テーブルに備え付けられた林檎を試しに手に取ってみると、つるつるとした表皮を通してひんやりとした重たさを感じた。丁寧なことに西洋風の蔓の模様が彫られたナイフまで用意されている。流石、高級ホテルである。
林檎を手にして部屋の奥にあるガラス張りのシャワーを使っているラピスラズリのもとへ行くと、裸のままの彼とばっちり目が合った。


「ナマエ、君に覗きの趣味があったとは」
「ラピスのそういうとこ、ほんと嫌なんですけど」
「ははは」


にやりと笑みを浮かべた美しい顔に、思いきり顰めた顔を向けてやった。だってガラス張りのシャワールームとはいえ、カーテンをひいていなかったのは彼なのだから。しかしそれを笑って流したラピスラズリは可笑しそうにからからと笑うだけだった。
がちゃりとドアを開けて出てきたが、濡れた髪をバスタオルで拭こうともしない。そのまま裸のままで、ラピスはてくてくと全裸なのも髪から雫が落ちるのも構わずにベッドルームへと歩き出す。


「あ、ちょっと、そのまま歩いたら床が濡れるってば」


しかし彼はそんな私の言葉を気にもせず、テレビやソファが置かれた部屋へ行ってしまう。
持ってきたバッグからごそごそと取り出されたのは真っ白な最新型のパソコンだった。ぱかりと開いて優雅な指使いでキーボードをぱちぱちと打っていく。なにやら学会の論文を読んでいるようだ。後ろから覗き込むと他国の言葉がぎっしりと画面の端から端までを埋め尽くしている。
はあ、と私はため息を吐いた。こうなってしまった彼はもはや人の言葉を聞いてくれない。自分の興味のある調べ物が終わるまで生返事を返されてしまうから。青白い光を放つ画面を見つめるまなざしから落ちる睫毛から、ぽたぽたと髪から落ちてきた雫がまたそこから伝っている。仕方がないから、私は手にしていたバスタオルで彼の髪を拭いてやることにした。


「風邪ひくよ。またすぐに研究室戻らないとなんでしょ?」
「ん、…うん、そうだね。二週間後にはまた学会があるんだよ」
「大変だねえ。それ、なんの論文なの?」


私にはまったく分からない文字が連なった画面に目線を落としながらラピスは少し首を傾げてみせた。ぽたりとまた、雫が滴る。


「太陽の反射角度や天候が人間の自殺願望の心理にどれだけ影響がを及ぼすのかという話」
「お、おう」
「ふふ、君には少し難しいかもしれないね」
「うわあなにその言い方むかつく」


相変わらずいじわるな物言いをする人だ。眉を顰めてわしわしと髪を拭く手を強くする。


「ラピスが教えてくれれば分かるかもしれないじゃん」
「どうだろう?ナマエはこの手の話は不得手じゃないか。僕といえどもフォローできるかは…」
「もう、」


くすくすと笑いながら近づく彼の唇が、私のそれと重なった。ちゅ、と小さなリップ音を立てて離れたりくっついたり繰り返すさまは、小さな雛鳥同士が互いの口を啄んでいるようだった。薄い桃色のラピスの唇はしっとり濡れた温度が感ぜられて、触れ合った鼻先からは彼の匂いがした。


「、あ。そういえば、林檎」
「ああ、君が剥いてくれるという話になっていたのだっけ」
「そうそう。食べる?」
「お言葉に甘えて」


手にしていた林檎。指摘されるまではうっかり忘れていたそれを掲げてみせると、驚くことにラピスラズリは私の手首を引き寄せてそこから丸かじりをした。がり、と口元から除いた白い歯が赤く艶めく林檎の表皮に傷をつける。そうすると果物の芳醇な香りが、かすかに彼の残した傷跡から立ち上った。


「うん、美味しい」
「ごめん、切るって言ってたのに。うっかりしてた」
「別に構わないさ。ほら君も。"あーん”」


悪戯っぽくそう言って、ラピスは自分が齧った林檎を私の口元に押し付けてきた。仕方がないからそれをしゃり、と齧る。甘酸っぱい味が口の中に広がった。


「セックスの後の食事が林檎だけなんて、ちょっとお粗末な気もするけど」
「そうだろうか。実にならない生殖活動の真似事だけならこれくらいで十分な気がするよ」


ごろんとキングサイズのベッドに二人して横になる。私は部屋の備え付けになっていたネグリジェを、彼は裸のままだったけどお互い気にもしない。精緻な造りの照明が頭上で輝くのを眺めていると、つんつんと肩を指先で押された。


「なに」
「御覧、ナマエ。今日は満月だ。もう一通りすることも終わったわけだし、君にあれに纏わる神話でも話そうかなと思ってね」
「要するに暇つぶしってことだね」
「ロマンティックだろう?」


今夜はいつにもましてふざけたことを言う。でも断る理由もないので、半分だけ開けられた窓から見える月を、」私も彼のそばによって眺めた。眼下に広がるネオンはここが高層のホテルであることもあり、下界からここだけ切り離されたような錯覚に陥る。
ふたつの齧った痕が残る林檎を拾い上げて、私は月に翳した。


「林檎って、アダムとエバが食べたっていわれてる善悪の知識の実に最も近いって言われてるんだっけ」
「厳密にいえば違うらしいけどね。遠く中東の方では葡萄だと言われている場合もあるようだし。成程、お姫様は楽園追放の話もご所望なんだね」
「誰かお姫様なの誰が。ていうか、話始めたのはラピスの方じゃない」
「君も僕もこれを食べたから、どっちかがアダムでエバということになるのかな」


ふむ、と林檎を見て頬杖をついたラピス(こっちの話を聞いてほしい)に、今度こそため息が出た。


「ラピスは蛇以外の何ものでもないでしょ」


最初に私をセフレとして誘ってきたのだってそもそもあなたの方からだったじゃん。呆れ顔になる私とは対照的ににんまりと笑った彼はずい、とより一層顔を近づけてきた。


「でも君だってこの話に乗ったじゃないか。だから共犯だろう?僕だってアダムとエバ側だよ」
「そういうところが蛇なんだってば!」


また遊びのようなキスをされて、わーわーと腕を振って彼を押す。だけど楽し気に笑うラピスの白い裸体がごろりと近づいてきて、まったく相手にされない。月の下でそうやって暫く子供同士みたいにふざけあって、そしてまたキスをした。だんだんとそれも舌で相手の咥内を擽る深いものになっていって、合わせた口の合間からかすかに熱を帯びた吐息が漏れ始める。
中途半端に齧られた林檎は、この与太話に飽きてしまった彼によって窓の外に広がるネオンの海へと放り出されてしまった。

瓶詰の魔法

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