※モブの隊員が流血・死亡する描写を含みます。 

 空を見上げると、大きな満月が見えた。金色に輝いている月の光は、私がいた元の世界よりもずっと明るく見えている。電気もなにもないこの世界の夜は、かつての世界よりもずっと危険が多くて、森の道を歩いているだけでもいつ獣に襲われるか分かったものではない。ゆらゆらと月の光が照らす道を歩いていく。どこからか梟の啼き声がする。複数の仲間が派遣された森の奥へと向かっている最中だが、全く人の気配がない。しんと静まり返った夜の森は、秋の冷たい空気が満ちていて、もしかすると永久に森から出られないのではないかと錯覚してしまうほどだった。

 (なんでこんなことになってしまったのだろう)

 使い古した問いだった。心の中で神様に文句を言うようにもう一度月を見上げる。そしてまたため息を吐いた。
 私がこの世界に生まれてから、もう十数年の年月が経とうとしている。ここは"鬼滅の刃"という名前の漫画の世界だった。元いた世界で交通事故にあって、気づいたらこの世界に生まれていた。自分が前世の記憶を持ったまま漫画の世界に来てしまったということが分かったのは、七歳になる頃だった。
 はじめは、自分をここに連れてきた神様を恨んだ。神というものが存在するのかそうでないかは定かではないが、しかしこんなことになるなんて一体誰が予想できるというのだろうか。生まれ変わった先が自分が読んでいた物語の世界で、よりにもよっていつ死ぬか分からない"鬼滅の刃"の世界なんて。

 「なまえ!」

 考えに耽っていると、仲間の声がした。それに意識が中断される。後ろ振り向くと、そこにいたのは同期の千代という子だった。私を見てほっとしたような表情になった千代は、傍に駆け寄ってきた。

 「よかった。もうこの辺りは誰もいないんじゃないかと思った」
 「うん、本当に。東はどうだったの?」

 そう訊ねると、千代は表情を曇らせた。彼女が着ている隊服は、よく見ると漆黒の生地の中にいくつかの赤い染みができていた。
 ふるふると力なく首を振った千代に、もう他に来た仲間の何人かが死んでしまったことを悟る。

 「…」

 仲間が死ぬことにいつから驚かなくなったのだろう。千代がやって来た道の向こうで死んでしまったのは、隊の中でも顔見知りの夕見子だったかもしれないし花だったかもしれないし、先輩の田山さんだったかもしれない。だが、それをわざわざ千代に訊ねる気ももはや起きなかった。

 「先に進もう」

 踏み出した足は、更に深い森の奥へと進んでいった。時折、空の向こうから吹いて来る風は、容赦なく冷たくて体温を奪っていく。冷たい空気に長時間晒されたせいで、もはや熱いのか冷たいのかも分からなくなっていた手を、そっと刀の柄に添える。ひんやりとした重たい鉄の感触がした。

 ▽▽

 (本当に、どうしてこんな事になってしまったのだろう?)

 異世界に行ってしまう題材を扱った物語は数多くあるのに、よりにもよって行きついた場所がこの世界だったなんて。しかも、私は鬼殺隊の一員になってしまったのだ。

 「なまえ!早く来て!!」

 鬼と交戦している仲間の金切り声がする。夜の静寂を裂き、長い年月をかけて大きく育った木々を倒しながら暴れ回る鬼は、天に届くほどの巨体だった。その鬼の足元には、何人かの仲間が転がっている。地面に広がった赤黒い血から匂い立つ生臭さに鼻がもげそうだった。
 地を蹴って、鬼の攻撃を避けながら首を狙う。宙を舞った自分の体の身軽さに、本当に別の世界に来てしまったのだと今更ながらにしみじみと思う。
 鬼殺隊に入隊してからというもの死なないために訓練に明け暮れて鍛えられたとはいえ、人間はこんなに高い身体能力を持っていないはずなのだ。

 「―ッ、」

 振り下ろした刀の切っ先も、鬼が暴れ回って腕を振り回すせいですぐに弾き返される。巨体の鬼の拳に踏みつけになって、隊員たちの阿鼻叫喚がそこかしこから聞こえてくる。
 鬼殺隊は強さの序列がはっきりしている。柱ともなれば下級の鬼の一体や二匹の討伐など造作もないが、階級の低い私たちのような隊員は違う。向かった先の鬼との交戦で毎日のように仲間が減っていくし、中には志もなにもないような隊士がいて、今のような戦闘になれば正気を失って逃げ出してしまうことだってある。

 「ッ、―!」

 叩きつけられた木に背中がもろにぶつかって、くらくらと頭が回る。でも気を失っている場合ではない。鬼を倒さなければ、私たちが全滅してしまう。
 がんがんと耳鳴りすら聴こえる頭を必死で叩き起こしながら走って、首を狙う。鬼の背中に見えた大きな美しい満月に、記憶が昔へと戻っていく。
 この世界にきて孤児だった私は、鬼殺隊の育手に拾われた。生まれた時からその育手だけが唯一の寄る辺だったから、彼が亡くなった時に行く宛てもなかった。自分が"鬼滅の刃"の世界に生まれたのだと気づいて、このままいけば鬼殺隊に入隊し鬼を斬る生活が待っていることが分かっても、記憶が戻るまで鬼殺をするための訓練だけしかしてこなかった私に、刀を使って生き残ること以外の道はなかった。養父が亡くなったとき、彼と同じ育手であり、元鬼殺隊の柱でもあった鱗滝左近次があばら屋の前にやって来た。
 私を引き取った鱗滝さんも、一緒に彼の元で暮らすことになった錆兎も真菰たちも優しかった。でも私は、元の世界に戻りたいという気持ちを消すことができなかった。

 「なまえ、紹介するよ。俺の友だちの冨岡義勇だ」

 訓練の後に、皆で遊んでいた裏山に錆兎が連れてきた男の子が冨岡義勇だった。私よりも少し背が低く、控えめに挨拶をしたその子と握手をしたことを覚えている。子供らしい柔らかな感触の手をした義勇や、隣で笑っている錆兎や真菰がこの先で死んでしまう運命にあることが現実味を帯びて、怖くなった。

 「ゔっ、」

 ぐぎ、と嫌な音がした。鈍い痛みが足のくるぶしを走って、その場に倒れ込む。

 (何でこんな時に…!)

 痛い。腱が切れたのか骨に罅が入ったのか分からないが、ずきんとずきんと痛みを訴える脚は立ち上がろうとしても動かない。まるで他人のものになってしまったかのように痛む足を引きずって顔を上げた先で、見たくないものが目に飛び込んできた。

 「なまえ、なまえ…!」

 千代だった。倒れ込んでいる私に気づかず、鬼はその大きな手で千代の身体を鷲掴みにしていた。がくがくと震え、恐怖から涙を流して何もできなくなっている千代の手から、がしゃんと刀が落下する。大きく口を開けた鬼の、鋭利な歯が並んだ舌からぼたぼたと涎が垂れて千代の隊服を汚していく。不味い、不味い不味い。

 (行かなきゃ、今すぐ行かなきゃ…!!)

 ぐらぐらと世界が回る。揺れた視界の先で千代と重なったのは、最終選別で亡くなった錆兎と真菰だった。ほとんど家族のように鱗滝さんの元で一緒に暮らしていた。あの時、元の世界に戻りたい気持ちと、一方でたしかに今の目の前にいる彼らに対して感じ始めた愛情の中で苦しかった。二人が生きて帰ってこなかったとき、声が枯れるほど泣いた。それから暫くして、冨岡義勇という子どもが訪ねてきた。彼は錆兎と仲が良かったのだという。義勇は、いずれ鬼殺隊の水柱となる人物だった。

 「や、止めて、殺さないで…!」

 そのような懇願が全く無意味であることを知っている。だから毎日、過酷な訓練を繰り返した。手にかけた柄を抜いて、ふるふると痛みから震える足で無理に立ち上がる。私は弱い剣士だった。血を吐くような努力をしても、義勇たちのようにはなれなかった。
 私では千代に届かない。それが頭に過った時だった。

 「―水の呼吸、壱ノ型 水面斬り」

 一閃の風のようだった。その一筋の切っ先が鬼の身体を過ったと思った瞬間、どっと紙吹雪のように灰が吹き荒れた。

 「…」

 ばらばらと解けて散っていく灰の中、地面に着地した影は義勇だった。
 なにも言わずにこちらを振り返った義勇が、辺りを見渡す。黒く長い睫毛の奥にある寡黙な視線は、ぐるりと周囲を確認したのちに私で止まった。
 
 「立てるか」

 感情が読み取れない平坦な声をかけた義勇は、すたすたと目の前まで歩いてきた。突然のことに驚いて、はくはくと口を動かして「な、何とか…」と頷く。
 木に背中を預けて、なんとか上へと身体を起こす。義勇の肩越しに見た辺りには、数人の絶命した隊士の身体が無残に散らばっていた。さっきまで応戦していたことを物語るように、地面には刀も落ちている。
 その中に、体が半分ひしゃげた千代がいた。

 「…」

 義勇も私も、何も言わなかった。生き残った。けれど、他の仲間は死んでしまった。
 義勇はまだ水柱とはなっていないが、もう私のような一端の隊員とはほとんど顔を合わす機会もないほど位が高くなっている。私なんかよりもずっと強い。今だって、もし義勇が助けにはいって来なければ、私自身もここで死んでいたかもしれなかった。
 
 「た、助けてくださって、ありがとうございます……」

 義勇と私は、鱗滝さんの元で幼少を過ごした最後の仲間同士だった。とはいえ、今では彼の方がずっと階級も高いし、最近は顔を合わせることも少ない。口からでた言葉はどこか他人行儀に響いた。義勇はやっぱり、何も答える気配がなかった。
 ―昔、まだ義勇がよく笑う子どもだった頃。私が裏山で足を挫いたとき、一番先に私を見つけてくれたのは彼だった。血が滴る膝に手当をして、持っていた手拭を巻いてくれた。今、目の前にいる義勇はあの頃よりもずっと背が高くなっていて、肩もまなざしも大人の男性のそれだった。義勇は、錆兎たちが亡くなってから笑わなくなった。色を失ったきれいな睡蓮の花のような彼の顔立ちは、お姉さんの蔦子さんに似ている。

 「っえ、」
 
 ふと、何を思ったのか、義勇はおもむろに私の頬へ手を伸ばしてきた。急なことに思わず肩がびくりと緊張する。義勇は、指で無造作に頬についた泥や血をごしごしと擦った。そして、汗で張り付いていた髪の幾筋かを手に取って、絡まったそれを私の耳へとかけた。

 「髪が、ほつれている」

 平坦な口調からは、義勇が何を思ってそんなことをしたのかが全く分からなかった。
 ただ、よく分からないままに「あ、ありがとうございます…」と返す。そうすると、また沈黙が落ちる。すると頭上から、鴉の鳴き声が聞こえてきた。伝令だ。他の隊員や隠たちがこの森に到着したようだった。

 「……………また、生き残っちゃった…」

 こんなことを言っても義勇を困らせるだけだと分かってはいた。だが、口からぽろりと零れた気持ちは、毎日のように仲間が死んでいく日常の中にあってどうしても思ってしまうことだった。義勇は、何も言わなかった。ふい、とそのまま背中を向けて、数歩分、私より先に前へと進んだ。

 「他の隊員たちが山の麓に到着した。じきに撤収の声がかかる」
 「…はい」

 先へ行くということなのだろう。振り返らずに私の前を通り過ぎ、森の奥へと足を進める彼の背中は、記憶の中の彼よりもずっと広くなっていた。

 「俺は」

 義勇は背を向けたまま口を開いた。月明かりがゆらゆらと落ちてくる夜の森の中で、彼の表情は私からは見えなかった。

 「俺は、お前が生き残っていて、よかった」

 次の瞬間、義勇はもうその場にはいなかった。
 今の会話もただの幻だったかのように消えていなくなってしまった義勇の見えない背中を追いかけるように、森の奥へと視線を投げかける。だけどそこには、ただ静寂があるばかりだった。

 「―、―…さん、なまえさん!ご無事ですか!?」

 西の方から、隠の方たちが向かってくる足音が聞こえてきた。数人でやって来た彼らと合流しながら、さっき義勇が触れた頬にそっと手をあててみる。
 義勇は多分、亡くなった錆兎たちや蔦子さんを私に重ねているのだと思う。思い上がりかもしれないが、そうでなければ、あのように触れたりなどしないだろう。
 義勇の手の温度が、まだ頬にかすかに残っていた。秋の冷たい風で体温が奪われた肌からは、義勇の血の通ったぬくもりの痕があった。私は、漫画の結末を知らない。義勇がどうなるのかを知らない。だが、私のような弱い隊員はいつか死ぬだろう。そうなれば、私はもとの世界に戻ることが出来るのだろうか。長い夢をみていたように、この世界から醒めることが出来るのだろうか。それとも死んでしまえば、終わりなのだろうか。
 考えても意味のない問いだった。それこそ、その時が来ないと分からないことなのだから。だが。

 「俺は、お前が生き残っていて、よかった」

 その時が来るまでは、やっぱり、生きていなければならない気がした。苦しみと悲しさで擦り切れた心の中に落ちた、一滴の暖かい水のような義勇の声をきくと、昔、彼が私の膝に巻いてくれた手拭のことを思い出すのだった。

君の手には未来の花さまに提出
おやすみ言うまで生きるのだ

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