Epitaph
五線譜の最後の一小節を直し終えて、窓辺のカウチソファへと身を横たえた。テーブルにはシーグリーン鮮やかなティーセットひと揃い、スクラップブック、未開封の手紙。ポットを包むタオルは僕のかわいいマノンによく似た白猫の柄。まだチェンバロの明るい余韻に満ちた温室に、シトロンの香りがひらひらとたなびいている。僕はときめきに息を漏らし、カップにチャイティーを注いだ。
いくらストーブを焚いているといっても、窓際は肌寒い。昨夜の雪は芝生を隠して柔らかに積もり、庭に連なる枳殻の木に化粧を施している。啜ったチャイティーはまだ驚くべき熱を孕んでいて、慌ててカップを戻した。外気が後ろ髪をするりと撫でる。心地よい隙間風に頭をもたげ、辛抱できなくなるとソファに這って冷気を避く。そうして冬との駆け引きをしばらく楽しんでいたが、相手はあまりにも心無いご婦人、僕は浮気にもカシミヤのブランケットを掻き抱いて、冷たい指になぞられた首筋を暖めなくては、手紙の封さえ切れそうになかった。
消印が一昨日になっている手紙はやはり、求めているものとは違った。ありきたりな晩餐の招待状だ。不器用な彼はこれほど綺麗にシーリングできないだろうし、かわいらしいドライフラワーなど挟む余裕もない。もっと丁寧に生き急いだ感じが、封筒の時点で滲み出ている。ペーパーナイフを文鎮の代わりにして、きっちりと折られた便箋を視界の隅に追いやった。仰々しいお礼を書くにふさわしい星菫趣味は、作曲に注ぎ込んだばかりでちょうど切らしている。僕は素知らぬ顔でティーカップをつまみ、冬の花だけを集めたスクラップブックを捲った。シンビジウム、カレンデュラ、ヘレボルス・ニゲル……。次のページのノースポールは、雪と見まごうほど。吐き出した息も僅かに白く、つい襟の向きを正す。
このスクラップブックと、ブランケットと、淹れたてのチャイティーがある真冬の昼下りは美しい。ショートブレッドかスコーンがあればもっとよい。今日は昼食を取りすぎたため控えたが。寒さを我慢しながらテラスで紅茶を飲む初冬の日も好きだが、真冬にしかできない贅沢をするのも気に入っている。それはシナモンスティックを入れたホットワインだったり、毛足の長いラグだったり、霜柱をざくざく踏みつける散歩だったり、コートを羽織って姿見の前に立つ瞬間だったり、とにかく様々な形を取るが、どれも僕にとって無二の平凡なのは確かだ。本当は、すべてのものがうるわしく光っている。しかし、燦々と降り注ぐ日々のなかでは磨滅してしまうその淡い輝きを、春の風と冬の日差しだけが教えてくれる。
スクラップブックからこぼれ落ちた手紙を拾い上げ、ティーカップを置く。瀟洒なエンボス模様を入れた白すみれ色の封筒に、柔らかく滲んだ僕の名前。シーリングはブルーベルを思わせる青紫、スタンプは月の図像だ。もう何度も文字をなぞった手紙を、読みさしの詩集を開くような新鮮さで紐解く。折り合わせが少しずれた便箋、青いインク。すべてが変わらずにそこにあった。先生の筆跡は、音楽に似た何かを孕んでいる。滂沱として流れる涙や、松脂を念入りに塗りつけた弓をヴァイオリンの弦に滑らせる、あの瞬間を思い出す。躊躇うインクの淀み、言葉の呼吸、擦れたスペル。余白に息づいている先生の指先が、僕を波の隙間から掬い上げ頬を撫でてくれる、そのような幻想を誘う。猫の額ほどの紙にせせらぐ文章の一欠片が、誰かにとっての永遠と釣り合う旅路であると僕は知っている。他者から眺めればありきたりの不在でも、受け取る者には不死に等しい言葉だ。眠れぬ夜に月明かりで読む物語のようにかけがえがない。ならば、燃やせば消える紙の上の永久を紡いだ僕の先生は、あらゆる旅におやすみを告げる係にあてがわれたのかもしれない。借りものの光を放つ月と同じ、煌めく不在を残した人だから。彼は手紙という不死の幻を用意して、様々な人に断絶を囁いて回るのだ。幾千と読み返されて擦り切れた文字列も、きっと引き出しの奥に隠されるようになる。そうであったらいいと思う。もしくは、そうでなくてはいやだと思う。
紅茶一杯分の時間が過ぎたところで立ち上がり、クラヴィコードの鍵盤に指を滑らせる。気まぐれな音をいくつか鳴らして、その冷淡さに身震いした。自分の演奏するクラヴィコードは他人行儀で聞くに耐えない。《ovo》、一生を捧げても弾きこなせるか怪しい楽譜の前で、僕は目を閉じてシトロンの香りに耳を傾けた。チェンバロの前に座り直して、先程完成した楽譜の確認をする。陽光に煌めく色とりどりの貝殻を拾い上げるような、舗道で膝を抱えて夜を明かすような、激しくも静穏で生ぬるい色彩を持つ曲のほうが、ずっと得意だった。
そもそも僕は、《ovo》の描く世界に寄り添えていない。曲を聞いて受けた印象と、先生から聞いた話を併せて推測するに、犯した罪によって月世界を追われ地上に堕ちた天使が夜空を見上げ、月の暖かな砂と華やかな一日を偲び頬を濡らす、そういう物語で間違いないと思う。クラヴィコードの玲瓏とした光の色が天使の瞼を横切り、髪を弄び、溢れた涙の輪郭を照らす。目眩がするほど典麗で、萎びた花のやさしさを感じさせる、さらさらした旋律だ。確実に、今まで僕が聞いたどの曲よりも美しい。夏の艶やかな偽証があり、秋の颯々とした歌声があり、冬の敬虔な囁き合いがあり、しかし春のか細く存える悲鳴だけがない。夜想の天使は愚かだ。月に存在した美と同質のものが地上には存在しないなどと、どうして断定できるのだろう。かつて保持していたものが二度と取り戻せないと、取り戻せないものには悲嘆が似合うと、どうして信じられるのだろう。人生はパーティなのだから、もっと不徳に気高くあればいい。零したスープをボウルに戻せなくても、割れた鏡を修復できなくても、汚れた床を拭いたり、散った破片を集めたりする行為は無意味ではない。しかし、それは永遠に行うべき動作とは違う。床をきれいにした後は再度スープを注ぐ必要があり、破片を拾った後は新しい鏡を買う楽しみがある。月への帰参がかなわないというのは、故里に縛られる生涯を捨ててもっと広く鮮やかな生き物になるための素晴らしい機会ではないのか。嘆きに費やす声があるなら歌えるはずだし、月を眺める視力があるなら地上の喜びも目に入るはず。何より、過去に寄せる心があるのなら、僕と友人になれるはずだ。踊れる身体を持っているのに、なぜ心のほうでそれを拒むのだろう。郷愁に浸っているうちに、一度きりのパーティに遅れてしまうかもしれないのに。僕はそれが腑に落ちなくて、いつも諦める。なぜ先生はこの曲を最後の課題にしたのだろう。夜の果てに浮かぶ極光のような、あらゆる傷から守護されたひとだったのに。
―
クラヴィコードのレッスンが終わるといつも、暖炉の前に椅子を並べ、小さなお茶会をした。メニューはたいてい、ホットココアとスコーン。たまにショートブレッドのときもある。あの日はスコーンだった。さくさくの生地を上下に割り、先生はクランベリーソースを添えて。僕はクロテッドクリームをたっぷり。お互いに最初の一口を済ましたのを見計らい、話を始める。習得中の楽譜について尋ねることもあれば、他愛のない質問を投げかけることもある。彼はどちらかといえば寡黙で、思慮深いひとだったから、僕のほうで果敢に言葉を重ねなければ会話は続かない。あの穏やかな冬の午後のカンヴァス地には、先生が使う声音を可能な限り多く蒐集しようという腐心があった。配色に迷い油彩の姿を取らなかった日々も、大切に画帖に留めてある。けれど、彼が隣に腰掛けていた冬の午後に、美しくないものなど存在しなかった。あるいは、そう信じている。彼の声が途切れた後に浮かび上がる飴のように引き伸ばされた静寂、胸に積もっていくあの甘苦しい空白も、僕はとても好みだった。
だから、不遜さをイーゼルにして描いた景色たちが綻ばせる美にはふたつの概形があって、ひとつは多弁、もうひとつは沈黙。どちらもよく似た異なる表情を持ち、刺繍をしながら眉間ににゅっと皺を寄せるひとみたいに、柔らかなのに触れがたい。薄膜に覆われたいくつもの絵画のうち、多弁のほうに印象付けられるとある一枚を、僕は反芻する。それは連作の最後を飾るもので、雪が雨に変わる季節だった。あのころの僕の、遺作ということにもなるだろうか。
その数週間を、僕は言葉を嘘に浸しながら生活していた。ひどく不満だった。冬になればまたいくつもの新しい旋律と出会えると思ったのに、今回先生が持ち帰った楽譜は一冊だけだった。彼がここを発ち、再びヘレボルスを見に訪れるまでの次の一年を、たった一曲だけで過ごせというのか。しかも、肌に合わないもの。あまりにも酷だ。そんな退屈は耐えられない。僕は先生が、トランクやジャケットに新譜を隠しているのではないかと疑った。それらとまみえるまでは、彼には先生のままでいてもらわなくては困る。再び旅人の名を与えるわけにはいかない。カーテンを閉ざし、立ち位置を工夫して、僕は緩み始めた池の氷を秘匿した。先生ときたら、春の眠りが薄らいだしるしを読み取った途端に、ブーツの紐を硬く結んで異邦人に早変わりしてしまうのだから。当事者たるその季節はまだ寝台で瞼をぴくりと動かしただけで、起き上がってすらいないというのに。春から逃げ続ける先生は、つばめと喧嘩でもしたのだろうか。彼は氷の大地を離れたら血の蠢きを失ってしまう生きもののように、冬だけを渡って呼吸しているのだ。それはおそろしく不可解で、なまめいていて、蠱惑的な性質だった。
「うばら、きみは従順でない秘密を持っているでしょう」
先生が僕の質問を閉じ込めたとき、大して驚かなかった。形を取れなかった些細な文字列が、口腔からばらばら零れてどこかに消えていく。彼が僕の話を遮るのは初めてだった。マグカップを置く。ホットココアのなかでマシュマロが揺れる。
「隠しごとは、胸をきらきらさせるものだけにしておきなさい。自分で輝かせることのできない秘密なら、いっそ捨ててしまったほうがいい。無理をして苦手な香水を纏うのは、調香師に失礼だよ」
黙ってカーテンを開ける。池を覆っていた半透明のヴェールは半分以上ほどけてなくなり、水面はひらひらと繊細なギャザーを寄せていた。空にはまだ、手探りをするような冬の淡い輝きが充満している。それでも、先生は帽子立てに視線を移した。様々な別れの挨拶と同等の饒舌さを秘める黒いポークパイハット。クラウンの下に巻かれたリボンを留める銀細工のバックルを、僕は一度じっくり見てみたいと思っていた。
「私も、手入れの行き届かない秘密はなくしてしまおう。落とし物と違って、偶然の幸福なしに見出せなくなるものではないから」
先生は、被った帽子のつばに指をやって、視界を広げる。旅人の表情だった。
「うばら。《ovo》が最後だ。きみに教えられる曲はもうない。だから、ここを去るよ」
颯々と光る風に磨かれた双眸。演奏家のなだらかな腕にかけられたマントは、異国の鮮やかな石の匂いがした。締め上げられたブーツ、その靴裏が平らかにした雪は何種類か。世界じゅうに残るはずの先生の足跡は、春の日差しにあえなく形を失う。吹雪の内でしか存在を保てない生きもののように、切り取られた冬だけを感じている。
「それから、手紙はもう届かない」
甲斐がない。途方に暮れてしまう。沈黙など重んじずに、もっと言葉を折り重ねて、照れずに真実を語っていればよかった。後悔しかけて、そんな気持ちはどこにも抱いていないことに気が付く。危うく、自分に対してまで不実になるところだった。僕の心は脆弱で、凝り固められた予見にすぐ騙されそうになる。つい作り置きの感情を使ってしまう。僕は、決して切なくはない。ただ、どうしようもない靄がかった森のような静けさが身体に染み込んできて、途方に暮れてしまう。
「手紙が届かない、そのような……いったい、どこに……」
「月に」
悠遠な雰囲気が滴る微笑だった。僕は惑いもせず、訝しみもしなかった。
「先生はもしや、冬に懸想していらっしゃるのですか」
逃げ出したくなるほど穏やかで、蕩めいた静寂が立ち込める。そのひとは、間違って打ち上げられた一艘の小舟のように佇んでいた。僕はなぜかカプチーノの泡を思い起こし、その想像を慌てて吹き消す。甲斐がない。途方に暮れてしまう……。主観なのか客観なのかわからない感情を心の端で繰り返した。悲しくも苦しくもないのなら、この味気なさを何と呼べばいい。どの形の瓶に詰めて、どういう色のラベルを貼ればいいのか。
「その秘密が、あなたの胸を飾るものなのですか。僕のものと交換できませんか。いくらでも差し上げましょう、僕は……」
「きみは本当にそう願うのか」
突き放した声音。手首がどくどくと熱を持ち、肌が粟立つ。僕は口を噤んだ。
「つかまえた星を手放してまで、私のことが知りたいのか」
彫刻された花を思わせる、ひやりときめ細やかな眼差し。彼は糸が千切れるように自然に、粘土が雫を乗せ艶やかに輝くように生み出され、すべらかな大理石から抽出されるごとく成形された。そう思わずにはいられない、まがい物の婀娜っぽさがあった。僕は先生が、冬の夜から背中を切り離されて生まれ落ちるところを空想する。聖なる獣の鳴き声や、滅ぼされた街の人々が吐いた祈り、静かに波打つオーロラを拾い集めて、熱する。鍋のなかに残ったにこごりを混ぜて、先生の身体は捏ねられている。接ぎ木された枝の繋ぎ目に似た骨、皮膚で覆われた肉のくぼみ、血液のぬるさ、そういったものが感じられない。僕と意匠を共有したおぞましい臓器があの肌の下で這いずりまわっていると、まったく信じられなかった。
「あなたがおっしゃるのなら、きっとそうなのだ。僕は、真実には、あなたを望んでいない。あなたが思うのなら、きっと……」
新鮮な蜜を垂らす秘密を前に、言葉は酔い、視線は萎れ、指先は枯れる。心臓の生々しい震えに頭痛を感じた。風が窓硝子を揺さぶる。けれど、を継ぎ足そうか逡巡した。むだだとわかっていた。先生は唐突に、なだらかな音を唇に乗せた。
「虫歯になるから、ホットミルクに蜂蜜を入れすぎないように気をつけなさい。まだ夜は冷えるから、暖かくして寝るのだよ。それと、クラヴィコードの練習も欠かさずに」
「先生、僕は……」
「うばら」
先生の声は、柔らかい雷、薄い砂糖菓子、有形にも無形にも形容しがたい、独特の響きを持っていた。地上のどこかにあるかもしれない遠い秘された国、そこの住人が密かにこちらの世界に紛れ込んでいて、うっかり故郷の言語で話してしまった、誰も知らない言葉を身体から漏電させてしまった、そのような間の置き方で名を呼ぶのだ。僕は喉がうっと詰まり、眉根を寄せた。思わず、声帯に絡みつく蔓薔薇の棘を想像する。彼の呼吸によって魔法を吹き込まれ、自分の名前が実体を取ったのかと錯覚した。せめてもの抵抗にと、悠々と天鵞絨のマントを羽織る骨ばった肩を無言でねめつける。しかし、本当は口にすべき言葉などなかった。胸のなかにひしめく感情のラベルが、何ひとつ読めなかったのだ。彼らを導く部屋をどこに設えればいいのか、わからなかった。
「ご機嫌よう。きみに降り注ぐすべてが善なるものでなくても、誇り高く生きられるように。きみが幸福でないときにも、世界はただ美しくあるように。祈るまでもない、信頼している。私のかわいい教え子、これから様々な旅人と邂逅するかもしれないが、それらに関係なく、きみが綺羅星を見つけられればよいと、私は思うよ」
先生はそう言うと、トランクを持ち上げた。レザーの手袋がぎゅ、と音を立てる。ドアからなだれ込む冷気に瞳孔を絞ると、剥がれかけた冬のカンヴァスだけが残された。
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マノンに早めの夕食を与えて、僕は遅めの晩餐の準備をする。人生はパーティなのだから、その時々に見合ったドレスを用意しなければならない。たくさんのドレスを持っていても、この夜にふさわしいとっておきのドレスがなければ意味がない。それぞれの夜にそれぞれの正義と快楽があり、置き換えることのできない物語がある。流れる五線譜、めくるめく喝采、波音、リュート、衣擦れ、酩酊、ご婦人がたの密めき声、それらにぴったりの衣装がなければ、満足に踊ることもできない。
さて、あの家のドレスコードは「誠実」。真摯な振る舞いを心がけてさえいれば、彷徨う死者にも追放された鼠にも門戸は開かれる。僕はよそ行きの謙虚を被り、したり顔で恭しくドアベルを鳴らすのだ。縫い合わせた皮膚の下に脈打つのが不遜な血液でも、慈悲深い僕の友人は目を瞑ってくれる。実際に誠実であるかは別にして、誠実であろうとする意志が大切なのだ。何よりもおしゃれに僕を着飾ってくれるのは、宝石でもオートクチュールでもなく、この美意識なのだから。跪いて手を取る慇懃な誘惑と、片方脱いで投げつける決闘の合図では、同じ手袋でも随分異なった意味を持つように。篤厚さで魂をべとべとに塗ってから、ワードローブの扉を開く。
実らしく装うのなら、まずはミルク色のハイネックカットソー。タイ代わりのスカーフは後で選ぶとして、アウターは新調したものがいいたろう。然らば、今宵のコーデテーマはショコラトリー。カワセミ色(金糸で刺繍が施してあるから本当にカワセミなのだ)のニットベストに、白いキュロットハーフパンツを合わせる。履いているモヘアのホワイトソックスはそのまま。チョコレート色のブーティに足を滑り込ませ、同じ色のスカーフをリボンの形に結ぶ。
アレグレット・ビバーチェ、弾む気持ち、自然とリズムを踏む足裏。今の僕が指揮棒を取ったら、オーケストラにクレッシェンドを命じていることだろう。サッチェルバッグに楽譜と投函する手紙、晩餐の招待状を入れて、半ば踊りながら帽子箱の蓋を持ち上げる。キャノチェはダークシアンのリボンがついたもの、ステッキは猫を象った柄の特注品。チェスターコートは仕立て屋から引き取ったばかりで、まだ生地本来の匂いがする。見るも爽やかなレモンイエローとココアブラウンを掛け合わせた格子縞、細い線でダークシアンも入っていて、帽子との相性も抜群だ。まさに、ガラスケースに並ぶ色とりどりのチョコレート。僕は鏡のなかの自分にウインクしてやった。
ドアの向こうには、さざめく冬の世界が広がっていた。焼く前のクッキーを想像させる、乾燥しながらもしっとりと柔い空気の質感。街路ではマロニエの木が雪の花を咲かせ、道行く人に光の粒を注いでいる。この季節のなかでは何もかもがぴりりと澄ましているように見え、同時に浮かれているようにも思えた。メープルシロップや檜葉のリース、ぎっしり詰まった柘榴の赤、蜜蝋の火、ユーカリの匂いに満ちた冬の街。ジンジャーブレッドのレシピを脳裏に描きながら、胸の内のあらゆる部屋をときめきで水没させた。客間、リビングルーム、書斎、様々な部屋に仕舞われた僕が高鳴りでコンフィされ綺羅びやかな溺死体となる。飲み物をミルクティーにするかチャイティーにするか迷い始めたときには、隠し部屋の僕までもが呼吸を止めた。ああ、先生は確か、アッサムとミルクを一対一で合わせるのがお好きだった。靴先に当たる石畳の感覚によろめく。瞬間的な愉楽に身を投げだしていても、あの冬にばかり考えが及んでしまう。僕の衣服からは、微かに炎の香りがした。
死とはどういうことか。特別で唯一なあなたがいなくなって、ありふれた水のような存在になる。けれど、ありふれたものほど光っているものはない。砂漠で彷徨う旅人の目に、水は象牙細工よりも淑やかに麗しく映るだろう。息絶えたら瑞々しい命に生まれ変わるなんて世迷言、僕は信じない。呼吸を失ったのちに、僕たちはすべてになる。花であり露であり羽であり日だまりである、そういう存在になるのだ。それぞれ当たり前に無二だった人間は、肉体の喪失と共に淡く溶け込んでいって、柔らかな無形になる。そして、生み出されることも消え入ることもない静謐な激しさのなかでうっとりと燃え続け、一切を失い一切を得るのだ。少なくとも僕には、そのような世界が用意されていてほしいと思う。
では、先生は。僕は彼の作る音をとりわけ好んでいた。「冬だけ訪れるクラヴィコードの先生」と過ごす日々を快く思っていた。彼がその輪郭を失い、ありふれたものに戻った今では、僕の敬愛する先生は亡くなってしまったということになるのだろうか。人生をパーティとするなら、死とはあてがわれたテーブルを去ることだ。しかし、彼は僕のパーティから退席していない。まだ僕の開けたワインを飲み、手を握って歩いてくれるような気がしている。彼はすべてではない。彼は限られた一人の無音である。月に連れ去られた僕の先生、あなたに用意された墓石はない。碑銘すら、考えられていない。
馴染みのポストは雪うさぎを頭に載せ、たいそう誇らしげだった。かわいらしい悪戯だ(マノンもこのくらい愛嬌のある悪戯を選んでほしい、倒された鉢植えを泣きながら片付けるのがあれで何度目か)。僕はサッチェルを開け、丁寧に糊付けした封筒を出す。念のため宛名と切手を改めて確認してから、そっとポストに落とした。両手を組み、届きますように、と祈る。これはある種の儀式のようなもので、実際に届いてほしいか、届くことを信じているか、といった感情はまったく関係がない。手紙はおそらく届かないだろう。それでも、両手をポケットに戻して立ち去る方法を考えられなかった。願っても届かないときは届かない、理解している。月にはポストも配達員も存在しないだろう、何となくそのような気がする。祈りなど個人の内部で完結する一瞬の発露でしかなくて、その光は漏れ出ない。ではどうして。祈りとはなに、夢見ること、あるいは旅、巡礼、与えること、それとも脱ぎ捨てること? 先生は、祈りとは誰にも辿り着けない街だと言った。確かに、そうかもしれない。彼の言葉が、また身体の奥で淡く帯電する。
その場を離れたあとでも、微かな電流が脈拍の深いところに残った。喪失に対する傷心と、胸に挟まる異物への嫌悪感をまぜこぜに味わって、僕の虚勢はすっかり音を上げた。ショーウィンドウに映る自分を認めたくなくて、早足になる。強がりだって視点を変えれば矜持だ。しかし、美しく気高く着飾るたびに、隠し部屋の僕が秘匿される不平を喘ぎ訴える。
パセリ、セージ、ローズマリー、タイム。僕がほんの気まぐれか何かで、月を求めてしまわないように。うっかり連れ去られてしまわないように。どこにも逃げたくない。まだ、自分が捨てた痛みに見合う分の他人の傷を拾っていないから。他人に押し付けた痛みをすべて回収するまで、僕は自分を許せない。近道など作りたくない。先生は月でどのような姿になったのだろう。変わらず、光を反射させる夜の雪に似た、ぎらぎらした真っ白の肌をしているのだろうか。重厚な甘さを滴らせるアンバーの香水を使っているだろうか。別にそうでなくてもいい。もちろん、そうであってもいい。僕も、月に行けばきっと何者にでもなれるだろう。星型の花弁にも、砂塵にも、太陽から吹き付ける風にも。けれど僕は、何にでもなれるのと同じくらい、自分のままでいることを大切に思う。どこへだって行けることよりも、どこへだって行けるのにここにいることのほうに意味があるように感じる。誰かの振るう魔法はいらない。不自由を愛せない僕に割り当てる部屋はない。だから、月へは行かない。
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「うばら。私はダンスするよりも散歩するほうが、歌うよりもお喋りするほうが好きだな。だから、きみのパーティには行けない。わざわざ招待してくれたのにすまないね。でもね、ワルツで向かい合うよりも暖炉を前にして横並びに座りたいし、流行りの歌詞よりもきみが選んだ言葉を聞きたい」
僕は彼の鎖骨の間に咲くブローチが宿す炎の色に見惚れていた。生成りのハイネックニットに飾られたその金細工は、鳥のような蝶のような不思議な意匠をしていた。部屋のカーテンは閉ざされ、暖炉の周りだけが明るい。僅かな蝋燭の火で過ごす冬の夜は、ここを離れても世界が広がっていることがありえないような、密閉された清らかさがあった。一切が青灰にぼんやり煌めく部屋のなかで、先生の横顔だけが橙色に染め上げられる。
「それなら、僕も先生の言葉を知りたい。パーティと同じくらい楽しくて、疲れさえも愛おしくなってしまうような、美しいお話を。この前、月のお話を中断されてから、続きが気になって仕方がなくて。月には永遠の冬があるというのはほんとうですか。あのさらさらした大地で、いったい何を暖炉に焼べるのでしょう。教えてもらえませんか」
カーテンを開けたいと思った。月光が雪を撫でつけて、どの季節よりも燦々とした真冬の夜。先生はその景色を、何度眺めただろう。折る指が足らないほど、呆れるほど、食傷するほど、寄り添ったのだろう。それでもいい。僕にとって冬は、ひとつだけなのだ。
「構わないよ。けれど、きみの秘密にしてもらえる? 私の話す言葉を、きみの胸のなかのきらきらとして数えてくれますか。それさえ守れれば、いくらでも与えよう。ああ、でも、何を薪に使うかは私も知らない」
「約束します。この心にかけて。僕のなかの、すべての僕に跪いて、誓いましょう」
先生は、暗い波の間から引き上げるように僕の頬に触れた。彼の手のひらはするりとして冷たかったが、大理石の彫刻から感じるものと似た、温度ではない生暖かさを孕んでいた。
「誓わなくてもいいよ。信頼しているから」
緩やかな微笑。その余韻が、もったりと溶けるチョコレートのように胸の内側で反射する。僕のなかのすべての僕は、暖炉の前で眠りこけていた。そのころは、隠し部屋など存在しなかった。持たずとも平気だった。
「知っているかぎりのおとぎ話を聞かせよう。世界の果てに生きる木の話を。燃え盛る古代の街の話を。それから、柔らかな光に包まれた月の都の話を。私はきみになれないし、きみは私になれないだろうけれど。いつか花に、露に、羽に、日だまりになるために。気高く旅をするための身支度をしよう。私の選んだ靴が履けなくても、きみが描く美しさになれるよ。信じて。けれど、本当は、信じなくてもいい。信じていたいと思って」
薄暗い空間に、蜜蝋の甘い香りがたなびく。僕は相変わらず、彼のデコルテに輝くブローチを眺めていた。象嵌されたウィスタリア色の石の名前すら、まだ知らなかった。しかし、いつか自然と明らかになるだろうと感じていた。そして、すべては冬の日差しに失われ、雪はほどけて消えた。
「燃やすために紙を束ねておくよ。きみがいつか月に旅しても、凍えることのないように。私が安心して、きみにおやすみを告げられるように」
おとぎ話の内容は、ペインティングナイフで整えすぎたせいで覚えていない。もらったものにもなくしたものにも気が付かないまま、僕はカンヴァスの釘を抜く。
2021.12.13