「あれ、私のグラスは…?」
「あー、誰か持ってっちゃったんじゃね。ほら、これ新しいから」
「これ、何?私あんまり強くないから、サワー系とかじゃないと厳しいんだけどな…」

大きなプロジェクトの成功を祝う大々的な打ち上げは部門問わず、相当な数の人間が参加していて、気付けば気の置けない同期の灰原くんも別部門の先輩に呼ばれて行ったりで私の視界からは消えていた。代わりにいつの間にやら久しぶりに顔を合わせた営業局の同期が隣に座っていて、飲みかけのつもりで置いていたグラスがなくなった私に笑顔で別のドリンクを差し出してくれていた。ただ、目の前のそれはグラスの形状から察するにアルコール度数が強そうに思えて、思わず眉間に皺が寄ってしまった。

「なんだよ、その顔〜。大丈夫だって!もうタンブラーグラス切れたとかでロックグラスなだけで、これ甘い酒だから夢野でも飲めるはずだよ?」
「そうなの?じゃあ、貰おうかな」

言われた通り、口当たりも軽くて甘い味わいのドリンクだったので、すっかり当初の疑いも薄れて、あれやこれやと何ということもない会話をしながら、ぐいぐいと飲み進めてしまう。隣の席の同期が、おかわりで同じものを注文してくれて、2杯目を飲み出したところで、目の前の彼は唐突に私がドキリとする話題を口にし始めた。

「夢野って夏油さんと大学一緒だったんだよな?先輩だったんだろ?夏油さんって昔から、あんなモテてたん?」
「あー…うん、モテてたかな。大学の頃も歳上の女の先輩とかからも好かれてた、かも」
「やっぱ、そうなんだ。この前もさ〜、クライアントの接待で向こうは上席含め女性ばっかだったんだけど、明らかにクライアントのチーフが夏油さん狙いっぽくて凄かったんだぜ。絶対酒も弱くなさそうなタイプに見えたのに、最後酔ってるフリしてて夏油さんタクシーで送る羽目になってさ。夏油さんより歳上かもって感じだったけど、めちゃくちゃスタイル良い人だったし、夏油さんも据膳は喰ったかもなー。どうなったかは聞いてないんだけど、俺は勝手にそう思ってんだよね。モテる人はいいよな、うらやまー」

ヘラヘラとちゃらけた顔で笑いながらそう言う同期の言葉に胸を靄が掠める。夏油さんが昔からモテるのはよく知ってる。特定の彼女は作らないけど、後腐れない程度には女性と遊んでいるらしいこともよく聞いてきたしから免疫はあるはずなのに、久しぶりにこの手の話を聞いたからだろうか、急速に気分が沈むような心持ちになってしまった。

「夢野、なーにぶすくれた顔してんだよ。ほら、飲めって。飲んで機嫌直せって!」

別に機嫌が悪い訳じゃないんだけど…と思いながらも、胸の靄をアルコールで流してしまいたくなって、同期に勧められるがままに私はグラスのドリンクを喉へと流し込んだ。

この時の私は、飲みやすいこのドリンクの本来のアルコール度数なんて全く把握しておらず、自分がこの後どうなるかなんて想像もしていなかった。



◆◆◆


「傑〜、今日解散の時、気をつけてやった方がいいぜ。向こうで、夢野のやつ潰されそうな勢いで飲まされてんの見掛けたから。お前んとこの後輩、優男な顔して中身わりと下衆いんじゃなーい?先輩、ちゃんと教育しとけよなー」

打ち上げも終盤に差し掛かり、そろそろ帰り支度をしておこうかと思いながら適当に周りの調子に合わせて談笑していたら、どこからともなく近くにやってきてそう言った悟の語尾は揶揄いの調子を含んでいた。ただ、言われた内容は無視できるものではなく周りに気付かれない程度に少し離れた席に目を遣ると、悟の言う通り、俺のところの後輩が夢子のすぐ隣を陣取って飲んでいる姿があった。この距離では夢子の様子はよくわからず、早く会がお開きにならないものかと思いながら、自分のグラスに残る酒を喉に流し込んだ。

それから程なくして打ち上げの仕切りを任されていた若手の挨拶でその場はお開きとなり、三々五々と参加者も席を立ち始め、二次会と言い出す者もいる中、俺は周りに軽く挨拶をすると直ぐに店先へと向かった。悟の言う通りうちの後輩が下衆なことを考えているのだとしたら、おそらく直ぐにタクシーを拾おうとするだろうと思いながら、足早に人の波を通り過ぎて行くと、案の定な光景が目に飛び込んできた。


「うーん…私、一人で大丈夫だよ〜」
「なーに言ってんだよ、そんな酔っ払ってて。俺も一緒に乗ってくから。ほら、奥つめて」

珍しくもだいぶ酔っているらしく足取りも覚束無い様子の夢子をタクシーに乗せて自分も共に乗り込もうとする後輩に俺は駆け寄る。そして、乗り込もうとしていた後輩とタクシーの間に自分の身体を滑り込ませた。

「君、夢野さんとは家の方向違うんじゃなかったかな?彼女のことは私が送るよ、幸い私は家の方向も同じだし。君がこんなに飲ませたのなら、先輩としてフォローしないとね。ほら、これで君も別のタクシーを拾って帰りなさい」

有無を言わさぬ無言の圧を込めた笑顔で一万円札を差し出すと、後輩は気まずそうにヘラリと笑いながらそれを受け取り、おとなしく引き下がりその場を離れていった。

後輩の手前、自分が送っていくとは言ったものの、本人は一人で帰れると言っていたし、学生時代から知る間柄とはいえ、昨今はハラスメント諸々難しくなってきてるから、このままタクシーに任せた方がいいだろうかと思ったりもして、夢子に「一人で大丈夫かい?」と声を掛けてみる。返ってきたのは酔っ払い特有の呂律の回らない言葉で不安を覚えたため、小さな溜息を溢しながら自分もタクシーの中に乗り込んだ。

結局、夢子は相当酔っているらしく、口頭では住所もまともに出てこない状態で、スマホに住所を登録しているということだけは意思疎通ができたので、それをタクシーの運転手に告げた。ただ、肝心の本人は、それで安心しきったのか、すよすよと私の肩を枕に寝息を立て始めてしまう始末で、後輩の素行の悪さが感じさせられ、少し苛立つ気持ちになってしまう。子供ではないから本人も了承の上と言われればそれ迄だが、夢子がこうも潰れるほど自発的にアルコールを飲むとは考えられず、あの男がうまいこと言って度数が強い酒でも飲ませたのだろう。職場の後輩でもあるし、仕事に支障がなければ異性関係の悪い噂があっても本人任せでスルーしてきたが、明日は少し灸を据えなければならないかもしれない。そんなことを思いながら、タクシーの外で流れ行く夜景へと視線を移した。



「夢子、着いたよ。鍵はどこかな?」
「んんー、かばんのぉー…ポケット…」

告げた住所で停車したタクシーから見送って終わりなんて状況になるはずもなく、結局自分もタクシーから降りることとなった。そして、相変わらず、夢現と行ったり来たりな酔っ払いと化している夢子を致し方なくおぶって、彼女の部屋の前までやって来た訳だ。
彼女の鞄の中を覗かせてもらえば、言われた通りで目当てのものはすぐ見つかった。それを鍵穴に差し込んでシリンダーを回す。響いた錠の音はやけに大きく響いた気がした。



本人が夢現気味とはいえ、流石に女性の一人暮らしの家にズカズカと足を踏み入れるのは躊躇われて、一先ず玄関先で上がり框におぶっていた小さな身体を下ろした。そして、彼女に声を掛けてみる。

「家に着いたけど、ここで大丈夫かい?部屋まで連れていった方が良ければ、運ぶけれど?」
「んんー、大丈夫れす!って、あれ、夏油さんだ?なんれ??」

…この子は本当に大丈夫かな。悪酔いして醜態を晒したというエピソードは耳にしたことがないし、学生時代もそんな姿は見掛けたことがなかったけど、酔うとこんな風になってしまうのか、と再び溜息が溢れた。俺が相手じゃなかったら、こんな状態だと絶対喰われるに決まっていることを本人はわかっているのだろうか。酩酊している相手に苛立っても仕方ないと自分で自分に突っ込んで、大人しく帰ろうとドアノブに手を掛ける。

「じゃあ、私はこれで帰るけれど、きちんと部屋で休むんだよ?ここで寝てしまわないようにね」

上り框に座り込んだままこちらを見上げる彼女に視線を向けてそう言うと、ドアノブを回した。そして、開いたドアから一歩踏み出そうとしたところで何かが閊えて足が止まる。原因を探ろうと再び彼女の方へ目を遣れば、閊えていたのは彼女が掴んでいる私のトレンチコートの裾だった。

「…げとーさん、かえっちゃうんですか?」
「今そう言ったよね。部屋まで運んで欲しいな「やです…!」

俺の言葉を遮った夢子が駄々を捏ねる子供のような様子でコートの裾をグイグイっと引っ張るから、仕方なくその場にしゃがみ込んで彼女と目線の高さを合わせてみると、その瞳はなんだか複雑な色を灯している気がした。

「どうしたの?何かして欲しいことがあるなら聞くけど」
「夏油さん、かえらないでください」
「んー…それは聞けないお願いかな。というか、女性が自分の家で男に軽々しくそういうことは言うものじゃないよ。誤解されるだろう?」
「…わたしじゃ……にならないってことですか…」

「え、何?聞こえなかっ
「私じゃ据え膳にならないですか…!」
小さな声での返事が聞き取れなくて、聞き返したら、とんでもない答えが返ってきて俺の目は点になった。そんな俺に反して、夢子の目は潤んでいる。

「この前、接待の帰りにクライアントの女性を送って一緒に帰ったって…!!」
そう叫んだ夢子の瞳からはいよいよ滴が溢れ始めた。ハンカチを差し出すと、彼女はおとなしくそれを受け取り目元にあてた。

夢子の発言で疑問の点と点が繋がり、後輩が彼女にあることないこと吹き込んだのだろうことは容易に想像がついた。ただ、想像がついたところで、今のこの状況はどうしたものだろうか。素面だったら言いそうもないことを言ってのける状態に陥っている彼女に正論を言い返したところで、あまり響くこともなさそうに思える。それに俺だって人間なので、好きな女性の家でのこの状況、そろそろきついものがある。ただ、ひたすらに社会人としての常識と理性を総動員して、紳士然としているだけだ。

夢子は俺から受け取ったハンカチを目にあてながらも、まだシクシクと泣き続ける。その後暫くして、ハンカチをやっと目元から離したので、何とか宥めてこの場を乗り切ろうと言葉を発しようとした俺より先に彼女が口を開いた。

「…私が相手じゃ、夏油さんは据え膳食う気にならない、ですか…?」
涙声にまた潤んでいる瞳で弱々しくそう言う彼女に既視感を覚え、頭がクラリとした。だが、ここで流されたら終わりだ。冷静に…と自分に言い聞かせるものの、俺も堪えがなかったようだ。

「…ねぇ、夢子はそういうこと誰にでも言ってるの?」
「夏油さんにしか言いません…!」

思わず漏れ出た俺の問いに対する彼女の答えに総動員していたはずの理性は軽く吹き飛んで、不安げな瞳をこちらに向ける彼女の唇を自分のそれで塞いだ。彼女の口から零れる色めいた吐息に気持ちが昂る。口付けながら、彼女の身体を抱え上げてシュークローゼットの上へと押し上げると、更にキスを深めた。俺のすることに懸命に応えようとしてくる彼女に自身の熱の高まりを感じていると、彼女の脚が俺の身体に絡みついてきて、この後の長い夜が予感させられた。




◇ ◇ ◇


「ん…んんー…あったま、いたい…」

カーテンの隙間から差し込む朝日の気配を感じて、瞼をあけると自宅のベッドの中だった。痛む頭に、昨夜の記憶を辿れず、それでもちゃんと帰宅できてた自分を褒めてあげたいと思いながら、欠伸を噛み殺す。そして、ベッドの中で伸びをして覚醒し出した頭と身体の感覚から、何も身につけていないことに気付き、頭痛のレベルとこの醜態から自分はどれだけ酩酊してたんだろうか…と居た堪れない気持ちになってしまった。

…飲み過ぎた上に、余計なこと色々言われたから、ちょっと昔を思い出して感傷的になっちゃって、だからと言って、あんな夢見るとか…と、思わずベッドの中で抱えた膝に頭をつけて俯いていると、何やらフローリングが軋む音と人の足音らしきものが聞こえてきて、と同時にその場に響いたのは有り得ない人の声だった。

「あ、起きたかい?おはよう。ごめんね、勝手にキッチン借りてしまったよ」

驚いてバッと顔を上げると、シャツを羽織っているもののボタンは一つも留めておらず見事な上半身を空気に晒す夏油さんが寝室の入口に寄りかかっていた。手に持つ湯気の上がるマグカップに口をつけて微笑んでいる彼の姿に見惚れそうになったけれど、背中には冷や汗が流れたような気がした。…なんで、夏油さんが此処に…?…あんな夢と思っていた夏油さんとの情事は夢ではなく、現実だったということらしい。

夢だと思っていた自身の行動を朧気に思い出すと顔から火が出そうで、視線を床に落としながら小声で何とか『…お、おはよう、ござい、ます…』と朝の挨拶を返す。すると、また響いたフローリングの軋む音。そして、次に軋んだのはベッドのスプリング。


「身体は大丈夫かな?昨夜は無理させたね、ごめん」

聞いたことがないような甘い声でそう言ってベッドの端に腰掛けた夏油さんは、流れるような仕草で私の頬に触れる。心臓がドキドキを通り越してバクバクしてきて、夏油さんに聞こえてるんじゃないかと落ち着かない気持ちになる。でも、それと同時に、何とも遣る瀬無い気分にも襲われる。
…夏油さん、慣れてるなぁ。モテる人だもんね…。彼の体温を頬に感じながら、そんな考えが頭を過ぎっていく。朧気な記憶の限りでは、酩酊した私が夏油さんに迫ったような気がするし、もう子供じゃないんだから、ここは後腐れなく大人の対応をしなければ、と段々と心臓が冷えていく。

「私なら大丈夫です。えっと…ご迷惑お掛けして、すみませんでした。あの、私、面倒なこととか言うつもりはないので!安心して下さい…!」

大人の対応には程遠い言い訳染みすぎている私の言葉の羅列に、夏油さんは怪訝そうな表情を見せる。

「だから、その…ちゃんとわかってるので。一晩限りというか、その場限りというか。ワンナイトラブ的なものだったって。私なんかが相手で本当にすみませんでした…」

夏油さんにこれ以上呆れられたくなくて、必死に掻き集めた言葉を並べ立てたものの、最後の方には居た堪れない気持ちになってきて段々と声が小さくなってしまった。夏油さんの顔も見ていられなくなってきて、シーツの上の自分の手の甲に視線を落とした。

「はぁ…君って子は…」

呆れるように吐き出された夏油さんの溜息に、ピクリと肩が跳ねる。どうしよう、少しでも取り繕いたいのに。懸命に頭の中で色々な言葉を反芻してみても、私の経験値ではもうこれ以上の言葉は引っ張り出せそうにない。

「…夢子が私をどう思っているかはわからないけど、私は好きじゃない子を抱いたりしないよ?」

好きじゃない子は抱かないって…
それって…
夏油さんは……?

彼の言葉に真っ白になってしまった頭のまま、再び顔を上げると、とても甘い笑顔を浮かべる夏油さんと視線がかち合った。そして、私が言葉を発するよりも早く、彼の唇に私のそれは塞がれたのだった。





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