正直者が馬鹿を見る。そんな言葉があるのを、なまえは思い出した。目の前に積まれたプリントの山。中身は今度の文化祭の概要をまとめたものだ。クラスに配布するため、文化祭実行委員会から生活委員(こういう時くらいしか出番のない人数合わせのための委員である)へ今日中に作るように言いつけられていたのだ。
 通常、委員は二人で行う。仕事量の少ない委員なら一人のものもあるが、生活委員はなまえともう一人の女子生徒が担当だった。だが。

 「ごめん、みょうじさん!わたし用事あるから、これやっててくれないかな?」

 なまえの相方のその子はクラスの、いわゆるカーストのてっぺんにいる強めの女子だった。目元を彩る、綺麗にマスカラが塗られた睫毛。化粧は校則違反なのに、堂々とそんな顔で登校してくるなんて万年真面目ななまえには考えられないことだった。恐ろしい。
 そんな女生徒に、たとえ心の中では拒否したくてもなまえは強く出ることが出来ない。実際、やる人がいなければ明日クラスの皆に配るプリントは無いのだ。先生にだって怒られてしまう。

 「う、うん分かった!私やっておくね」

 そう言ったのが、約一時間前のこと。
 すっかり人影がなくなった校舎には赤い夕陽が差して、教室にはいつの間にかなまえしかいなくなっていた。
 ぱちん、ぱちん。機械的なホッチキスの音がやけに大きく聞こえる。

 「…」

 なんで、いつも私ばっかりこんな目に遭うんだろう?どうして、私は嫌だって言えないんだろう。
 
 なまえは幼いころからよく損な立ち回りをしていた。それは彼女の生来の真面目で、お人好しな、悪く言えば自己主張ができずに他人に流されやすい性格によるものだった。なまえもそれは理解していた。だが、十六年間もずっとこのままなのに、急に変えることなどできない。
 なまえは、椅子から立ち上がった。

▽▽▽

 なまえの向かった先は、屋上だった。

 こんなご時世のも関わらず、常時解放されている屋上。ここからの夕陽は、どんな観光名所から眺めるものよりも素晴らしく絶景だとなまえは思っていた。上手くいかないとき、友だちとの話に合わせるのに疲れた時、なまえはよくここへ来ていた。

 「よ、っと…」

 かしゃん、とフェンスが音を立てる。なまえは高い場所が好きだ。顔を上げれば、涼しい夕方の風が吹いてきた。どこまでも広がる景色。いつも通う学校への道、スーパー、パン屋に花屋。隣駅と繋がる背骨のような線路。その全てを浩々と照らす夕陽。それらを見ていると、なまえは自分が自由の身になったような気がした。この世のあらゆる窮屈なことから解放される。そんな一種のカタルシスを覚えるのだった。

 「ばかーー〜!!!私だって帰りたいっつーの!!!!」

 胸いっぱいに空気を吸い込んで、空へ向かって叫ぶ。ありったけの大声は、広い街の上へとすぐに消えていく。どれだけなまえが大きな声を出そうとも、広々としたこの夕方の景色の前では些細なことでしかない。だから良かった。古びた屋上には誰も来ないから、こういうことをしても周囲に咎められない。
 ほう、と息を吐く。一応は吐き出せたことだし、いったん教室に戻って書類を仕上げよう。そう思って、振り返った時だった。

 「こんにちわ」

 そこには人が居た。
 黒い髪、特に目立ったところのない少し幼さの残る顔。上ふたつのボタンを開けた黒い学ランを着ているその男子生徒は、同じクラスの松野おそ松だった。

 「………ま、松野くん」

 彼はこの辺りでは有名な六つ子のひとりだった。彼をはじめとした松野家の兄弟たちは、この学年のクラスに一ずつ在籍している。ちなみにおそ松は長男らしい。
 なまえはごくり、と唾を呑んだ。そして、恐る恐る口を開く。

 「……今の、聞いて、た?」
 「"ばかーー〜!!!私だって帰りたいっつーの”?」
 「…!」

 最悪だ。まさか、人が居たなんて。
 愕然とするなまえに、おそ松は「まぁまぁいーじゃん」と何ともゆるい口調で、ポケットに手を突っ込んだまま笑った。口元から小さな八重歯が覗く。

 「みょうじさん、こんなとこ来るんだね。なんか誰か来たなーって思ってたら、全然こっち気づいてないじゃん。そんでそのまま見てたらフェンス登ってくから、これもしかして自殺?マジかぁ、俺、クラスメイトの自殺現場に立ち会ったのかーって思ってびびっちゃった。でもまぁ、なんにせよ自殺じゃあないんだね。よかったよかった」
 「…松野くんは、ここで何してたの?」
 「ん?俺はほら、これ」

 そう言っておそ松がひょいとポケットから出したものを見て、なまえはぎょっとした。何やら銀文字で銘柄が書かれている小さな小箱。煙草だった。

 「えっ、それ…、」
 「うん?みょうじさんもいる?」
 
 何てことないような顔でなまえの方にも一本差し出してみせたおそ松に、ブンブンと頭を振って拒否する。まさか屋上とはいえ学校で煙草を吸ってるなんて。
 おそ松は、クラスの人気者だった。派手な女子や賑やかな男子とよく一緒にいるから、こういうものも彼にとっては珍しくないのかもしれないが、なまえにとっては未知の代物である。慣れた仕草で煙草の煙をぷかぷかと吐き出すおそ松は、フェンスに凭れ掛かって「みょうじさんさぁ、」と首を傾げた。

 「真面目だよね。疲れない?」
 「え?」
 「何かいっつも皆に面倒ごと押し付けられてるじゃん。断らないの?」

 ふぅ、と吐き出された煙が上に向かって昇っていく。すぐに空気に溶け込んで消えてしまったそれを見ながら、「だって」と言い訳のようになまえは言った。

 「誰かする人がいなかったら困るから。そりゃあ、押し付けられるのは嫌だよ。でも…、」
 「だけど別に毎回みょうじさんがしなくてもよくね?」
 「う、うん。でも…、」
 「断らないから、皆みょうじさんにさせちゃうんだと思うよ。一回、言ってみたら?"私もう無理、やらない"って」

 何気なくおそ松はそう言ったが、なまえにとっては途方もない空想のように聞こえた。自分では決して出来ないことは、上手く想像できないものだ。おそ松の言っていることは確かに一理あるが、しかしそれを実行できるかと言われれば別だ。なまえだって本当は気づいている。だが、止められないのだ。だってそれが、なまえの生き方だから。

 (…松野くんは、)

 松野おそ松は、とても自由な人間のような気がする。
 教室にいても賑やかな友人たちの中にいても、彼はいつも自分のペースで生きているように見える。喋ったことは今に至るまで殆ど無かったが、日々の生活の中でおそ松はなまえの目にはそのように映っていた。
 夕陽が、先ほどよりも更に傾いている。もうすぐ日が沈む。
 帰らなければ、そして作業の続きをしなくては。そう思い、立ち上がって教室へと戻ろうとした。

 「みょうじさん、ちょっと待って」

 後ろから呼び止められて、振り向く。見ればおそ松がちょいちょいと手を振っていた。何だろうと思って近寄ると、彼は楽しいことを見つけた子供のような笑顔で、自分が吸っていた煙草をなまえの前へ突き出した。

 「これ吸ってみてよ」
 「え、…ええ?無理だよ!私、煙草なんて吸ったことないし…」
 「いいからいいから!ちょっとだけなら分かんないって!別に誰も見てないんだしさー。ほんっとマジメなんだね、みょうじさん」

 どこか馬鹿にされた雰囲気を感じ取ったなまえは、少しむっとした。そして、「…私にだって、できるよ」と呟いた。おそ松の少し乾燥した指先から、煙草を受け取る。灰色の煙が立ち昇るそれは、ごくありふれたもののはずなのに、不思議な異国の品物のようだった。
 口に、そっと先端を含む。

 「う、」

 その時、なまえははたと、彼と自分の生き方が煙草を通して交わったような錯覚に陥った。
 相容れないと思っていた人間の、この先自分が生きていても体験することがないような未知の世界の片鱗に、触れたような気がしたのだ。

 「!う、げっほ、うぇっ…!」

 しかし。吸い込んだ煙は今まで味わったことがないほど苦く、なまえの咥内へと容赦なく広がった。思わず噎せた#name#を見て、けらけらと子供のような笑い声が降ってくる。

 「ちょ、それそんな吸い込むもんじゃないって」
 「…ッ、あ、ありがとう松野くん…。私はもういいや…」
 「はいはい。みょうじさんにはやっぱ無理だったね」

 可笑しそうに、彼はまだ笑っていた。なまえから受け取った煙草を、慣れた仕草で口に咥え直すおそ松の笑顔が、生理的な涙の滲んだ視界の中で幻のようにぼんやりと滲む。目元をごしごしと拭っていると、階下から声がした。

 「おーーい!!おそ松兄さーん!!!」

 見ると、グラウンドの下に彼の兄弟がいた。こっちに向かって両手を振って、おそ松を呼んでいる。

 「あっやべ、トド松じゃん」
 「トド松くん?」
 「そういや、古典のノート写させてもらってたんだった…。あー…返すのすっかり忘れてた」

 ろくでもない理由だなとなまえは胡乱な目つきでおそ松を見上げた。そんな彼女の横で頭を掻いたおそ松は、「仕方ねぇか」と煙草を口から離して放った。そのまま行儀悪くも、ローファーの靴底ですり潰す。さっきまで火を放って燃えていた煙草は、あっという間に黒い消し炭のような吸い殻になってしまった。
 
 「みょうじさん、弟が呼んでるから俺もう行くわ」
 「えっ、あ、うん」

 横からかけられた声に、はっとして頷く。そのまますたすたと昇降口の前までおそ松は歩いて行った。そして、何かを思い出したように振り向き、「みょうじさん」

 「これあげる」

 ぽんと、なまえに向かって何かを放り投げた。

 「!」

 それは見事な放射線を描き、なまえの掌の上へと落ちた。とても軽い感触のそれは、銀文字が躍る彼の煙草だった。思わず顔を上げると、おそ松は八重歯が覗く口元を見せて笑っていた。

 「ナイスキャッチ」

 それだけ言ってしまうと、彼は今度こそ昇降口の階段を降りて行ってしまった。一人その場に取り残されたなまえは、風のように消えてしまった彼の背中を見つめていた。屋上にはもうなまえ以外の人影はなく、来た時のようないつもの静謐さを残していた。カア、カア、と頭上で鴉の鳴き声がする。

 「…私も、戻ろう」

 独り言ちるように呟き、その手に残された煙草を見下ろす。少し中身の減ったそれは、昔ながらのパッケージで、そういえばなまえが幼い頃に祖父が吸っていたような気がした。暫く見つめてから、制服のポケットへと直す。そしてなまえも教室へ向かうために屋上を後にした。
 こういう出来頃があったからといって、なまえの生き方は変わりはしないだろう。結局、今からプリントの作業へと戻るのだ。そして、明日「ごめんねーみょうじさん!でも助かったよ〜ありがとう!」と、同じ委員のあの子の中身のない謝罪を聞くだろう。しかし、ポケットの中にある彼からもらった煙草は、少しだけ暖かな温度で彼女の紺色のスカートに収まっていた。なまえは大人になってからも、たまに今日の日のことを思い出した。結局これ以降はもう話すことの無かったおそ松との会話、夕陽がとても赤かったこと、そして生まれて初めて体験したあの煙草の味のことを。

晩餐様に提出
生き方の標本

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