※お話の世界がキメツ学園の軸になっています。
ーロミオ、あなたはどうしてロミオなの?
「―ここは仮定法過去完了の表現になっていますね。ですからここの訳は…、」
昼下がりの四限目の授業はとても眠たくて、実際クラスの半分以上の子が寝ていた。私もまたその中のひとりで、うつらうつらと半ば夢の中に漂いながら教科書に落書きをしていた。ロミオ、あなたはどうしてロミオなの。と、英語の先生が和訳を読み上げる声が聞こえてくる。
叶わない恋の話というものは、古今東西で人気がある。この話だって何百年も前に書かれた内容だ。シャーペンで適当な星のマークなんかを書きながら、視線を窓の向こうに遣った。私の座る位置からは、先生の管理する生物室に面した花壇が見える。生物係として先生と顔を合わせるようになってから、あの花壇の手入れを手伝うこともままあった。ごめんなさいね、と手伝わせたことに謝りながら微笑んだ先生の白い頬は、噛みつけばぷつりと音をたてて血が流れるだろうと思った。その血はきっと甘いだろうとも。私は先生に恋をしている。
「カナエ先生、もう結婚しちゃうんだよね〜。明日だっけ?」
「そうそう。寂しくなるよね。この間、みんなで色紙も渡したけどさ、やっぱりもっと先生と居たかった」
先生は皆から人気がある教師だった。美人で、穏やかで、誰もが先生を慕っていた。だから彼女のいる生物室にはよく他の生徒もたむろしにやって来ていて、私はそれが嫌だった。いつか、髪が短かったころの私に「長いのも似合うと思うわよ」と言った先生。彼女の細い指先が触れた自分の黒い髪が、その時から大切なものになった。私の胸の中で脈打つ心臓の音も知らないで、先生は空から降りてきた天使のように鈴のような声で笑うのだった。
「なまえ?どうしたの」
「ちょっと、先生のところに行ってくるね。今度の課題に変更があったらしいから、確認しないと」
授業後、隣の席のアオイにそう言って私は席を立った。チャイムが鳴っている。難しい勉強から解放された生徒たちが校庭や購買部へと思い思いの方へ走り出すのを見ながら、階段を下りる。一階の奥にある生物準備室のドアに、手をかけると、空いた隙間から実験薬の匂いがした。
「あら、みょうじさん。こんにちは」
中で授業後の片づけをしていた先生が顔を上げて、微笑んだ。ドアを閉める。流しの中にはフラスコやビーカーがたくさん並べられている。
「先生、手伝いますよ。前の授業で実験だったんでしょう?」
「知ってて来てくれたの?まあ、みょうじさんって優しいわよね」
嬉しそうににこにこと笑う先生。黒い髪、白い肌、そのすべてが私には眩しく映るのだった。蛇口から水を出しながら、クラスの子たちの言葉を思い出す。あの子たちの言う"好き"なんて、私が先生に対して抱いている気持ちには遠く及ばないものなのに。私が、私こそが、先生をいちばんに好きなのに。
「でも、あなたにこうして手伝ってもらうのも今日で最後ね。そう思うとなんだか凄く名残惜しいわ」
「そうですね。皆も、寂しがっていましたよ」
かちゃかちゃと、泡の中で器同士が立てる音がする。先生の腕は、私よりもずっと細くて柔らかそうだった。
「結婚する人って、どんな人なんですか?」
「ええ?なあに、急に」
「ふふ、いいじゃないですか。私、気になります」
恥ずかしそうに頬を赤らめた先生は、手を止めた。そしてまるで恋をする少女のような口ぶりで、
「素敵な人よ。とても優しいの」
そう言った先生の瞳は、私が先生のことを考えているときの窓ガラスに映った自分の瞳と同じだった。ああ、と思わず声を出しそうになる。先生。先生はどうして先生なんだろう?先生になんて出逢わなければよかった。どうせ実を結ぶこともなく羽搏いていくこともできずに繭の中で朽ちゆく恋なら、しなければよかった。勝手につけられた胸の中の導火線は、きっと彼女が別の誰かのものになっても私のなかから無くなってはくれないだろう。先生、私のものになってくれないならこの気持ちをせめて消し去ってほしい。でも、先生は私の気持ちなんて知らずに明日この学園を去っていってしまうのだ。
ぱりん。
「ッ、」
「あ!、」
ふとした一瞬、手にしていたフラスコをシンクの角にぶつけてしまった。ガラスに罅が入った音がして、気づけば自分の指先から赤い血がぱたりと滴った。
「たいへん、!」
洗い物をしていた手を止めて、先生はぱっとすぐに私の手を、シンクに置いてあった布巾で抑えた。痛くない?と焦ったように訊く先生の顔が間近に迫る。
「ごめんなさい、もしかしたらこのビーカーが古くなってたのかもしれないわ」
「いえ、平気です。私が不注意でした」
「ちょっと待ってて、みょうじさん。保健室から手当の道具を貰ってくるから」
女の子の肌に傷がついたら大変、と言って先生は足早に教室を出ていった。閉められたドアの向こうを見ながら、自分の手に押さえつけられていた布巾をそっと外す。赤い血がいくつか水玉の模様を作っている指先の怪我は大したことがなかったが、そこに籠った熱はじんじんとして傷口に染みていた。先生が触ったところが、熱い。ロミオ、あなたはどうしてロミオなの、と先の授業で習ったフレーズが脳裏に過る。昔話のロマンスではないが、あの言葉を口にする物語の主人公の気持ちが分かる。先生、先生はどうして先生なんだろう。何度も繰り返して擦り切れてしまったはずの問いを心の中で呟いて、先生の体温が消えていく自分の手を眺め続けていた。
▽▽▽
「今日は怪我もさせてしまって本当にごめんなさいね。せっかく手伝いにきてくれたのに」
「いいえ、委員の仕事ですし。それに怪我は私の不注意が原因でしたし、傷も大したことがないので気になさらないでください」
「そう…。でも、心配だから家に帰ってもまた絆創膏を新しくしてね」
片付けが済んだ教室で、最後の器具を棚に直した先生は「ああ、そうだわ」と声をだした。
「妹のしのぶが買ってきてくれた美味しいお菓子があるの。みょうじさんと話せるのも今日が最後だし、お茶でも飲んでいかない?」
「え、でも…」
「いいのいいの。最後なんだから。ちょっとくらいお菓子食べたって平気よ」
教師なのにそんなことを悪戯に言った先生は笑って、「ちょっと待っててね」と準備室の方へ向かった。先生が立ち去った教室の中は、夕暮れの気配が窓の向こうから入ってきて静かだ。私は椅子から立ち上がり、花壇に面しているドアを開けて外に出た。
いつもきれいに管理されている花壇には、色とりどりの花がたくさん植えられている。まるで歌うようにさらさらと風に揺れる赤やピンクの花びらの中で、ひときわ小さくて白い花がある。手を伸ばし、それを根本から摘んだ。
教室に戻って、ドアを閉め、先生がいつも座っている棚の中にあった数個の茶器を取り出す。実験にも使う銀色のやかんでお湯を沸かしながら、摘んできたスズランの茎をナイフで切った。しゅうしゅうと音を立てて沸騰していくお湯の音がする。細かく叩いて、ぎゅっと絞るとぱたぱたと液体を零すようになった茎から垂れた雫を、ふたつのカップの底に何度か垂らした。
「みょうじさん〜。これがさっき話してた、しのぶたちが買ってきてくれたお菓子なのよ」
トレイにお菓子を乗せた先生が、にこにこと笑顔で教室に戻ってきた。ポットの蓋を閉めた。「こっちもお茶の用意ができましたよ」と、お茶をふたつのカップに注ぐ。爽やかなミントの香りが準備室いっぱいに広がった。
「お茶、淹れてくれてたの?場所分かった?」
「ええ、前にアオイたちがここからカップを出すのを見たことがあって」
カップに注がれたお茶は、とても良い香りがした。ソーサーに先生のカップを乗せて、彼女の前へと出す。先生は嬉しそうにそれを受け取って、椅子に腰かけた。
「みょうじさん。今まで本当にありがとう。明日から会えないなんてやっぱり寂しいけれど、また学校に来ることもあると思うから。その時はまたこうしてお茶でも飲みましょうね」
そう言って笑った先生は、やっぱり天使のようだった。先生が、そっとカップの端に口をつける。ああ、先生。あなたは一生、私のものになることが無いのでしょう。私とあなたの人生はもうこれっきり、交わることなく、平行線を辿っていく。それならば、私は運に身を任せてみたいと思う。このカップの中に入った花の毒が、私に効けば私はすべてを諦める。両者とも効かなければ、私は先生を見送る。だけどもし両者ともに効いて、あるいは、先生だけに毒が回ったなら。
「それは私の科白ですよ。先生、今までありがとうございました」
先生は、永遠に私だけのものになるだろう。その時は、彼女の花びらのような唇にキスをして、"胡蝶先生"などではなく、三文字の下の名前で呼ぶのだ。カナエ、と。
「きみの泣き言でかいたぼくの遺伝子」様に提出
あしたはいらない、海には恋はすまわない
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