エオスフォライト
花は意匠だけの存在でないと理解しなければならない。その細く青々しい花茎に呼吸をうずめた生きものだと認識し、思いやる必要がある。彼らは同じデザインを採用していても、故郷や誕生日、初めて知った風の香り、花弁に朝露を乗せた回数、蜜を与えた虫の種類、すべてを共有することはない。生命の内容はまったく異なっている。まずはそれぞれの生きてきたかたちに敬意を払い、祝福しなくてはならない。
アネモネのよろよろした葉を縫い取り終えて、思いきり伸びをする。あとは茎のバランスを僅かに調整して、金糸で縁取りをするだけだ。完成しつつある襟飾りを様々な角度で眺め、トルソーに着せてみる。彼女にはやや大きめかもしれないが、きっと象牙色のウェストコートに映えるだろう。道具を片付け、シーツの隙間に潜り込んだとき、部屋の扉を叩く音がした。
「メル?」
「月の光が眩しくて眠れないの」
扉越しの声は、嵐が過ぎ去った夜半のために仕立て上げた、特別製の閑寂を纏っていた。グラスとスプーンが弾ける瞬間のように凛と響いて、透明で、どことなく切ない。窓を彩る月明かりは微かに粘り気を含み、湿地の植物をしっとりと慈しんでいる。薄濡れた光が湖畔にぬらぬら折り重なっている様子は、収縮する爬虫類の鱗を思わせた。
「散歩に行く?」
ドアノブを引くと、ガーゼ素材のセーラー襟が目に入る。彼女はその姿のほとんどを暗闇に溶かしながら、絵を描くときにいつもするように、おそらく眉をぐっと寄せて、こちらを観察していた。浮遊する夜の気配を集めて、生々しく潤う両目の半球だけがやけに実らしく佇んでいる。セットアップから覗く肌が、月光を沈めて金色に艶めく。肩にかかるストールは群青のシフォン地に星座を散らした柄で、リップグロスの汚れが取れないままだった。
「雨が止んだばかりだから、草の露で足が冷えてしまうわ。風もまだ暖かいとは言えないでしょう。きっと身体を悪くする」
彼女は慎重に、私の眠気からは視線を逸らして、緩やかな足取りでリビングに向かう。前を行くひとの右手に握られた燭台の火だけが不規則に揺れていて、その影絵に魅入るばかり、言葉は漉かれ、呼吸音が沈んで澱となる。ガラス張りの廊下を抜けると、壁に飾られた絵画が橙にぼやけて滲み、額縁の金細工が時折光を飛ばした。パキラ、エバーフレッシュ、オーガスタ、様々な葉を伝ってするすると移動する影を追い、ようやく辿り着いたリビングは、座り込みたくなるほどの月明かりに圧迫されていた。
メルジーヌは炎のない暖炉のマントルピースに燭台を置き、近くの一人掛けに腰を下ろした。私も向かいの、金糸の煌めくカウチソファに身体を沈める。
「ねえ、こんな夜ならいいでしょう」
投げられた声は相変わらず、繊細に着飾った無二のものだ。足を組み替えて、その清澄な輝きに耳を預ける。ティーポットが最後のひと雫をそっと手放すとき、卵の殻の裂け目に差し入れた指をぬっと開くとき、それらに似たきめ細やかな慎みが、彼女の声にはあった。
「棚のいちばん上に閉じ込めておいた、とっておきの蜂蜜を出してよ。封を開けて、ミルクに溶かして、それでおしまい。良い夢が見られなくても、構わない。この時間がたったひとつのかたちとして記憶されるのなら、満ち足りる」
無言で頷き、立ち上がる。足元が暗いから、背丈のある私が取ったほうが安全だ。メルジーヌは棚を目指して歩き出す私を視線で引き止め、それから、と控えめに言葉を繋いだ。湿原のどこかで、雨粒がきらりと跳ねた。
「それから、パンケーキを焼くから、共犯になってもらえるとうれしい」
カトラリーを置いたあとも、リビングには小麦粉のぼんやりした香りが舞っていた。私は眠気に耐えかねて寝椅子に凭れ、窓の外で弾む光を目で追う。ふたつ、みっつ。榛の木の霞む枝が露を落とすたびに、窓硝子はその無音に震え、月は一層重々しく冴えわたる。メルジーヌはどこかに姿を消してしまった。もう自室まで移動する気力もなく、ブランケットを掴み仰向けになる。
前にも、このような日があった気がする。今日ほど月が暴力的でなくて、もっと花の匂いに満ちていた、安らぎに咳をするような時間が。月の眩しさというのは事実によく似た空言だろう。眠れなくなったほんとうの理由を問いただせはしない。彼女の顰められた眉根を見ると、絹を裂くような心地で私の胸も腫れ上がる。しかしその膿をどうすることもできず、空は白み、不格好に浮腫みを抱えたまま朝のスープを飲み干すのだ。彼女は襟に挿すためなら、容赦なく薔薇の棘を排してしまう。小鳥が身を捧げたかもしれないその棘を、何の感慨もなく、ぱちりと落とすことができる。着飾ることも肌を見せることも、劇場も舞台衣装もいつだって自由に選べるから、すべてを半端に愛して、満たされた不自由と共に朽ちていくのだろう。私には、覚悟がない。どれほど心を裁断しても、制約なく踊れる身体は手に入らなかった。
炎は地に執着し、風は生まれた土地の砂を孕む。私を悩ませるのはそのことだった。故郷だったかもしれない古い海辺の街の祭日、もうどの季節かも記憶にないような日のことだが、私はその日に出会った娘の断片を未だに覚えている。あまりにも苛烈すぎる色彩が胸に痛くて、どこかに脱ぎ捨てたはずの一日が、押し込めた記憶の縫い目をひとつひとつ解こうとするのだ。必死に隠してきた手がかりを粘土にうずめて、合鍵を作ろうとする。熱に晒されて鮮やかに変色した声がぎらぎらと喉を引っ掻くから、積み重ねたステッチが緩んでしまいそうで恐ろしい。私の腰を抱き返す彼女の眼差しの優しさを散らして、別れのために費やされるべきあらゆる言葉を閉ざして、誰にも追いつくことのできないものになろうと外套を羽織り靴紐を締め上げた夜にも、身体のどこかに忌まわしい予感が横たわっていた。執着を忘れた生きものは存在を許されない。しかし私は、ひとつのかたちに拘泥するあまり、お気に入りのグラスを割ってしまう気がして、お気に入りを作ること自体が呪わしく思われて、奪われてみたい気持ちが、あった。
雷鳴の夜に、果てで出会ったあざやかな風を手放して、この魂は何者になったのだろう。あの眩しさを欲深く思う心を完璧に埋め立てたとしても、無力感を脱ぎ捨てることができない。数時間ごとに蝋燭の芯を切るような、か細く引き伸ばされた寄る辺ない濃淡だけが残る。
眠りは微かな物音によって希釈され、瞳の外にどろりと逸れた。メルジーヌが戻ってきたようだ。セットアップの朧げなシルエットがこちらに向かってきて、すっと腰を落とす。彼女は何やら大きな箱を傍に置いて、静かに蓋を開いた。蓋の裏に貼り合わされた鏡に、天井が写る。
「ネロ、じっとしてて」
長い指で摘み上げられたものは、指輪だった。もう誰の所有でもないイニシャルの彫られた、それなりに古いシグネットリング。彼女は他の指輪も丁寧に取り出し、窓にかざして輝かせたかと思うと、私の髪のなかにさらさらとばら撒いた。灰色に濁ったラブラドライトが、ファイアオパールを模した変色ガラスが、次々と手のひらに引きずり出され月光を反射する。
「なに」
「ネロの髪、蜂蜜みたい」
カメオのネックレス、巻きつく蛇のイヤーカフ、ラバーズアイのバングル。真鍮のチェーンが髪に絡まっていく。私はお達し通り微動もせずに、彼女の両手から零れていく光を眺めた。うっとりと薄まり広がる夜の空気に瞬きをする。耳の近くに浮かぶイヤリングを指先で拾い、ちかちかと角度を変えて、その屈折を観察した。
「これは私が贈ったもの?」
「そう。蛸のインタリオ、珍しいからってイヤリングにしてくれた」
「ああ、そのブレスレット久しぶりに見た」
「クラスプの調子が悪くて」
「言ってくれたら直したのに」
「装飾クラスプなの。いくらネロでも無理」
「別の金具に付け替えることもできるって意味だよ」
「これが気に入っているから」
執着によって生かされているものたち。擦り切れていく時間のなかで縒り合った片手間な執着が、私の夜に織り込まれているのだった。息が詰まるようにも、いつもより深く呼吸ができるようにも感じられて、その矛盾に狼狽する。夜なのに、花瓶の水を新しくしたいと思った。半端な創造主は散りばめられたアクセサリーを見て、悪戯げに口角を上げる。
「星空もかくやという感じね」
貝細工のボタンカバー、パールのスカーフクリップ。髪の隙間に宿る石たちのちぐはぐな反射は、チェレスタの鍵盤を叩くような、霊妙な旋律で繋がり合っていた。象嵌された星々を取り払おうすると、視線で制止される。その双眸は月の光を浴びてやたらと煌めき、つやつやと波打っていた。
「ひどいひとだね、どこにも行けないようにするなんて」
腕を伸ばして、寝椅子を観察するひとの腰を抱き寄せる。落ちてきた髪の一束に口づけて、目を閉じた。鼻の頭を掠める毛先の柔らかさに不思議な安堵を覚え、ゆっくり息を吐く。雷鳴の去った六月は、薄甘い花の香りに覆われていた。彼女はまたぎらぎらと澄みきった響きを使って、少しずつ、念入りに呪文を編んでいく。
「ねえ、どこにも行けなくても、どこかへ行ってしまっても、あなたがあなたでいてよかったって、そう思ってくれる? あなたが信じてくれるのなら、私も信じられる気がする。湿土に根ざす花の名前を、覚えていてほしい」
言葉は最もやさしくやわらかな呪いだから、あなたはその声で私をくるむ。しかし、神様に名前がないように、運命までもを縛ることはできない。私はその余白を、なにか自分のもので埋めなくてはならない。ふたり分のカトラリーを並べた日、ティーストレーナーがティーポットになった日からずっと、呪いの上でしかあなたと同じになれないことを思い知らされている。
「私は、"ネロ"になるよ。ここからようやく呼吸を覚えはじめる。だから、メルジーヌ。今夜だけは昔の名前で呼んで。風に恋したウルティカに、しっかりとお別れを言いたい。私は自由を信じていたいし、あなたに信じさせてやりたいから。ウルティカもそう願ってくれるのなら、千切れるほどうれしい」
日曜日の日差し、洗濯した枕カバーの香り、オレンジピールの艶めく色、クッキー缶を開けたこと、季節の花でスワッグを作ったこと、すべてを地図に記して、目的の村が見つけにくくなるまで、あなたの庭園をスケッチすることを許してほしい。「ネロが見た世界」は、この場所から刺繍される。産湯を求めるウルティカの、生まれたての泣き声に耳を傾けながら、継ぎ接ぎだらけで。
「ウルティカ。起こしてしまってごめんなさい。ほんとうは、眠れないのなど問題ではなかった。これほど月の冴えわたる夜には、誰かの声に耳を澄ましていたいと、そう思っただけ。無二の時間をありがとう。私は眠れないたびにきっと、甘いミルクの金色を思い出すでしょう」
メルジーヌの指が瞼の上に置かれ、暗闇の外に温度を感じる。明日になればまた揃いのカフェオレボウルを使って、パンを浸して、普段と変わらずに朝を迎え入れる。そのありふれた安息、不自由とも呼べる自由が、少しだけ瞬いて胸を灼く。
「大丈夫、きっと好きなように生きていけるよ」
ああ、鳥たちが曙光に羽をかざして、透き通る空気がカーテンを貫いて。ローリエのスープを飲み干したら、あなたのハンカチは私が刺繍しよう。雨に落ちた花びらを拾い集めて、シロップを作ろう。とっておきの瓶に詰めて、ラベルを貼って。いちばん上の棚に閉じ込めておくのだ。月の眩しい夜のために。自分だけの骨のかたちを見つけるために。
「しっとりと晴れた三月、真珠色の微光を放っていた一日、この手を掬ったウルティカを、私は記憶している。あの海辺の祭日を、あなたの代わりに覚えているわ。安心して羽をたたんで。言葉を忘れることを恐れないで。さあ、おやすみ、素敵な夢を」
いつか失敗して手放したとしても、すべてが美しい季節と混ざり合うように。祈りを抱き寄せ、蓋を閉める。ぬるい水に指を沈め、真昼の世界に晒されながら、ゆるやかに流れる小舟のなかに、私はいた。やさしくしなう呪いを授ける、輝く声音のあなたと共に。

「海は、落とし物をしたら見つけられなくなるでしょう。それがずっと怖かったの」
「落とし物はした?」
「あなたが拾ってくれた」
「そうだったね。素敵なハンカチだった」
「刺繍があればもっといいのだけれど。ウルティカ、湿原に行ったことはある?」
「ないな。お気に入りがあるの?」
「ええ。メリッサという花。レモンの香りがする柔らかな葉のなかに、乳白色に透き通るような小さな花弁が見えるの。今度、刺繍してほしい。図鑑を貸すわ」
「図鑑に写し取られているのは、僕の見た花ではないよ」
「なら、六月になったら行きましょう。メリッサも、アスチルベも、クロッサンドラも咲いている。雨で花びらが落ちてしまっても、拾い集めてシロップにできるわ」
「覚えていられるだろうか。僕は不実だから、約束はしたくないよ。美しく着飾った記憶ほど遠ざけてしまう。こうして波打ち際に爪先を浸しながら歩いたことも、きっと思い出せなくなる」
「私が代わりに覚えておくわ。花盛りの六月をあなたに見せたい。あなたが私に、すべらかな波を教えてくれたのと同じように」
「信じてもいいの?」
「そんなこと、聞かないで」
「メルジーヌ、許してくれるのなら、不慣れな約束を聞き入れて。きみの庭園でサンプラーを作らせてほしい。僕がほんとうを失くしても、誰になってしまっても、それを使ってハンカチを刺繍しよう。そのときまで、諦め悪く輝いていて。真珠色の三月が来たら、また海に連れて行くよ」
フロッタージュ
2022.3.30-2022.6.2(6.5加筆修正)
3月末、泡沫を見つめていたあなたへ
10.20追記
完成品は部誌に提出 せっかくなのでここには初稿を残しておきます