「あんた、かわいそうになぁ」
まるで稚児に説いて聞かせるような、どこか甘ったるさを帯びた低い男の声が聞こえてきた。天を仰げばどこまでも広がる闇夜の空に、やけに明るい満月がぽっかりと浮かんでいる。古い絵巻物の中に描かれた作り物の月のように美しく、黄金に光り輝いて、時折ごうと拭く強い風に雲が動いているように見える。しかしその月よりも、遠くに見える男の浅葱の双眸は恐ろしく冷たく、さめざめと、闇の中でくっきりと浮かんで見えるようだった。触れれば切れる鋭い刃のような男の視線は私の胸を突きさすようにこちらへ真っすぐ注がれていて、足がすくんで動けなくなってしまう。
「俺から逃げられると思っているのか?」
秋を思わせる、ひんやりと涼しい夜風が吹いて来る。私が立っている石段は男が佇む森と神社のような境内のところから何千と続く長いもので、どこまで続いているのか知りたくてもあたりを包む宵闇の中では判別が難しい。ただ、目を凝らせば夜の静寂を映しとったような湖があるのは分かった。空に浮かぶ月を写し込んで、ゆらゆらと不安定に揺れている。
「そっちへ進んでも何も無いぞ」
「こ、こないで!!」
「あんたが走るのを止めれば俺も止めるさ。なにもあんたを怖がらせたいわけじゃないんだからね。そうさな、そっちは地獄に続いてるんじゃないかい?あんたが今まで殺してきた時間遡行軍の怨霊たちがうじゃうじゃ蔓延っているかもしれんな」
意味の分からないことを言いながら、男は一歩一歩と私の方へ脚を進めてきた。私の方が早く走っているはずなのに、泥濘に足を突っ込んでいるかのごとく身体が重く感じる。追いつかれる、追いつかれる。早く逃げなければ。逃げなければ。
ばしゃばしゃと、気づけば私は湖の中にまで進んでしまっていた。水はひどく生暖かかった。
「あなたは…」
静寂そのものの真夜中の世界に、私は呟いた。誰なの、と暗闇の中の男に問うた。すると男は歩みを一度ぴたりと止めてその目元を細めた。
「 」
男のくちびるが、何かを象った。しかし、なんと言ったのかは聞き取れない。男は、腰に佩いていた刀の柄に手をかけた。すらりと抜かれた刀身は空に浮かぶ月の光の中で目を奪われるほど洗練された器物としての機能的なつめたい美しさを纏っていた。切っ先が振り下ろされる。叫ぶ間もなく、視界は黒く反転した。
ぴぴ、ぴ。
「朝よ、起きなさい!学校に遅れるわよ!」
母の声だった。は、と目を醒ますと視界に映ったのは自室の天井で、そこに広がるのはいつもの朝の光景だった。なんの夢を見ていたのだろう。べったりと、寝巻の下に汗をかいていて気持ちが悪い。なにかを見た気がするのに、思い出せない。靄がかかった頭をさすりながらのっそりとベッドから起き上がる。身を起こす一瞬、ぱたりと何かが床に落ちた。それは、一滴の赤い血であった。
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