隣の家に住む若い男に、紅を貰った。

 美しい金細工が施された貝の器に、可愛らしい桃色の紅が入っていた。若い男は、夜にしか姿を現さない私を不審にも思わずに慕ってくれていた穏やかで少し警戒心に足りない人だった。街へ人間を食べに出かけて家に戻ると、何度か男と顔を合わせる機会があった。男は私の顔を見ると、嬉しそうに頬を染めて挨拶をするのだった。


 「なまえちゃん、それ貰いものかい?綺麗だねぇ」


 気ままな猫のように椅子に寝そべっている童磨様が、私の棚に置かれたあの紅を指さして訊ねてきた。
 いつのまに私の家へ入ったのか、気がついたらそこにいた童磨様はまるでここが我が家のように、のんびりと寛いでいる。
 猫が玉遊びをするように、長い爪で紅入れをいじくっている童磨様からそれを取り上げる。


 「つれないなァ」
 「勝手に部屋に上がらないでください。今日は何の御用ですか?」
 「うーん。別に用は無いんだけどね、暇だったからさ。ちょっと遊びに来たんだよ」

 
 そう言ってにっこりと破顔した童磨様の口から、鋭く大きな牙が見えた。虹のようなきらめきが映り込む眼球と視線が合うが、全く可愛くない。この人の身勝手さには恐れ入る。
 なぜ上弦に位置するこの鬼が、私ごとき下位の鬼の元へ訪れるのかが分からない。別になにをされるわけでも、するわけでもなく、童磨様はたまにこうして私の家へやって来ては屯して帰ってゆくのだった。


 ▽▽▽


 次の月夜の晩だった。
 用事を済ませて家へと戻ると、戸を開ける前に強い血の匂いを感じた。そしてそこに混ざる同族の匂い。誰が中にいるのかは開けずとも分かった。またあの人である。はぁ、と呆れからため息が出た。


 「童磨様、だから勝手にいらっしゃるのはお辞めください、とー…、」


 がらり、と引き戸を開けたとき童磨様と目が合った。


 「あぁ、お帰り。なまえちゃん」


 童磨様が喰っていたのは、隣の家に住むあの若い男だった。


 「……童磨様」
 「会いに来たら君がいなかっただろ?それで、先に中に入ってるかーって思ってたら、この男が家の前にいてね。俺は基本的には女しか喰わないんだけどね。でも、偶にはいいかなって思って」



 なまえちゃんも食べる?と、童磨様は男から少し身体を離して、その腕の骨を折った。ゴキ、と嫌な音を立てて骨が折れるが、絶命した男は痛みから声を上げることももう出来ない。そのまま腕を肩から引きちぎり、それを私の方へ向けてにこりと笑った。下がりがちな眦から零れた笑みは慈悲そうな、そして感情のこもっていない鬼のものだった。


 「……結構です」
 「そう?…あ、もしかして君が食べるつもりだったのかな?それならごめんね?また、俺の信者でよければ似たような背丈の男を持ってくるよ」


 
 別にこの隣人の男に特別な感情を抱いていたわけでもない。鬼である私にとって、人間はただの糧でしかない。だが、目を見開いたまま絶命している、半分顔を喰われている男を見ると、心の中にいやな感情が湧いた。
 そんなことを気づきもしないように、童磨様はごめんねと少しばかり申し訳なさげに謝った。それに目もくれず、私は部屋を出て行こうとした。


 「要りません。私、この家を出て行きますから。さようなら」
 「ええ?何処に行くって言うんだい?」
 「何処でもいいでしょう。失礼します」


 そう言って、夜道へと脚を踏み出した時だった。

 童磨様が、ぱしりと私の腕を掴んだ。
 振り返ると童磨様がそこに居て、さっき居た部屋の隅には中途半端に食べ散らかされた男が転がっていた。


 「ふん、ふんふん。うん。…これでよし」
 「ッ、なに、するんですか」


 ぐい、と童磨様は自身の親指で強めに私の唇を拭った。それから何度かごしごしと指を擦り付ける。それは血だった。ぬるりとした感触、鼻をつんと刺した匂い。そして指を離した童磨様は、じぃと虹の宿る瞳で唇を眺めてからにっこりと破顔した。そして、


 「君にはそっちの方が似合うぜ」


 睫毛が触れ合いそうなほどに近い距離で、童磨様は囁いた。
 幾らか彼の吐息が混じったような声は少しだけ血の匂いがして、低く私の鼓膜に触れた。そしてすぐにいつものような人の好い、胡散臭い笑みに戻って、


 「じゃあ、なまえちゃん。またね」


 そう言って、霧のように私の目の前から消えた。

 後に残された家の中は、先ほどまで彼がいたとは思えないほど静かだった。真っ暗な夜の町を照らす、一筋の月の光だけが、ゆらゆらと家の中を照らしているだけだった。我に返り、自分の唇に触れる。強めに触られたせいか、童磨様の尖った爪の先で怪我をしたらしいそこが、ぴりと小さく痛んで血を少しだけ滲ませた。


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