺れ、微かな陰影を靡かせる。茎にリボンの結ばれた白い花、丁寧に生けられた黄色の蕾、私が交配した毒草が美を生み出している。それはなんとも愉快な光景であった。
「花を拒否すれば、エフェメラはわたくしの気持ちがあなたから離れたと思って期待するでしょう。それは許せません。あの子を苛むのはわたくしだけ。ほかに心を割くことなどあってはならない。
この贈り物、エフェメラに影響はないのでしょうね?」
「肺を病んでいるきみにしか作用しないよ。まだ調整段階でね。きみが散り果ててくれれば良い考察材料が得られる」
アルティアはわざとらしく双眸を巡らせ、唇を横に引いた。頬には未だに淡い軽蔑が表れている。だがおそらくそれは、当初に浮かべたものほど真実ではなかった。
「ついに主君を標本として保管するのね、アルカヌム――いえ、ミィミィ。虚しい御仁、わたくしを殺めてもあの子はあなたを止まり技としない」
彼女の抑揚は優婉で、言葉ほどの心の揺らぎは感取できない。自らの死を予感しているのにも関わらず、哀願することも、諦観を滲ませることもない。底意を測りかねて、私は警戒と共に血液の熱さを感じた。眼前で溢れている未知を最後まで観察したかった。椅子を引き、腰を屈める。靴裏が擦れる乾燥した音が、壁に掛けられた花の影を僅かに震わせた。
「そのような些細な変化は望んでいません。あなたを展翅するのは己の求知心を満たすためで、誇示するためではない。この肉体という小さな、しかし無限の広がりを持つ蒐集箱に、自分好みの知見を並べたい、ただそれだけです。今回は偶然あなたの症例に食指が動いた。あなた自身に価値はない。驕傲は身を滅ぼしますよ」
アルティアはシーツにいくつもの波を作りながら身体を寝かす。彼女が遮っていた西日によって瞳の奥を焼かれ、短い呻きを上げると、軽くまろぶような笑声が零された。明滅する視界に遮られ、表情を確かめることはできない。
「強がりだわ、それは」
その一節は平たい葉が朝露を滑らせるのに似た、きめ細やかな静寂を帯びていた。私はロータスの葉を脳裏に浮かべ、次にその花托の空洞を思った。
「ならば強がりということでもいいでしょう。不毛な話だ、あなたは遠からず死ぬのだから。あなたと過ごした百年は非常に無益だった。これ以上この街に徒消したくない。抑圧されるのはもううんざりです」
陽光に晒されながら顔を上げているのがつらく、睫毛に纏わりつく光の粒を払うように瞬きをした。部屋を漂う時間はそっと中空を揺らめいた後に、柔らかに沈殿していく。冬の読書に添える、砂糖を加えたホットミルクのようだった。この時間の舌触りは砂っぽく、穏やかで、甘い。私は来たときほど息苦しさを感じなくなっていた。
「ミィミィ、わたくしは……。エフェメラが、憤怒でも軽蔑でも、わたくしに無二の感情を向けてくれるのなら、それに勝る喜びはない」
アルティアは咳き込みそうになるのを耐えながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「最上の喜びを、わたくしは得ました。かつてあなたはあの子の憧憬の的だった。その幻想を攫って、あなたをあなたらしく生きられぬように拘束したわたくしを、あの子はさぞ恨めしく思っているでしょう。小気味よいこと。この百年については、贖えません」
「贖いとはらしからぬことを。もっと高慢で、不実なのがあなただろう」
今、病室は夕べの輝きで満たされていた。私は部屋をひとつの船室に見立てて、できる限り淀みのない情感を使って佇んだ。
「ええ、ですから、贖えないと。少しも悪いと思っていないのだから、詫び言は徒です」
あらゆるものの影が細く這っていた。呼吸をすると、幾千もの薄明の欠片が喉に潜み、剥がれなくなってしまったように錯覚した。彼女は絹を割くような咳を落とす。
「なのでわたくしも魔女らしく、執念深く、不遜に、最後のお願いを作ることにします。拒否権はないわ、アルカヌム。あなたはわたくしの臣下、わたくしの恋人、真実がどうであれ、それがあなたの名前」
「御心のままに」
真珠の指先をシーツから掬い上げると、アルティアは満足げに口角を引いた。
「この身が朽ち果てたあとで、わたくしの名を冠した歌劇を作らせましょう。エフェメラとあなたはそれを観るの。そのときにあの子がどのような表情を使うのか、わたくしの代わりに見届けて頂戴。あなたの百年が無益だったのか、わたくしの百年が無益だったのか、きっとわかるわ」
「奇妙なことを仰る。私が求めているのは叡智だけです。そして彼女は、学問しか愛せない私を嫌っている」
「どうかしら」
アルティアは艶美な花弁が破れるときのような上品な微笑みを頬にのせて、窓の外を見やり、目を細めた。薄く夜の気配を羽織りながら、空はまだ信じられないほどの光を彼女の髪に降り注ぎ、部屋の色彩を平坦にする。壁に飾られた花はすぐに色褪せてしまうだろう。深く瞬きをすると、瞼の残影が明瞭な赤を視界に滴らせた。アルティアはこちらを見つめていた。
「ミィミィ、愚かなあなたが大好き。星をねだる子供のようにいじらしい。いつまでも不満でいてね。あなたは戦利品、その記憶のほかに、わたくしの愛の証明はない」
彼女は狭まった病室に漂う花の香気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
5
「信じられないくらいひどい劇だった」
エフェメラは物憂い表情で頬杖をついた。夜風がその長い髪に櫛を通していく。普段の様子からは考えられない、彼女には似つかわしくないほどしどけない姿勢だった。
「きみがきみでなくなってしまうなんて、よほどひどかったのだね」
落とされた嘆息は、砂に埋もれていたガラスのパティナのように呼吸の隙間に光った。湖畔のテラスに流れる空気は張り詰めたようで柔和、騒々しく静かで、恍惚とさせる生ぬるさを孕んでいる。ニニューの湖は湿っているのにどこか乾燥していて、長時間眺めていると目眩を感じてしまう。彼女はようやく頬杖をやめ、背を伸ばして手元のフォレノワールを切り分けた。
「なぜ他人事にするの。あなたもあなたでなくなってしまったみたいな恐ろしい顔をして、同じ舞台を見つめていた」
「そう……」
街の魔女たちは陽気な旋律を奏で、手足を伸ばして踊り、思い思いに飲食していた。誰も湖に浮かぶアルティアの墓室のことなど気にかけていないようだった。エフェメラだけが目の端でエメラルドで設えた小島を捉えている。至るところにランタンが掲げられた橙色の街と対照的に、湖面は鬱蒼と茂る森林を思わせる暗晦な緑に艶めく。夜の中では湖自体が死の存在を匂わせた。私はフォークに刺したシュトゥルーデルを齧る。毒の味のしない菓子は些か物足りなく感じた。
「歯切れの悪い返事。すべて舞台の上に置いてきたみたいね。あの真摯なアルカヌムは、あなたではないわ。あなたは魔女らしく、もっと移り気で、無礼だもの」
エフェメラが用いた毒はかつて古い魔女たちの間で秘術として伝えられていたもので、その存在を知ってさえいれば比較的簡単に調合できるものだ。異邦で生まれたとはいえ彼女より年上で、毒物の研究もしていた私が気付かないはずがない。見抜かれると覚悟しての行動なのだろうか。それとも何かの悪戯で、指摘されるのを待っているのだろうか。毒の混ざった食事が初めて振る舞われたのがいつだったかも、もう覚えていない。エフェメラはフォレノワールを咀嚼してから、生暖かい沈黙を打払う。
「今年も朝焼けが輝くころにはいなくなるのでしょう。箒の手入れは終わっているの? 間食は必要?」
「薄情だね、きみは。まだ日没から少ししか経っていないのに追い出す準備?」
軽妙な皮肉が返ってくるかと思いきや、こちらに向けられたのは、キャラメルの焦げた部分を舌で転がすような視線だった。そこそこ気に障ったらしい。私は密かに息を漏らす。平明な感情はつまらない。
「薄情なのは誰。昼過ぎに来て夜明けに帰るひとを相手に、一日過ごしたとは言えないわ。アルティアの遺言を守りきれていない」
「おや、きみにとってそのアクセサリーは悪趣味なのではなかった?」
侮蔑やら、慙恨やら、憤慨やらで固く結ばれたネクタリン色の唇は、窓辺にデミタスカップを置く早朝の時間のように淡く繊細だった。凛然と咲くカサブランカの高潔な姿を思い起こし、惚れ惚れと目を細める。この人が私に毒を盛っているのだった。私は何故だか誇らしく、益体なく感じて、冷笑に肩を震わせて彼女を痛めつけたくなった。魔女たちの舞踏の甘い残響が耳に跳ねる。私は百年も二百年もずっとエフェメラを傷つけたくてたまらなくて、失敗し続けた。彼女は苦しめられるにはあまりにも高邁で、私は彼女を苦しめたと満足するのには煩雑すぎた。息を吐き緩慢な瞬きをして、持てる限りの安穏さを声音に滑らせる。
「きみは薄情ではないよ。魔女には珍しく」
指を鳴らし、バイオレットの砂糖漬けを詰めた缶を差し出す。彼女は私には一瞥もくれずに、砂糖で覆われた花弁をティースプーンで掬い上げ、グラスに浮かべた。先刻から彼女が視界に潜ませている墓の主を手にかけたのは私だと、打ち明けてしまえたら、それで彼女が傷ついてくれたら、どれほどよいか。しかし、秘密を告白したとしても彼女が呻くのはアルティアに対してで、私の方へは一分の懊悩も寄越さないだろう。別に期待もしていなかった。
「明日からは」
街は夜の暖かさと月の冷たさを宿して明滅する。赤子をあやすように揺れる橙の光に照らされた彼女の髪は、いつか絵画の中で見た人物に似ていた。白い手で握られたフォークには、バイオレットの花が絡まっている。
「明日からはきみの季節だ、炎の魔女エフェメラ。暖かくて強い火を求めに、皆がきみを訪ねる。きみの炎が街じゅうの暖炉に灯る」
エフェメラは蝶が鱗粉を散らすように瞬きをした。言葉が澄んだ空気に沈殿していく。彼女はフォークで千切れた花弁を食し、カトラリーを置いた。
「世界はずっとあなたの季節だわ、夜明けの魔女ミィミィ。あなたはあらゆる真実を掴むために旅し、すべての秘密を白日の下に晒す」
ねえ、とエフェメラは甘くて重い声を出す。道端の猫に語りかけるみたいな調子だった。
「わからないことを美しいと思わないあなたが嫌い」
それを抜きにしても、きみは私のことが嫌いだ。
「そう……」
不意に目眩を感じて口を噤む。視界の端でエメラルドが深遠な微笑みを湛えた。エフェメラ、気高いきみ。きみがアルティアに捧げた数多の憎悪や、悲哀や、羨望と同じものが、私は欲しい。きみがかつて私を対象として保持していて、呆気なく失った感情を、あの柩を暴いてでも盗みたい。しかし求める異宝はもうそこにはなくて、肉体に秘され灰と共に冥府に持ち去られてしまった。緑色の石に閉じ込められたあの灰燼。アルティアはきみの炎によって地上の器を捨てたのだ。虚偽を敷き詰めて『アルティア』を書いても、彼女がきみに殉じ、きみが彼女を受け入れた事実は、世界の各所に散りばめられたままだった。
「あなたみたいな魔女にとって、『嫌い』ほど嬉しい賛辞はないかもしれないわね。言葉選びに失敗した」
湖は風に身を任せて、水面に幾重もの皺を寄せている。ナイフを引き、シュトゥルーデルを口に運んだ。サヴァランに乗せられたドレンチェリーを懐かしく感じた。
「私も魔女らしく、執念深く、不遜なの。だからあなたにお礼として、嫌がらせを差し上げるわ」
エフェメラは徒めいた仕草で片目を閉じると、私の真似をしてぱちりと指を弾く。テーブルに現れたのは、スピネルのような光沢を放つキャンディアップルだった。私はこの菓子を食べるのが苦手で、どれほど注意しても口の周りがべたべたになる。いつの間に用意していたのだろう。眉根を寄せると、彼女は艶麗にグラスを持ち上げた。
「聖アルティア記念日のキャンディアップルは甘言ひとつと交換。なぜこのような風習が生まれたのか検討もつかないけれど、そういう決まり。マーマレードより甘い言葉でなければ、悪戯を重ねるわ」
言い終わるとグラスを傾け、唇を濡らす。この人はきっと、わからないことを美しいと思っているのではなくて、まつろわぬものほど美しくあってほしいと思っているのだろう。私のことがわからないから、私がまつろわぬ存在であると証明したがる。わからないことを美しいと思えないのは、きみの方だ。巧言という前提で修辞を浴びることで、自分の相手は平然と麗しい嘘を囁く食えない者であると、そう認識したいのだ。愛おしい愚かさに笑みを漏らす。きみにとってこの身は、反逆者たり得るだろうか。心の中で最も大切にしている部屋のカーテンを取り払って、そのほかのあらゆる窓を閉ざす。
「高貴で難解なきみ、釈された秘密よりも、蔽われた真実よりも気に入っている」
清廉狷介な魔女、いつかその胸臆を解き明かしてしまう日が恐ろしい。食事に毒を混ぜる理由が、アルティアを奪われた復讐だとか、自分を見捨てた怨嗟だとか、そんな退屈なものではないことを祈る。平易なきみは、いらない。アルティアを憎みながら愛していたきみが、私を崇拝しながら冒涜していたきみが、明快で食傷してしまう感情の持ち主でないことを、信じている。私は永久にきみを探究していたいのだ。私が希求するのは真実などではなくて、千代常に理解できない秘密だった。
「ミィミィ」
そのとき、ランタンが一斉に光を断つ。四方で音楽がどよめきに変わった。下手人たる魔女は悠々と椅子から身を乗り出すと、顔を寄せ、忍び声を使う。
「ねえ、もっと昔みたいに、キッチンから泥棒したカヌレを階段下で頬張るように、言ってみて」
彼女の瞳は穏やかな静寂で満たされていた。再び蝋燭に火が灯るとき、街はスフェーンから覗く濃緋のように煌めくのだろう。最もやさしい炎の色だ。一瞬であり一劫であるエフェメラ。きみを傷つける方法がわかってしまう前に、その心の構造を把握してしまう前に、どうか。私は砂糖と毒に浸したバイオレットの花を思い、黎明の空を想像するのをやめた。まつろわぬ人、幕引きまで未知でいて。旅路の果てになって明かされる戦利品でいて。月下、ぬるい風が吹き抜ける。口を開き、薄らぐことのない夜陰に耳を傾け、震える手を左胸に当てた。
2021.10.28