色彩、パレットに眠るわたしについて


 コップの中で揺蕩う琥珀色の憂鬱を眺めながら、ミルク多めのココアのことを考えて嘆息した。例えばあんな昼下がり、音だけを聞きながら雨垂れを想像する、宇宙で一人きりになったように心地良い昼下がりにきみはベランダに出て煙草を吸うだろう、と思うとき、わたしも世界の、ただ広いだけのしじまに取り残されたような気分になる。それは眠りに落ちるときに少し似ていて、自分の身体が真白く透き通り、心臓に包まれた騒音が浮き上がって行方知れずになってしまう、泣きそうなほど頼りない感覚だ。叫びだしたくなる。水琴窟のような足跡で迫ってくる存在、と非存在の間。フランネルの薄桃色は窓の外に立っても、きみがあの日着ていた長羽織ほど靡かない上に深くない。いつかこの乙女のシエスタのような薄桃、硝子の万年筆に潜ませた青インクの色に変わるかしら、と夜空に息を吐きかけながら考えてみる。馬鹿らしい。何も頭を使いたくないときに夕暮れの伽藍を想起するのは、新鮮な憎しみに爪先まで染まりたいから。憎しみ、数年前は露ほども知らなかったのが、羨ましくて、甘い。
 シークエンス。潮風、ピアノ。宇宙色に化粧した指先は反逆の証。幾千の夜を抜け出してきみに会いに行った日曜日、パレットに加わったのは、わたしが焦がしたストロベリーケーキの憐れんだ目配せ。次はもっと鮮烈な色彩の、ラズベリーのゼリーを作ってよ、とオーダーされた。キャンバスで花を微笑ませたわたしの鎖骨は、金賞のテープを貼られて誇らしげだ。溶け出しそう。退屈な賛辞よりもマロングラッセが食べたい、なんてきみが笑う。すべて壊したくなる。夕日や潮騒、金木犀の香り、何もかもが結託してきみの横顔を美しくするから、いっそ宇宙の中で人間以外みんな消えてしまえばいいと思った。そのとき地球の表面は優しく荒廃していて、灰色だ。灰色は骨と誠実を混ぜた色で、実は一番鮮やかな色なんだときみが言ったのを覚えている。それならいつでもきみが見つけられるように、できるだけ灰色の服を着るわ、と戯けたわたしに、きみが眼鏡の奥で同意するから、わたしのクローゼットは灰色ばかりになった。グレーのブラウスに、グレーのスカート。グレーのニットに、グレーのコート。地球みたい。恋をすると人は凡庸になるねといつかきみが呟いたけれど、本当にその通りだ。あの日から、わたしのクローゼットもわたしの言葉も、何もわからない人が覗き込んでも楽しむことのできない、ただ凡庸なだけの星屑になってしまった、と感じる。つまらない。昔のほうが良かった、と繰り返された。わたしも、漢字だけに酔っていた頃はどれほど幸せだったろう、と思う。わたしのせいじゃないよ。
 どうせなら、このまま、冬の海まで。取り残して行けない、と紡ぎもせず、薄く引き伸ばしただけの永遠に生きてしまった罪。溢した葡萄酒の秘密も、火のように熱い裸足の感覚も、捨ててしまうだけの勇気がきみにはあった、ことも、忘れた。実際に生き残ったのはどっちだったのだろう。真実に、生き残ったのはどっちなのだろう。時々、思考を巡らす。すぐに、夕暮れの伽藍に彷徨う。
 冷気を孕むフランネルは、今朝見たマシュマロ色の夢。月の砂漠。殺意に溢れかえったローズピンクの砂は、咎人の灰なのではないかという印象を与えた。きみがいたら長谷寺の牡丹の色だと言うだろう。砂漠の漠の右側の莫は、"ない"という意味で、さんずいが付くと"水がない"という意味になるのだよ、と教えてくれたのは誰だったか。水がないはずの砂漠なのに、鬱陶しいまでのローズピンクの砂は薄暗い水に濡れていた。もしかするとわたし死んだのかもしれない、ときみを探すが見つからない。わたしが知っているのはきみの絵姿で、きみではないから当たり前のことだと我に返る。水には朧げに夜空が顔を出していた。満月。あなたは夢見がちだから、もう一切合切取り上げてしまわなければね、と煌めきながら。わたしは泣く。目が覚める。
 ほんとうはあなたが好きなのはわたしじゃなくて、サロメやユディトだったと知った朝のようだった。ベッドの縁をなぞりながら、窓を開けようか悩んだ。透明になるくらいの嗚咽を作り出して、信頼できない、死のう死のうと息を詰まらせているわたしの隣で、きみは訃報という漢字の響きが好きだと笑っていて、けっきょく、わたしは、きみというパレットに色を注ぎ込む道具でしかないことに気がついた。わたしの声も言葉も、焦がしたストロベリークリームのケーキも、きみの色鉛筆の本数を増やしただけだった、らしい。先例がないほど愚かしい。高ぶった感情のまま、孤独な恋人たちを引き剥がす忌まわしい夜明けにサンプリングしたフォカマイユは、楚々たる詩情なんかじゃなかった。眼前で無限に反復する過去形が恐ろしくて、冬の海、身を投げた。冷たかったこと、覚えている。ただただ冷たくて、他は、何もなかった。水中は、優しく荒廃していて、地球みたいだった。
 あの優しさは、キッチュな台詞を難なく使いこなすきみには到底わからないだろう。きみとの不透明な日々、線香の煙を嗅ぐと思い出してしまうこと、冷徹、すべて消し去って、クローゼットの中はネオンな色合いになって、それなのに、わたしの言葉だけはそのまま。わたしの言葉だけは、きみに恋したときのままだったこと、恨めしく思う。きみの絵はなんて美しいんだろうとため息を漏らしたとき、きみは、尊い恋と犠牲で出来ているから、なんて目を細めたけれど、真実だった。もう信じられない、芸術だけに生きる人なんて乏しいと嘲笑うけれどじっさい、わたしも芸術だけに生きている。笑ってね。音のないダンスを踏みながら、ずっとあの日の伽藍に彷徨っているのは、新鮮な憎しみに心まで染まりたいから。夕暮れのビコロール。

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