花殻と天国
Vanitas
わたしの吸血鬼は古臭い血統のくせにヘアアイロンを使う しわしわのシャツにスチームをかけることもできる 昨日は電子レンジでミルクを温めた 日陰のアパート 燃え殻の降り積もるような部屋 灰落としに似たこの一室にも感動できるものがまだあったのだ いつか捨てられるものに埋め尽くされた空間だというのに
吸血鬼は麦のストローをくわえ、シャボン玉をふわふわ吹きながら12月の風に目を細める 草笛を吹くのも上手なのよと笑う 体が冷えるから中に入りなよ ヴァンパイアにも体温はある? 草笛の音色など知らないのに、彼女の奏でる旋律が想像されて眠れなかった 天井を見つめるわたしの横で、彼女は密やかに寝息をこぼす 丸い頬に手の甲を当てると、仄かなぬくもりが伝染した ヴァンパイアにも体温はあるみたいだ
Das Paradies und…
マズルフラッシュに目を閉じてしまう 硝煙だけが残る 暗闇で見る血液は無色透明なのに、汚物でも被ったような気がする 吸い殻が落ちるたびに月が傾く 朝が来なくても傷口の生ぬるさはわかってしまうのだから 月ではきっとすべての罪が暴かれる わたしたちは天国から締め出されている 風にふわふわ浮かぶ虹色の膜のように寄る辺ない一生 居所のなさを分かち合うといえば聞こえはいいが 初めて仕留めた餌の味を舐り合う獣みたいだ 結局は死んだ物に生かされている 暁光が差す わたしの吸血鬼は新品のトースターを使いこなすだろう ああ、ジャムを買い足さなくては……
吸血鬼はあたらしいジャムをスプーンに乗せてうっとりとトーストに塗りたくった 不格好なベーコンエッグ 砂糖入りのどろどろしたコーヒー “どっちみち天国へは行けないから、いくらでも悪いことができる 朝食にケーキを食べるとかね” 冷蔵庫を物色する背中を目で追いながら、地獄でなら会えるだろうかと考えていた
Tungsten
同僚の葬式は雨だった 地中にいればもう濡れることもないのだろう わたしたちに傘など必要ないのかもしれない 人間になり損ねた精神には生それ自体が墓場みたいなものだ あなたの持たせてくれた傘を開いて歩く 式のあいだ、シャツに付いた返り血を隠すのに必死だったと告げると、吸血鬼はくつくつと喉を震わせながら洗濯機の蓋を開いた 上着から乾いた花粉が落ちる 生花は嫌い 着実に死に続けている匂いがする 艶美な死臭を髪に飾って、彼女はわたしの耳に口づける “きみの柩に敷き詰める花はぜんぶ枯らしてあげる 死に近ければ近いほどきみに似ているから”
生からも死からも逃げ続けて、最後に何をつかめるだろう ポットに茶葉をざらざら入れる 彼女の骨は残らない 心臓に杭を打たれたり、聖水をかけられたヴァンパイアは灰になるからだ 灰になってしまったら何もわからないというのに 何を燃やしたかもわからない、歪な残骸に彼女は変ずるのだ 吸血鬼はカタログに印をつける 人の雑誌に勝手に書き込むんだね 新作のスカーフ? あ、そう……
Mement
ベランダで休む鳥にパン屑を与える 吸血鬼はパンの耳でラスクを作れるようになった “名前なんかつけたんだ、いつか死ぬのに” ならあなたが奪ってみせてよ わたしから言葉を剥ぎ取って 名前のない異形しか愛せなくなるように “洗礼を施してでも野鳥を愛するのに、名前がある私は愛せないって言いたいの?” 機嫌を損ねた「ペルル」は晩餐をほうれん草だらけにした 姑息だな…… いたずら成功!の表情 ああ、吸血鬼のくせにきれいに笑うのだね 神様はきっと戸惑うだろう こんなに美しい生物に背かれている
Filament
サロメは銃痕が痛むのかひどくうなされていた まだ人間だったころ、病床で触れたひんやりした手のひらを夢に見てしまった たぶん母親だった人の右手 私たちは双子みたいにそっくり きみを吸血鬼にしてしまえたらよかったな その手首に私の血液を埋め込めば、きっとほんとうのきょうだいくらい同じになれる けれど、枯れ落ちる運命ならきみに手折ってほしいと思ってしまった 私も生花はきらい 腐ってしまうのだから 真実ではない気がしている
うわごとを繰り返す彼女に囁いてみる きみは、私に生かされているのよ だから、寝苦しさにも我慢しなくてはね 青ざめた早朝に冷蔵庫は半分だけの光を漏らし、氷嚢は見つからないまま日の出を迎える きみの寝顔は、ひそめられた眉根がいっとうかわいい 今日も地平線は輝き、おそるべき早さでジェラートは溶けていくのに、きみは日陰を歩くのだろう カーテンからはみ出した光線の一筋が壁を引っ掻く この人を目覚めさせるのは朝焼けでも秒針でもなくて、罪の意識だ そのことがたまらなく愛しい やっぱり、きみと私はそっくりだ……
Nocturnal
路地裏 きみの髪を揺らす火薬の煌めきを見て、この人を愛そうと決めたのだった 8月のくらくらする夜暗のなかで、私たちはふたりとも分厚いコートを着ていた (吸血鬼は汗をかかないのだ) 夜行性の異形にふさわしい舞台衣装 暮光が薄らげば不眠症の神様でさえ道を開ける この街のソワレにはおぞましい銃声が息づくのだから 寝苦しさだけがふたりの棲みか 羊ではなく傷痕をかぞえる 星が眩しい
天国には行きたくない 神様はヘアアイロンの使い方を教えてはくれないだろうから 徹夜明けにヌテラを舐めるきみの睫毛の影がどうしようもないほどきれいで、動けなくなってしまった 神様は不眠に慣れきっていていまさら渋い表情など見せない この人を天国へ行かせてはだめ 私はそこに行けない 傲慢 きみを知らなければ血液の温もりもわからなかったのに 夜行性の双子にゆりかごはふたつもいらないと思ってしまう
きみが死後の安息を願うのなら、それを許してやるべきなのだろう 数時間以上太陽に愛されてはいけない私に、夜の散歩を教えてくれなかった人 発火炎の隙間に出会ったというのに、私が硝煙に包まれるのをおそれている 鮮血は闇に身を浸してもよく見える あの錆びついた匂いから逃れられる場所など私にはない きみは夜の目隠しに憩うことができる 今宵も血潮の透徹に紫煙を揺らすのだろう きみは足音を隠すのが上手だから、影を縫い、あけすけな月光からも免れて、いつか人間として赦されてしまう 荒星 鉄の匂いがしんと響く 私だけが天国に行けない
Azimech
麦畑をなぎ倒しながら走っていく サロメは夢でも早足だ 無数に反射する麦の鱗を掻き分けて掻き分けてようやく痩せた背中を見つけ出す 吸血鬼になればどこにでも行けると思っていた 待って…… この靴では遠くに行けない 縋りついた手は抜け落ち、かたい指輪だけが残る きみのすべてが黄金の波に埋もれてしまう おびただしい数の麦粒が大きなひとつの生命のように胎動する 目を開けていられない 視覚から逃げ出す 暗闇に四肢を焦がしても救われないのに 麦の穂の静寂が耳殻を締め上げ、身体は風に溶けて流れる
吸血鬼はおいて行かれるものの極地だ 長い年月に洗われて親しみ深い声は掻き消え、美しい香りは潰え、古代の詩文だけが不変の澱をつくる きみが指輪に金言を刻む人でなくてよかった 私に残されるのは金属のかたい皮膚 冷え性の肌にも微熱は燻るだろうに、結局は途方もない風のうねりに塗りつぶされる 浴槽の冷水に足を浸した真夏の昼、お気に入りの絵本を広げうっとりと眠った冬の夜半、そういうときめきがあったはず 南半球の星図に胸を震わせた少女の日があったはずだ 靴底が擦り減っていく 私は私が忘れたものすべてが愛おしい いずれきみもひとつの喪失となるのなら、引き留めてはいけないのだ 天国へ行かせてやりたい 私には、きみを愛した責任がある 機械の肌に宿った重甘い体温は荒天に冷めていく どうとでもなってしまう
Non legato
きみのために祈りたいのだ ここに神様はいないから、もっと大きなものに向けて ラスクのレシピや星明かり、トースター、厚手のコート、かわいい犬やかわいい猫に対して 洗面台に置かれたきみの指輪を見てしまった 麦畑はただの幻 夜行性のきみは西日に背を灼かれ、鉄の匂いに身を染め上げる そして、朝には渋い顔でヌテラを舐めるのだ そういうときめきを今はまだ覚えている え、今日も仕事あるの? 日曜日なのに…… 天国は週休一日が確定している ぎらぎらと生きる麦穂ではなく、萎びた花に身を沈める人 指輪に刻印されていたのは、ふたりで勝手に決めた私の誕生日だった ヘアアイロンの使い方を忘れるまで天国はお預け “そういえば、夢のなかであなたの草笛を聞いたよ” きみはどろどろのコーヒーを机に置いた.