かの人と私が出逢ったのは、今となれば遥か昔のことです。
桜の花びらが青い空に美しい、うららかな春の日。そんな穏やかな昼下がりには似つかわしくない強い血の匂いに塗れて、彼は竹林の中に倒れていました。
「だ、大丈夫ですか!?」
私はその日、桜を見ながら家へ帰ろうといつもより遠回りすることにしました。この辺りの竹林は人の手が入っており、向かい側に並ぶように桜の木がずっと続いているのです。それなりに人も通れるように道も拓けていて、私のような小娘ひとりでも歩きやすいのでした。
ただ、まさか怪我人がいるなどとは思いもよらないことです。慌てて助け起こしたその人は、男性のようでした。黒い着物の背面に刻まれた、"滅"という文字が視界に入りました。仰向けにした男性は、泥で着物も汚れていましたが、白い肌と長く黒い睫毛が印象的な、顔立ちの整った人でした。
「分かりますか…?」
声をかけてみますが、男性は起きる気配がありません。家が近かったこともあり、私は急いで家人を呼びに竹林を走ったのでした。
▽▽▽
家へと運び込まれた男性は、"冨岡義勇"という名だそうです。私が彼を家へと連れてきてから四日後に、義勇様は目を覚ましました。そして、そのように堅苦しく呼ぶ必要はないと彼は首を横に振りました。とはいえ、父のほかに男性と顔を合わす機会のない私にとって、また母にきちんとした言葉遣いをするようにきつく言いつけられていましたから、私は義勇様と呼び続けることにしました。
「あなたが、助けてくれたんですか」
「ええ、見つけたのは私です。ですが、義勇様をここまで運んだのは家の者です」
「そうでしたか」
その方にもお礼を言わせてください。義勇様は淡々とした口調で言いました。ともすれば素っ気ないようにも聞こえる口ぶりに、無口な方なのかしら。と心の中で思いました。彼の白い肌と、女の子のそれのように長い睫毛が印象的でした。
ある日のこと。私は家の用事のため、急いで出先から戻ってきました。いつもなら正門から帰るのですが、その日は裏口に回り自室の方から母屋に入ろうとしたのです。慌てて開けた勝手口の鍵に手をかけた時、小さな痛みが指先に走りました。
「痛ッ、」
思わず扉から離した指先を見ると、細い一筋の赤い線のような傷口に、じわりと血が滲んでいます。とはいえ、傷そのものは大したことのないものでしたから、私は気にしないで母屋に急ごうとしました。その時です。見慣れない人影が、目の前に現れました。
「…義勇様…」
そこに居たのは、義勇様でした。
「義勇様。もう、御身体の具合はよろしいのですか」
数日ぶりに会った義勇様は、その首や腕に包帯を巻かれてはいましたが、初めて会ったときに比べて随分元気そうでした。食器を返すところだったのか、その手にはお盆があります。
「ああ、もうご飯も食べられるようになったのですね。よかった。私、今から母屋に戻るので、食器を返しておきますよ」
「……手」
「はい?」
「怪我をされてます」
彼の手からお盆を受け取ろうとした時、ぽつりと呟くように言われた言葉。見れば彼の視線が私の手に注がれていました。ですが、先にも述べた通り、傷はたいしたものではなかったのです。私は「大丈夫です」と言いました。
「ただの擦り傷ですよ。っ、えっ!、」
「…」
ぐい、と手を強く引かれ、前につんのめりそうになりました。
彼の腕の力は強く、義勇様はどんどん歩いていきます。「ど、どうされました?」慌てて聞き返すも彼はそれには答えずに、井戸の前まで来ると私の手をその中に突っ込みました。ぱしゃ、と水が跳ねて着物の袖口を少し濡らしました。
「傷自体が小さくとも、放っておけば膿む。きちんと洗い流せ」
「え……」
急に敬語の外れた口調になってそう言い放った彼に、私は戸惑いつつも心配してくれているということが分かり、「はい」と頷いて手を洗いました。小さな傷はすぐに血も流れて、見ただけでは怪我をしているように見えないようになり、義勇様は手を離してくれました。揺らぐ水の中で離れていった彼の手は、私のそれよりずっと大きなものでした。
「中に戻ったら、ちゃんと手当をしてもらえ」
「は、はい」
「じゃあ、俺はこれでー…、あ」
踵を返した義勇様は、ふとなにかに気づいたように脚を止めました。そして動揺の色を残した私の顔をちらと振り返って
「……すみません、口調がつい、いつもの通りに」
「え?あ、いや、そんな。お気になさらないでください、私たち、たぶん年もちかいです、し…」
私が動揺していたのは義勇様に咄嗟に手を触られたからでした。ほとんど男性と話したことのない当時の私には、こんななんでもないただの一瞬のことでさえ、緊張の種になってしまうのでした。ですが彼はそんなことは知らないままに、「そうか」と小さく頷きました。そしてそのまま去っていってしまい、私はひとりその場に取り残されのでした。
▽▽▽
それからというもの、私と義勇様が関わる機会は、そう多くありませんでした。基本的に彼の身の回りは下女たちがしてくれていましたし、私の部屋は母屋で彼は屋敷の離れに滞在していたからです。たまに窓を覗くと、対岸の縁側に下女が彼の食事を運びに行くのが見えるくらいで、義勇様とは会うことは無かったのでした。
そしてまた、ある日。桜の花ももう盛りの頂点に達し、かすかな風にすら花びらがはらはらと舞うようになったころのこと。
(今日はいいお天気だわ)
私は庭先に出て花見に耽っておりました。見上げた空の青さは、ちょうど義勇様と初めてお会いした時のように青く澄み渡った気持ちのよいものでした。
私はこの時、持ち掛けられていた縁談がまとまっており、もう数日もすれば祝言を挙げることが決まっていました。家同士の決めた婚約者とはいえ、夫となる男性は素朴で優しそうな良い人でした。生まれ育ったこの家で眺める桜ももうこれで終わりと思えば、いつもの景色も素晴らしく感じられるものです。
「…何をしているんだ」
「、」
急にかけられた声に驚き顔を上げると、義勇様がそこに立っていました。
「あ、えっと、お花見を、少し…。義勇様は?」
「別れを言いにきた」
「え?」
「怪我が治ったので、今からここを出る」
そう言った彼の頬はこの前会ったときは包帯に血がうっすらと滲んでいたのに、それももうありません。傷はすっかり治っているようでした。
「そうですか。それは良かった。お気をつけて」
「…」
「?」
「…なにか、して欲しいことはないか」
「え?」
「数日も世話になっておいて、何もしないわけにはいかない。礼をしたい」
私は少し困りました。私は義勇様を発見しただけに過ぎず、彼の世話をしてくれていたのは下女たちだったからです。
「いいえ、そんな。私はただあなたを見つけただけですし、気になさらないでください」
「だが、このままというわけには」
「いえ、本当に―…、あ、」
その時、ふと思い出したのです。それは、友人たちの間でちょっとした話題に上がっている耳飾りのことでした。耳に直接穴をあけ、そこに飾りをつけるのです。外国輸入だという煌めく緑の石が友人の耳たぶには輝いており、痛くなかったの。と聞けば、私はもう大人だもの。と冗談めかした口調で言っていたのが脳裏に過りました。
私はちょうど自室の縁側にいたので、「ちょっと待っててくださいね」と言って、器具を取ってきました。
「…これは」
「えっと、耳にそれで穴を開けて欲しいんです」
「穴」
「飾りをつけるためのものです。最近、友人たちの間で流行っていて。私もしてみたいと思っていたのですが、下女たちは耳に穴を開けるなんて怖いと断られてしまって…」
この耳たぶに穴をあけるという行為は、あまり周りに喜ばれるものではありません。物珍しいから友人たちもそんなことをしていたのだろうが、肌に傷をつけて装飾品を飾るなどということは、古い考えを持つ下女たちや母などには到底考えられないことだったのでしょう。
ですが、私は好奇心から開けたいと思っていたのです。自分で開けるにはやりずらいし、誰かに頼むのが一番だと思っていたのですが、お礼をしてくださると言うのならば、彼にしてもらうのが良かろうと考えたのでした。
「分かった」
頷いた義勇様は、私が部屋から持ってきたその器具を受け取りました。
「ここか」
「はい、その辺りに。ひとつずつお願いします」
上げた髪の、耳にかかる後れ毛に彼のかさついた指先が触れました。その時私は、もうすぐしたら自分が嫁ぐ身であることを思い出しました。
今日の用事、というのは夕方からの相手の家との顔合わせのことだったのです。かねてから、この春に家同士が決めた婚約者の元に嫁ぐことは決まっていた話でした。義勇様が対岸の離れに滞在することになったのも、思えばもうすぐ嫁ぐ私と男性である彼を、ひとつ屋根の下に置くわけにはいかなかったからかもしれません。そう思うと、今自分がしていることがなにかとても悪いことのように思われました。
(…)
何のことのないように、義勇様は私の耳たぶに触れました。彼の乾いた指先の、固い爪の感触が皮膚の上を掠めた時、私は自分の心の臓があるところが燃えるように熱くなったのを感じました。
「…」
それは、私が真面目な生娘のまま生きていれば一生出逢うことのなかったであろう、罪悪と仄かな熱でした。ゆらゆらと、赤く揺れる蝋燭にともった小さな火が胸の中に広がって、指先に巡る血の一滴ですら脈打っているようなのです。
(…私、婚約者以外の人に触られてどきどきしてるんだわ)
耳たぶに触れた器具のひんやりとした感触と、「開けるぞ」と彼の簡素なひと言ではっと我に返りました。小さく頷くのを確認してから、義勇様はぱちんと飾り穴を開けて下さいました。その一瞬、熱のような痛みが耳に生まれました。穴はすぐに開いたのか、義勇様は器具をすぐに話して、左耳にもあてました。彼が処置をしてくれている間、私はぎゅっと目を瞑り、終わるまで開けませんでした。
開け終わって、器具を私の手に返した義勇様は「じゃあ、俺はこれで」と頭を下げてお辞儀をしました。そして裏口を開けて通りへと出ていき、どんどん彼の背中は小さくなって行きました。通りの左右には遠くまでずっと桜の木が並んでおり、はらはらと花びらが舞っていました。義勇様の姿が見えなくなっても、私は暫くそこに立ったまま、彼の行った道を見つめていました。
そして、私は今年の春、七十歳になろうとしています。お蔭様で長生きすることができ、ふたりの息子にも恵まれました。夫は二年前に亡くなりましたが、とても良い人でした。今では孫もいて、とても幸せな人生を送れたと感じています。
「おばあさま、今年も桜がきれいねぇ」
膝に乗って縁側から桜を眺める孫の、つやつやとした黒髪を撫でてやりながら「そうねぇ」と頷きました。風景を埋め尽くす満開の桜を見ていると、私は自分の娘時代をよく思い出します。あの春の季節に出逢ったあの剣士のことを。彼が作った飾り穴は、私の耳にひとつずつ今も残っています。触れた一瞬の炎のような熱のことも。それは少女時代の懐かしい思い出と共に、生涯、私の胸の中だけに仕舞われているのです。
企画サイト晩餐様に提出
春は吹き返す
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