「なまえ〜。久しぶりね」

 任務帰りの所為なのか、殆ど徹夜で鬼を狩ったからなのかは分からないが、とうとう私は幻覚が見えるようになったらしい。ごしごしと煤と血で汚れた隊服の袖で目元をこすると、「いやねぇ」と目の前にいる女は笑った。

 「私、私よなまえ。また貴方に会いに来たの」

 そこにいたのは、ひと月前に亡くなったはずの胡蝶カナエだった。私は夢でも見ているのだろうか。そう思ったが、疲れきっていたせいか、目の前にカナエに言及することもなく、ふらふらと寝所に戻ってそのまま眠ってしまった。「あらあら」と頭の上から降ってくる懐かしい声も、疲労がみせた幻だと思っていたからだ。

 ▽▽▽

 「あら、おはよう。貴方って意外とお寝坊さんなのねぇ」

 知らなかったわ、だって今まで一緒に暮らしたことは無かったものね。私は蝶屋敷にいたけれど、貴方は各地に派遣されながら暮らしも点々としていたものね云々、鈴を鳴らしたような声でくすくすと笑いながら、カナエは私を覗き込んだ。枕元に幽霊が立つようになるなんて、私もとうとう死に目が近いのかもしれない。こんな仕事をしているといつ死ぬか分かったものではないが、もしそうなら早いうちに神社にでも行かなければならないだろうか。勿論、願うことは安らかに永眠することではなく、少しでも寿命を延ばすことである。何故って、私はこのカナエと同じ鬼殺隊の一員だからだ。鬼を一体でも多く倒すことが、私の使命なのだ。

 「………」
 「仏頂面!笑った方がいいわ。なまえ、折角可愛いのに」
 「………カナエ」
 「なぁに」

 カナエはこてんと首を傾げた。墨を垂らしたように美しい黒髪が、柔らかな肩を滑っていく。

 「………本当に、カナエなの?」

 やっとの思いで出した声は、頼りなく震えていた。カナエはそれを聞いて、小さな妹を窘めるように苦笑してみせた。亡くなったはずのカナエは、幽霊となって私の前に再び姿を現したのだった。

 ▽▽▽

 「しのぶちゃんは、このこと知ってるの?」

 お膳に並んだご飯を食べながら訊くと、カナエは「ううん」と首を振った。

 「知らないわ。それに、私の姿はどうもなまえ以外には見えていないらしいのよね。気が付いて、まず初めに蝶屋敷にまで行ってみたのよ。しのぶの前も通った。だけど、あの子には何も見えなかったの」

 そう言ったカナエは、ちっとも寂しくなんてなさそうだった。カナエは自分のたった一人の家族であるしのぶちゃんを何よりも大切に思っていて、他の蝶屋敷の女の子たちとも暮らすようになってからも、ずっと彼女を気にかけていた。それこそ、息を引き取る間際まで。
 カナエがどんな風に死んだのか。私はその時は任務で別の場所にいたから、後から報告で聞いたのだった。濡羽の黒髪、潤んだ瞳、白い肌。絵にかいたように綺麗な女の子だったカナエは、死ぬ時でさえも血に塗れて美しかったのだろうか。
 そんなことを考えながら、漬物をぽりぽりと齧る。

 「カナエは、これからどうするの?」
 「うーん…それがね、ここを出ても私には行く宛てがないじゃない?姿もなまえ以外には見えないみたいだし。いつ消えるかもわからないけど、ここに置いてもらえないかしら」

 ね?と微笑んだカナエの申し出を、私はあらゆる意味で受け入れるほかなかった。「うん」と頷けば、ありがとう〜!と春の鳥の啼き声のような可愛らしい声で笑った。そしてふと気づいたように、「なまえ、」と私に向かって身を乗り出した。

 「ご飯粒。ついてるわ」

 細く白い指先が、すっと私の唇の端を滑った。くすくすと笑うカナエの手は、刀を握っていたとは思えないほどに柔らかくて、仄かに花の匂いがした。

 ▽▽▽

 それからしばらく、カナエとの日々は過ぎていった。といっても私には仕事があるので、その間カナエは私の家にいるというだけのことだ。カナエ。そう呼べば、なあになまえと返される。彼女が本当はもう亡くなっていて、ここにいるカナエは幽霊なのだということを忘れてしまいそうになる。だって、他の誰にも見えずとも、彼女の肌は血の通った温かさがあるのだ。それを感じると、いつか訪れる彼女との別れがひどく怖くなった。私の元にお館様から便りが届いたのは、ある夏の日のことだった。

 「見合いをしないかい、なまえ」

 突然の言葉に動揺を隠せない。どういうことなのでしょうか。跪いたままそう問えば、春の川のせせらぎのような穏やかな声がした。

 「私の知り合いで、妻となる女性を探している人がいてね。といっても彼の家は代々、鬼殺隊の隠などに人材を輩出してくれている処だから、君の仕事のことも理解している。どうだろう、なまえ。君さえよければ会ってはくれないだろうか」
 「……あの、僭越ながら、お館様。私は鬼殺という仕事柄、殿方に嫁ぐことは様々な意味に於いて難しいかと思います」

 思いもよらなかった申し出にしどろもどろになりながら答えると、お館様は鷹揚に頷いた。

 「分かっているよ。もし気が向けば鴉に便りをつけて返事をして欲しいんだ。勿論、断ってもらっても構わない。これはただの私の提案に過ぎないのだしね」

 考えてみてくれないか。そう言って、お館様は微笑んだ。夏の暮れの、夕方の風が吹いてきて、お館様の髪をさらさらと揺らしていた。

 ▽▽▽

 その日の夜。家に帰って食事を取りながら今日のことを話すと、「あらぁ」とカナエは目をぱちくりと瞬かせた。硝子玉のかがやきを持った瞳をぐるりと彩る長い睫毛が、鳥の羽の羽ばたきのようにふさふさと上下に動く。

 「そうだったのね。それで、なまえはどうするの?」
 「どう、って…」

 どうもこうもない。鬼狩りなんて堅気の仕事じゃないことをする、ましてや女の私が、どこかの家に嫁ぐなんて考えられないことだ。カナエが用意してくれていた里芋の煮つけを箸で摘まみながら思う。

 「ていうかこの煮物、どうしたの?」
 「厨に置かれたままになってたお野菜、勿体ないから使っちゃった。どうかしら、美味しい?」

 甘すぎず辛すぎず、ちょうどよい味付けにされた里芋を咀嚼する。カナエは幽霊だから食事ができないが、物には触れることができた。カナエがここに居着くようになってから、もうふた月ほどの時間が経っていた。鬼狩りの仕事のために家を空けることも多かったが、カナエはいつも私の夕餉を用意して待ってくれていた。カナエが私にしか見えない幽霊であることさえももはや気にならなくなって、いつしか彼女との生活はこの日常の中に溶け込んでいたのだ。

 「…美味しい」

 そう言うと、カナエはまた微笑んだ。愛しむように。
 ―カナエは、家族を亡くした私にとっては友人であり、姉妹であるような存在だった。しのぶちゃんとも違う、本当の姉妹でもなかったが、それでもカナエは私にとって唯一特別な存在だった。毎日のように死んでいく仲間たちの中で、数えるほどしかいない同期の仲間。女友達。だが友だちというには多くの思い出を共有していた相手。それがカナエだった。

 「…」

 カナエが亡くなって、日々が過ぎていった。私は彼女が残した妹たちのことを自分なりに気にかけていたが、妹のしのぶちゃんの周りには助けてくれる存在がもうたくさんいる。小さな男の子のようだったしのぶちゃんが亡くなった自分の姉を模した振る舞いをするようになって、柱になって、彼女はもう小さい子供じゃなくなった。たまに、ふと思う時があるのだ。つまり、私はこの先どのようにして生きていくのだろうということを。年ごろになって、誰かのもとに嫁いで家族を作る。それは私が鬼殺隊に入っていなければ辿り着いていた未来だった。今まではこのことを考えるたび、思うだけ無駄なことだと思っていた。私は鬼狩りを続けていくつもりだったし、それ以外の道が自分の前に広がっているなんて思っていなかったから。
 だが。

 「カナエ、私ね…、」

 りんりん、と鈴虫の声が夜の帳のなかで聴こえてくる。気づけば夏は終わり、もうすぐそこまで秋がやって来ていた。

 ▽▽▽

 「みょうじさま、お支度は宜しいですか?」

 襖を開けて、世話役の女性が入ってくる。「はい」と頷きながら、鏡台に映る自分の姿を見た。白無垢。こんな着物を、まさか生きているうちに自分が着ることになるなんて。いつもは汗で汚れている顔にきれいに白粉が塗布され、そこに映っているのはまるで自分ではないようだった。
 「まあ、とてもお綺麗です」と笑ってくれた女性の後ろに、ひとりの男性が立っていた。彼は私を見て、はにかむように笑った。この人が、私と結婚することになる相手である。あれからお館様に返事を出し、見合いをした。彼はとてもいい人で、優しかった。ご両親を鬼によって亡くされていた。私と同じだ、と思った。
 流れるように進んだ婚姻の話は秋の風に運ばれて、金と白の光が眩しいこの季節に祝言を挙げることとなったのだった。
 広間へと、白い着物の裾を揺らして進む。白粉の匂いがする自分の肌の中で思い出したのは、カナエのことだった。カナエは私が見合いの話を受けようと思っていることを話すと、微笑んで喜んでくれた。

 「そう、そうなの」

 よかったわ、なまえ。あなたが安らげるような殿方が見つかったのね。そう、それならしのぶにも教えてあげないと…え?言っていない?あら、どうして。…そう?…なまえがそう言うなら仕方ないかしら。だけど、私嬉しいわ。生きていたら、私もあなたの祝言に出たかった。

 「…」

 カナエの笑顔が、さっきみたことのように思いだされる。しのぶは私にしか見えない幽霊だから、あの家で別れを告げたのだった。幸せになってね、と笑って送り出してくれたカナエの最後の手のぬくもりは血が通った温かさで、彼女が本当に今でも生きているのではないかと私に思わせた。あの時のカナエの体温が、まだ私の手の中に残っているのだ。

 その時だった。

 「―きゃあ、!!!」

 女性の金切り声が聴こえた。はっと現実に引き戻されて顔を上げると、世話役の女性が手をかけた襖の中に飛び散った鮮烈な血が目に入った。そして、そこにいた六寸ほどの背の高さがある異形の怪物も。
 
 「―、」

 鬼だ。なにを思うまでもなく、瞬時にそれを理解する。畳の上に転がった数人は、ある者は首を胴体から切断され、ある者は苦悶の表情を浮かべたまま絶命している。溢れるような血の匂いがする部屋の中で、ぼたぼたと口から涎を垂らす鬼が、ぎょろりとむき出しになった目で私たちを振り返った。
 ああ、と声を上げて世話役の女性がその場から逃げ出す。そんな彼女に向かって腕を伸ばす鬼の影から攫うように、隣を歩いていた婚約者は私を庇った。大丈夫ですか!?と、私の顔を覗き込むその人の表情が、万華鏡を覗いているときのようにからか視界で回った。ぐらぐらと揺れている色と声の世界で、唯一、鮮明に私の目に映ったものは、上座の後ろに置かれていた、置物の太刀だった。

 「なまえさん!?」

 私は咄嗟にそれを掴み、抜いていた。身体が自分のものではないように俊敏に動いて、捕えた世話役の女性に今まさにかぶりつこうとしている鬼と目があう。走り出した足は止まらず、畳を蹴って高く飛び上がった勢いのまま、鬼の頸筋に向かって刀を振り下ろしていた。
 があ、と鬼が引き攣った声をあげ、その拍子に手にしていた女性を下に落とした。床に叩きつけられた女性は、しかし、まだ生きている。それを横目で確認しながら、私は床に着地した。切りかけた鬼の頸から血が噴き出し、鬼が私を見た。標的が私になったのだ。そのままこちらへと突進してくる鬼の攻撃を避け、出入り口の近くに立ちすくむ婚約者へと声をかけた。

 「急いでこの部屋を出てください!この鬼は、私が倒しますから」
 「えっ、でも…!なまえさんは!?」
 「私は、っ鬼殺隊の人間ですから大丈夫ですさあ早く、行って!早く逃げて!」

 がたんと床が揺れ、置かれていた調度品が振り下ろされた鬼の腕によって破壊される。この鬼は、知能が高くないようだった。婚約者に言いながら、また鬼の頸を狙って飛び掛かる。がち、と骨に当たるもそこから先を切り裂けない感触に舌打ちが漏れた。飾りに使われているだけの置物の太刀は使い物にならない。刃が古すぎるし、これでは折れるのも時間の問題だ。そもそもこの刀はただの刀で、日輪刀ではないのだ。これでは鬼を倒せない。
 傍にあった置物の壺をひっつかんで、それで鬼の頭を力いっぱい殴った。ひるんだ隙をついて両腕を落とし、それらが再生するよりも早く鬼の頸へと脚を巻き付けて、振り下ろされないようにする。そして何度も壺で鬼の頭を殴り、びしゃびしゃと飛び散る血の中、断末魔を上げた鬼が後ろに倒れた瞬間にもう一度、壺を振り下ろした。

 「…」

 鬼は、動かなくなった。刀で切り離してはいないが、頭を潰したことによって頸筋は絶たれて、鬼は絶命したのだた。

 「っ、はあ、はあ、」

 燃えるように熱くなった体に、汗が伝う。無我夢中で倒した鬼は、開け放たれた襖から吹いてきた穏やかな秋風によってさらさらと灰となって散らばっていった。

 「う、うぅ、」

 嗚咽のように、喉から掠れた声が漏れた。切り離された頸から溢れた血の匂いの中、手にしていた刀がからんと畳の上に落ちた。

 「……カナエ、私、やっぱり無理よ」

 今しがた鬼との交戦が行われた血の飛び散る部屋には似合わないほど穏やかな風の中、カナエの笑顔が脳裏をよぎる。カナエが死んで、私の胸には大きな穴があいた。その時、私は自分にとってカナエが何よりも大切な存在だったのだと分かったのだった。だがもう気づいたときには遅くて、カナエはこの世にいなかった。彼女の忘れ形見のしのぶちゃんを気にかけて、鬼を倒して生きていくのが、自分に残された道なのだと思っていた。だが、無責任なことに、カナエを失った今、自分の前にこれからも鬼を倒して生きていくだけという未来だけしか残っていないことが、とても恐ろしいことのように思えた。しかし、その逃げ道として選んだこの祝言の中でも、私は結局鬼を殺していた。刀を掴んだ手の、肉刺の残った肌に沁みつく血の匂い。それを見て、はっきりと分かったのだった。自分には、鬼殺隊で生きて死んでいく道しかないのだと。それしか私の人生はあり得ないのだと。

 「カナエ…」

 彼女は、私が見た幻だったのである。あのカナエの霊は、きっと、未練がましい私の想いが作り出した幻だったのだ。それが、今では分かる。死んだ人間は、戻らない。
 はらはらと涙が零れ落ちる視界のなか、そっと顔を上げた。眩しい金色の落日がみえる景色の外に、カナエがいた。カナエは私を見て、少し困ったような顔で微笑んでいた。

 ▽▽▽

 「本当に、申し訳ございませんでした」

 後日、私は祝言を正式に断った。緊急のこととはいえ祝いの場で抜刀し、あまつさえあと少しで成立するところだった婚姻を破断にしてしまったことは、いくら謝っても謝りきれないくらいだ。床に頭をつけた私に、上座に座っていたお館さまは優しい声で「いいんだよ、なまえ。顔を上げてごらん」と言った。

 「先方には私が話をつけておいたからね。それに、彼も納得していたよ。君がこれからも鬼殺をして生きていくことを選ぶなら、寧ろ祝言を挙げる前にそのことに気づけて良かったと」
 「…」

 先日、謝罪しに行った先の男性を思い出す。私のしたことを笑って許してくれた彼は、責めることもなく命を助けてくれてありがとうとお礼を言ってくれた。その時、彼が握った私の手に感じた温もり。あれを、数日経った今でも思い出しては自分の手を眺めていた。
 —カナエは、私が家に帰った時にはいなくなっていた。初めから彼女の霊などいなかったかのように、気配のひとつも残っていなかった。だが、それで良かった。

 「なまえ」
 「はい」
 「後で、カナエに会いに行っておいで」

 その言葉に、思わず驚いて声をあげそうになった。だがお館様はいつもの穏やかな表情のまま、今でももうほとんど見えなくなった目を庭の方へと向けて、

 「今日は、あの子の命日なんだ。きっとなまえが行けば喜ぶよ」
 「…そう、でしたね」

 そうだった。今日が、彼女の命日だったのだ。霊となったカナエと過ごすうちにすっかり忘れてしまっていたが、一年前の今日、カナエは亡くなったのだ。
 庭の向こうから、秋の風が入ってきた。もう夏を過ぎて、風はひんやりと優しく肌を撫でていった。もう日が落ちるのも早くなってきたからね、早く行っておいで。と言った親方さまに一礼して、お屋敷を出る。墓へと歩いていく途中、ふと隣を見るとカナエがいた。

 「カナエ、あなたがもう死んだんだってこと、私すっかり忘れてたよ」
 「まあ、私もよなまえ。私も、自分が死んだんだってこと、忘れてしまってた。あなたと過ごす毎日は生きていた頃そのもので、楽しかったもの」
 「また明日から、仕事に戻るよ」
 「なまえがそう決めたなら、その方がいいわ」
 「ねえ、カナエ」
 「なあに」
 「最後に、してほしいことがあるの」

 そう言うと、カナエは何も言わずに微笑んで、そっと私の頬を撫でた。近づいて、触れ合った唇は柔らかくて、たしかに血の通った彼女の体温がそこにあった。
 目を開けると、今度こそカナエはいなかった。きっと、次に会えるのは私が死ぬときだろうなと思う。それが早いのかもっと後のことなのか分からないが、自分の人生が閉じた先にもし大切な相手に再会できるなら、なんとなく、死ぬことも怖くなくなってしまいそうだと思った。
 風が吹く。また歩き始めた私の影は、土の道の上で揺れて、また見えなくなっていった。

晩餐さま に提出
あなたは私が戴くただひとつ

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