「あ、」


 足元の石に躓いて、思わず前へとつんのめってしまった私が地面に手を付くよりも前に、実弥さんが振り返った。呆れたと言わんばかりにまだ少年らしさの残る目を顰めながらもぐい、と腕を引いてくれる。素っ気ないながらも私が転ばないように助けてくれた彼にお礼の言葉を言わないと、と口を開く。


 「あ、有難うございます!」
 「ちったぁ気ィ付けろよなァ」
 「は、はい」


 実弥さんは振り返らずに道を進みながら言う。だが、手は繋がれたままだ。今日のように昼間の街を二人で歩くのは久しぶりで、繋がれた手のあたたかさに気恥ずかしさを感じてしまう。それでも私の手を包む、私よりもずっと大きなその手の温度を離してしまうのは惜しくて、気持ちを隠すように話題を変える。


 「不死川さん、この間また階級が上がったと聞きました。凄いです…本当に。私も、もっと精進して、…?」
 「…」
 「不死川さん?」


 くるりとこちらを振り勝った実弥さんが足を止める。何だろうか。
 不思議に思って顔を上げると、実弥さんは怪我の痕跡が幾つも残る顔に不満げな色を浮かべて「それ」と言った。


 「はい?」
 「名前。二人の時は下の名前で呼べっつッただろ」
 「あ、そ、そうでしたね」


 指摘されて、思い出す。そうだ。そう言われていたんだった。しかし、実際に呼んでみようとすると気恥ずかしさで少し緊張してしまう。だが視線を上げると、実弥さんが黙ったまま私をじっと見下ろしているのが分かって、結局ちいさな声で「実弥さん」と呼んだ。


 (あ、)


 私がそう呼ぶと、実弥さんは満足げに笑った。その笑顔が本当に眩しい、優しいものだったから私は何も言えなくなって俯いてしまう。
 実弥さんのこの、普段はあまり出ないのにふとした時に出る微笑みだとか、大きくて暖かな手だとか、逞しい首筋に頬を寄せたときに感じるかすかな柔らかい匂いだとかを私は愛していた。
実弥さんはそれきり何も言わなくなって、私の手をぎゅっと握るとまた背を向けて歩き始めた。どこからか、桜の花びらが飛んでくる。季節は春だ。実弥さんの高い背を見上げながら、この幸せな瞬間をずっと今に留めておきたくて、永遠にしたくて、私も彼の手を握り返した。


▽▽▽

 「あ、」


 足元の石に躓いて、思わず前へとつんのめってしまった私が地面に手を付くよりも前に、実弥さんが振り返った。正確には私は目がほとんど見えなくなっていたから、振り返ったというのは僅かに私に残った剣士としての感覚から感じたものだった。
 その予想は当たっていて、私が地べたに手をつく前に身体が支えられる。顔に布地の感触が当たる。「大丈夫か」と上から落ちてきた声に頷き、実弥さんの胸に頬を寄せるようにして身体を預ける。


 「有難うございます」
 「ッたく、お前はいつまで経っても鈍くさいんだからなァ」


 そう言いつつも、実弥さんは私の身体を丁重に扱って部屋へと運んでくれた。花を見るのが好きだった私のことを慮って彼がこの縁側に面した場所に部屋を移してくれたのだ。普段はお手伝いさんが私の世話をしてくれているのだが、実弥さんは風柱となって忙しい今でも、私の様子を頻繁に見に来てくれた。その優しさが、私には愛おしくて申し訳なくて、でも何も言えないからぎゅっと彼の袂を握るしかないのだった。


 「今年の桜は綺麗ですね。それに、凄く良い匂いがします。これは、…なにかのお花ですか?」
 「道端で咲いてるの見つけたんだよ」


 鼻を擽る、馨しい花の匂い。ほとんど見えなくなった視界は、私の嗅覚をより鋭敏なものにした。布団から身体を出して右手で花の位置を探ろうとすると、実弥さんが私の手を握って花の元へと導いてくれた。花びらに鼻を寄せると、とても良い匂いがする。実弥さんはこう言うが、本当はどこか離れた山で採ってきてくれたのだろうなと簡単に想像がついた。実弥さんはそういうことをする男の人だった。


 「もう、春が来たんですねぇ」
 「そうだなァ」
 「お仕事の方はどうですか?また新しく怪我をされたみたいなので…」


 実弥さんの額に手を伸ばすと、その顔に新たな傷痕が出来ているのが分かった。鬼殺隊という仕事上、そうなってしまうのは致し方ないことだ。私もそうだったのだから分かる。だが、愛しい大切な人が怪我を負うのはやはり心配なのだ。傷痕を撫でていると、実弥さんはその手を上から自分の手で押さえた。


 「心配すんな。俺は別にどうってことねぇよ。それより、今はまだ冷えんだろ。風邪、引かないようにしろよォ」
 「…はい」


 そう言って、実弥さんは布団を私の肩にかけた。中に入れ、ということなのだろう。布団の中へと身体を潜りこませながら、実弥さんの袂を引っ張った。そうすると、実弥さんは黙って私の頭を自分の胸元へと引き寄せてくれた。実弥さんは、私がして欲しいと思っていることが、言葉がなくても分かるようだった。
 頬から、暖かな実弥さんの体温が伝わってきた。私が受けた血鬼術は、受けた者の五感を奪うというものだった。四年前、市街に現れた鬼を殲滅した時にこの術を受けてしまった。一命は取り留めたものの、私の身体を蝕むこの術は、かけた鬼がいなくなった今も進行を止めなかった。


 (…)


 こうして彼の胸に頬を寄せていると、何年も昔にふたりで歩いた春の街のことを思い出す。もう戻らない、春の日のことを。


 「実弥さん」
 「あ?」
 「生きてくださいね」


 そう言うと、実弥さんはやはり何も言わなかった。実弥さんは私といるとき、いつもよりもの静かになるのだった。もうほとんど闇と変わらない視界でも、目を閉じればあの日の桜が舞っているのを見ることができるようだった。すん、と近くで嗅いだ大好きな人の匂いは、湿った春の匂いがしていた。


春の川底

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