Sicilienne

シシリエンヌ4月

アンフォルメル5月

エオスフォライト6月





 チェスの駒を数えるような慎重さで、ひとつひとつ貝殻を並べていく。紡錘形、楕円形、扇形……。エクリュのシャツブラウスは豊かなぬるい風にささめき、なだらかな光沢を帯びる。二枚貝の片割れ、巻き貝の伸びた空洞。ターコイズブルーのランチクロスに乗せられた不揃いな色彩は、午後の眩さを受けて、影さえもじりじり輝いているように見えた。
 「これで全部?」
 メルジーヌは目つきだけで頷き、グラスを持ち上げる。次の瞬間にはレモネードをショートパンツに零し、小さく悲鳴を上げていた。
 「たくさん拾ったね」
 ちぐはぐなチェス盤の端に置いてある駒を手に取り、観察する。真珠の表面を削り取ったように静寂な極彩色を忍ばせた、フラミンゴ色の貝片だ。すべらかで平べったく薄く、小指の爪ほどの大きさしかない。彼女は貝を拾うごとに、キャンドルにする、リースにする、と言い訳していたけれど、これに芯を立てるのは難しいだろう。
 「細工に使えそうなくらいつやつやした貝、あなたがあちこちで見つけてくるから」
 ハンカチをボトムスのしみに慌ただしく当てながら、澄まし顔で投げかける視線は悪戯げだ。耳から零れた髪を丁寧にシャーリングされた袖口が掬い上げる。ゆったりと切り揃えられた横髪は、窓辺に立ち込める淡い陽気を包み込み、ちらちら揺れた。いつか彼女のために仕立てた、シルクサテンのコルセットを思い出した。
 「だからネロがいけないのよ」
 「ごめんね。きみ好みの貝を見つけるとうれしくて」
 そのハンカチ、お気に入りのでしょう? こっちを使いなよ、とポケットにあったものを差し出す。メルジーヌは怪訝な表情をしながらも、すぐに受け取った。レモネードの氷ががらりと音を立てて溶け、その水泡を透き通る光が部屋じゅうを飛び回る。皿の上で転がっているマドレーヌは丸っこいホタテ型で、傍に整列した寒々しい骨格標本たちとはやけに不釣り合いだった。
 「ネロが見つけた貝殻、素敵だったから忘れたくなくて、ぜんぶ拾ってしまったの。あなたは砂浜ばかり眺めていた」
 メルジーヌは早くも諦めたのか受け取ったハンカチに縫い取られたケシの花をなぞり、私のブラウスにもこの花が欲しい、そう呟いた。ケシの刺繍サンプラーはどこに片付けただろうか。記憶のなかの引き出しを上から順番に開けて、所在を確かめる。一昨年あたりに作ったものだから、おそらく三番目か四番目の取手を引けばあるはずだ。
 「メルは波ばかり見てたね」
 ターコイズブルーに晒された死骸を視線で撫でる。私はこの小さなモルグに対し、どのような情感も見出さず、番人に似た気持ちで佇んでいた。あの日の曇り空の色合いが失われていないか、海風のなかで手渡し合った形がひとつも欠けていないか。完璧に確認してから、硬い錠前に鍵を差し込む。二人で組み立てた記憶が漏れ出して、一人で過ごした日々と混ざり合うことのないように。
 「波っててろてろしているなあと思って。膨らんでいる最中の吹きガラスみたい。白いところはカメオグラスに似ていた」
 あるいは、入り交じって変質したときに見分けられるように。もし混濁してしまったのなら、捨てるほかないのだから。ときめきを感じるものは出来る限り遠ざけて、常に平らかでいたい。忘れてしまっても構わない。胸を焦がす喜びは、地図に記されない村のような存在であってほしい。積み上げられた得体のしれない美しさは、私を滑らかに保つだろう。金で縁取られたスカラップの菓子皿に手を伸ばし、マドレーヌを口に含む。彼女の作る菓子はどれも、仄かにレモンの香りがした。
 「わたし、今度からきれいなガラスを見つけたら、波に喩えるのだと思う」
 彼女はストローを指に挟み、煌めきに縋るように窓の外を見つめた。スカラップされた金縁が反射する。あまり真剣な顔で言うので、また連れて行こうか、思わずそう打ち明けてしまうところだった。貝片を元の場所に戻す。次に海に行くときは、これをネイルパーツにすればいい。きっと浅瀬色のポリッシュと合う。




「今朝、冬の花が夢に現れて、『この季節が終わっても、また別の姿で会ってくれますか。許してくれますよね』と、ゆったり微笑んで、その寂しさがまだ胸の内側に貼りついている」
「どのような意匠のひと?」
「モーヴ色の小さな花が縦にたくさん咲いていて、葉がすらりとして長い……」
「きっと、シンビジウムね。寒さに強くて、風通しの良いところでよく育つ」
「詳しいな」
「ネロの記憶にだけ咲く花かも。刺繍して見せてもらえればわかるのだけれど」
「そのうちね。先にケシのブラウスを完成させなくては」
「楽しみ」
「レモネード、零したらだめだよ。しみ抜きは手間がかかるから」

フォノグラフ #1







 真昼の太陽がしらしらと水面を撫で、小舟はオパールに似た波模様を羽織る。画帖の凸凹した表面に鉛筆を滑らせながら、メルジーヌは唐突に言葉を紡いだ。 
 「三月のさざなみに恋したひとの物語を知っている?」
 「聞いたことない」
 櫂を投げ出して縁に頬杖をつくと、舟底が微かに波立つ。彼女はあっと声を上げ、私のほうを憎らしげに見つめた。余計な枝を描いてしまったらしい。その視線を、しばし鼻先で捕まえてみる。が、不機嫌そうに逸らされてしまったのでただちに詫びを入れ、続きを乞う。
 「海のない街に住むひとだったの。初めて砂の上を歩いたときはきっと、飛ぶことを覚えた鳥のような気分だったでしょう。来る年も来る年も眺め続け、熱っぽい囁きで陸を満たした。けれど、次の三月を待てなくなったのね。月光を孕み、幾重にも撚り合う水に浮かぶ泡になりたくて、波間で身を焼いた」
 湖上に投げ出した左腕の横を、魚の背がとろりと水を押しやりながら進んでいく。鱗の一枚一枚に揺れる薄い光は、よく手入れされた銀食器を思わせた。
 「なれたの?」
 背びれが一度解いたはずの水面は、すぐさま縫い合わされてしまう。その残り香に指を差し入れてみると、生ぬるい感触が爪のなかに潜り込んできた。眼前のひとは白い額を画帖に向けて傾けたまま、しなやかな睫毛の影に双眸をうずめている。
 「うるわしい泡になれたわ。けれど、霧の精霊たちが憐れんで、彼を拾い上げてしまったのよ。ついに、さざなみと生きることはできなかった」
 頭上から照りつけられて、肌がじりじり脈打つ。雲は流れず、渚の木々が風に泳ぐこともない。五月のまんなかの一日、空気は暖かく滞っていた。左手をそっと引き上げ、目にかかる前髪を取り払う。気を紛らわす音楽でもあれば、日差しの烈しさを忘れて心地よく眠れるだろうに。濡れた指先から下瞼に落ちた雫が、ゆっくりと頬を伝った。
 「どう思う、この話を」
 メルジーヌは陽光にきゅっと瞳を細めて、結わえた髪の編み目をきらきらさせていた。青白い鎖骨に零れるネックレスチェーンが、蜂蜜色に瞬きをする。日傘を持ってくればよかった。そらぞらしい輝きに晒された真昼の世界では、すべての色彩が息継ぎのうちに褪めてしまう。「なぜ聞くの」私はどうしようもなく切なくさせられて、手繰るように静寂を塞いだ。
 「風に恋していたでしょう。旅のあいだ、何を考えていた? うねる風のなか、霞んだ香りにくるまれ、耳飾りをしゃらしゃらさせて、あなたも無形を相手に囁きかけていた。彼と同じように。そうでしょう?」
 近くで魚が跳ねる。音もなく広がる波紋の裾に、若々しく反り返る青葉が揺らめいていた。
 「そうだね……」
 かつて風を恋い慕っていたころ、私の世界には聴覚しか許されなかった。軽度の死、暗闇に覆われた熱情。渓谷、砂漠、森林、麦畑、港町、何にも執着せずに立ち去るそのひとを追うには、新たな風景に感嘆の息を漏らしている時間はなかった。
 鮮やかな音を靡かせる風しか存在しない日々。季節がない代わりに、空白もない生活。未知に心奪われぬよう、目を閉じ口を噤み、ひたすら求め続け、ついには雷鳴に掻き消され失った。砂塵の苛烈さを分け合った行商人の睫毛のあいだに、雨の止まない村で肩を並べた少年の傘の下に、私はいた。
 「あの風と、ひとつのかたちになりたかった気もする。でも、そう焦がれるのと同じくらい、別々に息をしたいと願っていたような気もする。推し測ることはできても、ほんとうのところはわからない」
 いたはずなのだ。"ネロ"になる前の自分のことを、私は脱ぎ捨ててしまった。風に魅入られた旅路は雷のごとく凄烈で、持ち歩くのには重すぎた。トランクの留め金を外して、意図的に落としてきたから、生まれ持った名前さえもう朧げで、遠い。カーテン越しに見る影絵みたいな、実感のない、濾過された記憶ばかりを積み重ねて、呼吸を縫い留めた。以前とはまったく異なったかたちに仕立てられ、湿地の家に漂着し、この舟底に足を踏み入れた人間、私、ネロ、それは風に懸想した"ウルティカ"とは違う世界の物語だろう。
 「けれど、『ネロだったら』の話をしてもいいのなら、また別。昔のことがわからなくても、今の自分については把握している。水晶を薄闇に透かすみたいに、どこに亀裂が入っているのか、はっきりと。"ネロ"は小心者だからきっと、失ったときは安心するだろう。星でも射殺すように焦がれていたのに、手のなかで輝き出したら、ぞっとしてしまう」
 メルジーヌは画帖を閉じて、ご機嫌に口角を上げた。鉛筆を片付け、筆記具入れの蝶番をぱちりと伸ばす。
 「そう、ネロはどう思う、って聞きたかった。手放してしまっても、元から持っていなかったことにはならない。あなたの選ぶ言葉に、使う絵の具に、残す筆致に、まだ生まれたてのあなたもいて、産湯を欲している。それが知りたかった」
 自然な所作で差し出された指先が、私の頬に触れる。肌に這う水滴を拭ったらしかった。不意に恐ろしくなって、声を織り次ぐ。
 「メルは。生まれたてのメルジーヌはいるの、何を感じているの」
 一刹那だけ、視線が絡まる。彼女は悪巧みをするときの微笑を浮かべてから、私の両眼を手のひらで覆った。惜しむように肩を撫でる手。隠された視界に映る色は赤黒く、妙に生々しくて、瞼を閉じる。
 「私は、私だけの骨格がほしい。焦がれたとしても、表皮を共有したいとは願わない」
 まっさらで、ぎらぎらした、澄みきった声。聞き慣れたとはまだ言えないが、それに近い親しみを伴った残響が、皮膚を滴った。縄を解かれた双眸を開くと、午後の太陽が襲いかかる。
 「でも、人魚姫は脚を持たなければ靴擦れもなかった、とも絶対に言わない。私も、誰が何を差し出したとしても、自分の望む通りのかたちになる。どこまでも冷血に。見境がなくて、浅ましい、けだものみたいって嫌悪されても、取り合わない」
 彼女は揺蕩う若葉を摘み上げ、瑞々しい葉脈を辿る。また水面が跳ね、薄い波が重なった。私たちの五月には未だに、三月の終わりの日に感じた微光が絡まっているみたいだ。春のものではない花の香りが漂う。うっとりと胃もたれのするような、海辺の曇天を思い起こす。
 「だから、ネロ、あなたのほんとうがどれでも、誰になってしまったとしても、知らない、あまり関係がないわ。やがて"ネロ"が捨てられて、新しい名前を宿したとしても、変わらず、あなたが刺繍したブラウスが着たい。シャトレーヌに下げる模様は、すべてあなたが見た世界がいい。それが私の誇りになるだろうから。ねえ、望んだままに生きて。しぶとく光ってて」
 「メル、信じても、」
 「信じてもいいだろうかって、聞く?」
 舟がひらひらと流れる。櫂を失くしてしまう。
 「聞かないで! 私、何にも誓ったりしないわ。いつかかたちを失っても、海のまんなかでぶくぶく沈む仔犬みたいに、ずっと幸せでいたい」
 緩い風に青葉は彼女の手を離れ、孤を描いて再び着水する。メルジーヌ、言葉にしてはいけない。化石になってしまったら、声までは残らない。私の地図にインクを落とさないで。ほんとうは、あなたと歩いた三月の波打ち際を覚えていたい。だから、着飾ってはだめ。私の記憶をつかまえたいのなら、羽をたたんで、呪文を捨てて、寝間着のままで探してほしい。




「雨上がりの森を二人で歩いたこと、覚えている? 水気を孕んだ新芽の青々とした匂いや、葉脈に沿って滑り落ちる雫を」
「羽根を濡らした小鳥が、ぱちぱちと舞う音も。懐かしい。歩き疲れたメルを抱き上げて帰ったな。私もくたびれてしまって、大変だった」
「あなたの前では私、翼のない鳥みたいね。溺れる魚と言ってもいい」
「なぜ」
「舞台を下りたら、誰がリフトしてくれる?」
「私とではパ・ド・ドゥは踊れない?」
「どうだろう」
「メル、ほんとうのことを言って。辞書を引かずに使える言葉だけを教えて」
「私を怯えさせて。あなたのマチエールを拒絶しないで。あなたは、綻びた裾は繕うけれど、破れた服は諦めてしまう。ネロ、不格好でも当て布をして生きてよ。欲深くいて」

フォノグラフ #2







 花は意匠だけの存在でないと理解しなければならない。その細く青々しい花茎に呼吸をうずめた生きものだと認識し、思いやる必要がある。彼らは同じデザインを採用していても、故郷や誕生日、初めて知った風の香り、花弁に朝露を乗せた回数、蜜を与えた虫の種類、すべてを共有することはない。生命の内容はまったく異なっている。まずはそれぞれの生きてきたかたちに敬意を払い、祝福しなくてはならない。 
 アネモネのよろよろした葉を縫い取り終えて、思いきり伸びをする。あとは茎のバランスを僅かに調整して、金糸で縁取りをするだけだ。完成しつつある襟飾りを様々な角度で眺め、トルソーに着せてみる。彼女にはやや大きめかもしれないが、きっと象牙色のウェストコートに映えるだろう。道具を片付け、シーツの隙間に潜り込んだとき、部屋の扉を叩く音がした。
 「メル?」
 「月の光が眩しくて眠れないの」
 扉越しの声は、嵐が過ぎ去った夜半のために仕立て上げた、特別製の閑寂を纏っていた。グラスとスプーンが弾ける瞬間のように凛と響いて、透明で、どことなく切ない。窓を彩る月明かりは微かに粘り気を含み、湿地の植物をしっとりと慈しんでいる。薄濡れた光が湖畔にぬらぬら折り重なっている様子は、収縮する爬虫類の鱗を思わせた。
 「散歩に行く?」
 ドアノブを引くと、ガーゼ素材のセーラー襟が目に入る。彼女はその姿のほとんどを暗闇に溶かしながら、絵を描くときにいつもするように、おそらく眉をぐっと寄せて、こちらを観察していた。浮遊する夜の気配を集めて、生々しく潤う両目の半球だけがやけに実らしく佇んでいる。セットアップから覗く肌が、月光を沈めて金色に艶めく。肩にかかるストールは群青のシフォン地に星座を散らした柄で、リップグロスの汚れが取れないままだった。
 「雨が止んだばかりだから、草の露で足が冷えてしまうわ。風もまだ暖かいとは言えないでしょう。きっと身体を悪くする」
 彼女は慎重に、私の眠気からは視線を逸らして、緩やかな足取りでリビングに向かう。前を行くひとの右手に握られた燭台の火だけが不規則に揺れていて、その影絵に魅入るばかり、言葉は漉かれ、呼吸音が沈んで澱となる。ガラス張りの廊下を抜けると、壁に飾られた絵画が橙にぼやけて滲み、額縁の金細工が時折光を飛ばした。パキラ、エバーフレッシュ、オーガスタ、様々な葉を伝ってするすると移動する影を追い、ようやく辿り着いたリビングは、座り込みたくなるほどの月明かりに圧迫されていた。
 メルジーヌは炎のない暖炉のマントルピースに燭台を置き、近くの一人掛けに腰を下ろした。私も向かいの、金糸の煌めくカウチソファに身体を沈める。
 「ねえ、こんな夜ならいいでしょう」
 投げられた声は相変わらず、繊細に着飾った無二のものだ。足を組み替えて、その清澄な輝きに耳を預ける。ティーポットが最後のひと雫をそっと手放すとき、卵の殻の裂け目に差し入れた指をぬっと開くとき、それらに似たきめ細やかな慎みが、彼女の声にはあった。
 「棚のいちばん上に閉じ込めておいた、とっておきの蜂蜜を出してよ。封を開けて、ミルクに溶かして、それでおしまい。良い夢が見られなくても、構わない。この時間がたったひとつのかたちとして記憶されるのなら、満ち足りる」
 無言で頷き、立ち上がる。足元が暗いから、背丈のある私が取ったほうが安全だ。メルジーヌは棚を目指して歩き出す私を視線で引き止め、それから、と控えめに言葉を繋いだ。湿原のどこかで、雨粒がきらりと跳ねた。
 「それから、パンケーキを焼くから、共犯になってもらえるとうれしい」

 カトラリーを置いたあとも、リビングには小麦粉のぼんやりした香りが舞っていた。私は眠気に耐えかねて寝椅子に凭れ、窓の外で弾む光を目で追う。ふたつ、みっつ。榛の木の霞む枝が露を落とすたびに、窓硝子はその無音に震え、月は一層重々しく冴えわたる。メルジーヌはどこかに姿を消してしまった。もう自室まで移動する気力もなく、ブランケットを掴み仰向けになる。
 前にも、このような日があった気がする。今日ほど月が暴力的でなくて、もっと花の匂いに満ちていた、安らぎに咳をするような時間が。月の眩しさというのは事実によく似た空言だろう。眠れなくなったほんとうの理由を問いただせはしない。彼女の顰められた眉根を見ると、絹を裂くような心地で私の胸も腫れ上がる。しかしその膿をどうすることもできず、空は白み、不格好に浮腫みを抱えたまま朝のスープを飲み干すのだ。彼女は襟に挿すためなら、容赦なく薔薇の棘を排してしまう。小鳥が身を捧げたかもしれないその棘を、何の感慨もなく、ぱちりと落とすことができる。着飾ることも肌を見せることも、劇場も舞台衣装もいつだって自由に選べるから、すべてを半端に愛して、満たされた不自由と共に朽ちていくのだろう。私には、覚悟がない。どれほど心を裁断しても、制約なく踊れる身体は手に入らなかった。
 炎は地に執着し、風は生まれた土地の砂を孕む。私を悩ませるのはそのことだった。故郷だったかもしれない古い海辺の街の祭日、もうどの季節かも記憶にないような日のことだが、私はその日に出会った娘の断片を未だに覚えている。あまりにも苛烈すぎる色彩が胸に痛くて、どこかに脱ぎ捨てたはずの一日が、押し込めた記憶の縫い目をひとつひとつ解こうとするのだ。必死に隠してきた手がかりを粘土にうずめて、合鍵を作ろうとする。熱に晒されて鮮やかに変色した声がぎらぎらと喉を引っ掻くから、積み重ねたステッチが緩んでしまいそうで恐ろしい。私の腰を抱き返す彼女の眼差しの優しさを散らして、別れのために費やされるべきあらゆる言葉を閉ざして、誰にも追いつくことのできないものになろうと外套を羽織り靴紐を締め上げた夜にも、身体のどこかに忌まわしい予感が横たわっていた。執着を忘れた生きものは存在を許されない。しかし私は、ひとつのかたちに拘泥するあまり、お気に入りのグラスを割ってしまう気がして、お気に入りを作ること自体が呪わしく思われて、奪われてみたい気持ちが、あった。
 雷鳴の夜に、果てで出会ったあざやかな風を手放して、この魂は何者になったのだろう。あの眩しさを欲深く思う心を完璧に埋め立てたとしても、無力感を脱ぎ捨てることができない。数時間ごとに蝋燭の芯を切るような、か細く引き伸ばされた寄る辺ない濃淡だけが残る。

 眠りは微かな物音によって希釈され、瞳の外にどろりと逸れた。メルジーヌが戻ってきたようだ。セットアップの朧げなシルエットがこちらに向かってきて、すっと腰を落とす。彼女は何やら大きな箱を傍に置いて、静かに蓋を開いた。蓋の裏に貼り合わされた鏡に、天井が写る。
 「ネロ、じっとしてて」
 長い指で摘み上げられたものは、指輪だった。もう誰の所有でもないイニシャルの彫られた、それなりに古いシグネットリング。彼女は他の指輪も丁寧に取り出し、窓にかざして輝かせたかと思うと、私の髪のなかにさらさらとばら撒いた。灰色に濁ったラブラドライトが、ファイアオパールを模した変色ガラスが、次々と手のひらに引きずり出され月光を反射する。
 「なに」
 「ネロの髪、蜂蜜みたい」
 カメオのネックレス、巻きつく蛇のイヤーカフ、ラバーズアイのバングル。真鍮のチェーンが髪に絡まっていく。私はお達し通り微動もせずに、彼女の両手から零れていく光を眺めた。うっとりと薄まり広がる夜の空気に瞬きをする。耳の近くに浮かぶイヤリングを指先で拾い、ちかちかと角度を変えて、その屈折を観察した。
 「これは私が贈ったもの?」
 「そう。蛸のインタリオ、珍しいからってイヤリングにしてくれた」
 「ああ、そのブレスレット久しぶりに見た」
 「クラスプの調子が悪くて」
 「言ってくれたら直したのに」
 「装飾クラスプなの。いくらネロでも無理」
 「別の金具に付け替えることもできるって意味だよ」
 「これが気に入っているから」 
 執着によって生かされているものたち。擦り切れていく時間のなかで縒り合った片手間な執着が、私の夜に織り込まれているのだった。息が詰まるようにも、いつもより深く呼吸ができるようにも感じられて、その矛盾に狼狽する。夜なのに、花瓶の水を新しくしたいと思った。半端な創造主は散りばめられたアクセサリーを見て、悪戯げに口角を上げる。
 「星空もかくやという感じね」
 貝細工のボタンカバー、パールのスカーフクリップ。髪の隙間に宿る石たちのちぐはぐな反射は、チェレスタの鍵盤を叩くような、霊妙な旋律で繋がり合っていた。象嵌された星々を取り払おうすると、視線で制止される。その双眸は月の光を浴びてやたらと煌めき、つやつやと波打っていた。
 「ひどいひとだね、どこにも行けないようにするなんて」
 腕を伸ばして、寝椅子を観察するひとの腰を抱き寄せる。落ちてきた髪の一束に口づけて、目を閉じた。鼻の頭を掠める毛先の柔らかさに不思議な安堵を覚え、ゆっくり息を吐く。雷鳴の去った六月は、薄甘い花の香りに覆われていた。彼女はまたぎらぎらと澄みきった響きを使って、少しずつ、念入りに呪文を編んでいく。 
 「ねえ、どこにも行けなくても、どこかへ行ってしまっても、あなたがあなたでいてよかったって、そう思ってくれる? あなたが信じてくれるのなら、私も信じられる気がする。湿土に根ざす花の名前を、覚えていてほしい」
 言葉は最もやさしくやわらかな呪いだから、あなたはその声で私をくるむ。しかし、神様に名前がないように、運命までもを縛ることはできない。私はその余白を、なにか自分のもので埋めなくてはならない。ふたり分のカトラリーを並べた日、ティーストレーナーがティーポットになった日からずっと、呪いの上でしかあなたと同じになれないことを思い知らされている。
 「私は、"ネロ"になるよ。ここからようやく呼吸を覚えはじめる。だから、メルジーヌ。今夜だけは昔の名前で呼んで。風に恋したウルティカに、しっかりとお別れを言いたい。私は自由を信じていたいし、あなたに信じさせてやりたいから。ウルティカもそう願ってくれるのなら、千切れるほどうれしい」
 日曜日の日差し、洗濯した枕カバーの香り、オレンジピールの艶めく色、クッキー缶を開けたこと、季節の花でスワッグを作ったこと、すべてを地図に記して、目的の村が見つけにくくなるまで、あなたの庭園をスケッチすることを許してほしい。「ネロが見た世界」は、この場所から刺繍される。産湯を求めるウルティカの、生まれたての泣き声に耳を傾けながら、継ぎ接ぎだらけで。
 「ウルティカ。起こしてしまってごめんなさい。ほんとうは、眠れないのなど問題ではなかった。これほど月の冴えわたる夜には、誰かの声に耳を澄ましていたいと、そう思っただけ。無二の時間をありがとう。私は眠れないたびにきっと、甘いミルクの金色を思い出すでしょう」
 メルジーヌの指が瞼の上に置かれ、暗闇の外に温度を感じる。明日になればまた揃いのカフェオレボウルを使って、パンを浸して、普段と変わらずに朝を迎え入れる。そのありふれた安息、不自由とも呼べる自由が、少しだけ瞬いて胸を灼く。
 「大丈夫、きっと好きなように生きていけるよ」
 ああ、鳥たちが曙光に羽をかざして、透き通る空気がカーテンを貫いて。ローリエのスープを飲み干したら、あなたのハンカチは私が刺繍しよう。雨に落ちた花びらを拾い集めて、シロップを作ろう。とっておきの瓶に詰めて、ラベルを貼って。いちばん上の棚に閉じ込めておくのだ。月の眩しい夜のために。自分だけの骨のかたちを見つけるために。
 「しっとりと晴れた三月、真珠色の微光を放っていた一日、この手を掬ったウルティカを、私は記憶している。あの海辺の祭日を、あなたの代わりに覚えているわ。安心して羽をたたんで。言葉を忘れることを恐れないで。さあ、おやすみ、素敵な夢を」
 いつか失敗して手放したとしても、すべてが美しい季節と混ざり合うように。祈りを抱き寄せ、蓋を閉める。ぬるい水に指を沈め、真昼の世界に晒されながら、ゆるやかに流れる小舟のなかに、私はいた。やさしくしなう呪いを授ける、輝く声音のあなたと共に。




「海は、落とし物をしたら見つけられなくなるでしょう。それがずっと怖かったの」
「落とし物はした?」
「あなたが拾ってくれた」
「そうだったね。素敵なハンカチだった」
「刺繍があればもっといいのだけれど。ウルティカ、湿原に行ったことはある?」
「ないな。お気に入りがあるの?」
「ええ。メリッサという花。レモンの香りがする柔らかな葉のなかに、乳白色に透き通るような小さな花弁が見えるの。今度、刺繍してほしい。図鑑を貸すわ」
「図鑑に写し取られているのは、僕の見た花ではないよ」
「なら、六月になったら行きましょう。メリッサも、アスチルベも、クロッサンドラも咲いている。雨で花びらが落ちてしまっても、拾い集めてシロップにできるわ」
「覚えていられるだろうか。僕は不実だから、約束はしたくないよ。美しく着飾った記憶ほど遠ざけてしまう。こうして波打ち際に爪先を浸しながら歩いたことも、きっと思い出せなくなる」
「私が代わりに覚えておくわ。花盛りの六月をあなたに見せたい。あなたが私に、すべらかな波を教えてくれたのと同じように」
「信じてもいいの?」
「そんなこと、聞かないで」
「メルジーヌ、許してくれるのなら、不慣れな約束を聞き入れて。きみの庭園でサンプラーを作らせてほしい。僕がほんとうを失くしても、誰になってしまっても、それを使ってハンカチを刺繍しよう。そのときまで、諦め悪く輝いていて。真珠色の三月が来たら、また海に連れて行くよ」

フロッタージュ


2022.3.30-2022.6.2(6.5加筆修正)
3月末、泡沫を見つめていたあなたへ
10.20追記
完成品は部誌に提出 せっかくなのでここには初稿を残しておきます

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