一七七四年、夏。
パリの夏の太陽が照る街の路地裏を、私は走っていた。
(早く、早く逃げなきゃ)
「待て!!!!!」
後ろから男の怒号が飛んでくる。理由は私の右手に握られたパンだ。固く、たいして美味しくもなさそうな何の変哲もないパン。だが私には買うことができないパン。
今日は佳くない一日だった。
天気が悪いせいで路地裏の道はぬかるんでいて足が泥だらけになってしまったし、酒屋の女将は旦那がまた娼館に通い始めたとかいう理由で機嫌が悪かった。気持ち悪い六本脚の黒い虫が這う塒では、とうとう四つになるアンジェラが死んでしまっていた。血の巡りがすっかり消え去ってしまった彼女の身体を抱きしめながら、飢餓の苦しみと寒さの中で絶えてしまった悲しみと、もうこれ以上生きなくてよいことへの寿ぎから涙が頬を伝った。それが朝のことだ。
(なんで、追ってくるの…!)
私は仲間たちの中で一番脚が速かった。
だから私は今このようにパンを盗みに走っていたのだ。
三日前に裕福そうなどこかの女から強奪した食料がついて食べるものがなくなって、このままじゃ仲間が死んでしまうから。捕まれば殴られるのだからこっちだってパン一つの為に死にもの狂いで走るのだ。この手に握られたはしたパンひとつだって無かったら私たちは生きてゆけないのだから。
たいていの人間なら、私は撒くことができた。だがしかし、パン屋の主人は右手に持ったブリキの鍋を振り回しながら私を追ってくるではないか。
(パン一つがなんだっていうのよ…!)
燃えるように熱くなる肺と、どくどくと脈打つ鼓動を感じながら必死に裸足で泥水の中を駆けてゆく。
一瞬、どこからか教会の讃美歌が聴こえてきた。それに思わず唾をかけてやりたくなった。
豊かな生活がなければ神を信じる心など育たない。私たちのような孤児は嫌でも思い知るのだ。自分の生まれた場所は、神の恵みや御加護などというものとは無縁なのだと。ここは、神が支配する世界ではなく人間の王が統治する無頼の都なのだと。
結局、パンだってひとつしか盗れなかった。今日の収穫がこれでは、下の子たちに回すだけでも精一杯だ。あと何日なにも食べられない日が続くのだろうか。胃の中がきゅうと動いて、吐瀉の前のような気持ち悪さが胸にこみ上げるも、それを無視して走る走る。
ーそして、三番目の角へと滑り込んだ。
「ッ、!!!!」
そこには、道一杯の人だかりが出来ていた。
(え、…)
見渡す限りの、人、人、人。
誰も彼もが熱気で浮かされたように歓声を上げている。何なんだ一体。
困惑して一瞬立ち止まると、後ろからまたあの怒号が聴こえた。
「待ちやがれこのドブネズミが!!!!」
ちッと舌打ちをする。今日は本当に佳くない一日だ。なぜ今日に限って諦めずに私を追ってくるのか。
成すすべなく、私はその人込みの中へとなんとか潜り込んだ。押しては返す人波の中、なんとか中へ進みながらあの店主の目を欺くべく身体を縮こませながら。
人々はほとんど私のことなど気に留めておらず、なにかを熱心に見ているようだった。ただ、その中の一人がぶつかってしまった私を鬱陶しげに見た。と、次の瞬間、
「なッ、!!?、」
「邪魔だよ!」
どん、と強く肩を押されたのだ。
咄嗟のことに、受け身が取れずに私は後ろ向きに倒れこんだ。どさりと身体が地面に打ち付けられ、その固さからそこが先ほどまで逃げてきた路地のぬかるんだ土ではなく、舗装された道であることに気づく。
何がなんだかか分からず、急いで身体を起こすと頭上で馬の啼き声がした。
「お前、何をしている!」
途端に、周囲の喧騒が止んだ。
驚いて振り返った私の目に飛び込んできたのは、豪華な馬車だった。
四頭の立派な栗毛の馬に、金の宝飾が施された真っ白な馬車。その白さときたら、私の泥まみれの薄汚れた身体とは見事に対照的な、太陽の光を受けて浩々と輝くどこまでも強い"白"だった。
まさか、と思うのと同時に背筋が凍った。
私に近寄ってきた男ー御者の一人は、汚物を見るような目で私を見下ろした。そして、その手を腰に携えた剣の柄へと滑らせた。
「畏れ多くも、この馬車の中には我がフランス国民の王、そしてその王妃様が乗っておられる!!!お二方の凱旋を邪魔するとはどのような算段なのだ!!!」
ビリ、空気を震わせるような張った声だった。
ちゃき、と小さな音を立てて剣が抜かれる。−ああ、私はここで、死ぬのか?
(なんでこんなことに…)
いつの間にか、周りは静寂に満ちていて、あのパン屋の店主のことなどもう私の頭にはなかった。太陽の光に翳されて白く眩く輝いた剣の切っ先が空へと掲げられ、揺れる。彼らにとっては孤児の命など命のうちに入らないのだろう。ましてや、この国の元首たる王の凱旋を邪魔したとあっては。
ー今日は、本当に佳くない日だ。
ぎゅうと目を瞑ったときだった。
「お待ちになって!」
ー高く、清らかな水のような、可憐な鈴のような声だった。
ざわざわと辺りを埋め尽くしている観衆たちに困惑のような動揺の色が広がった。頭上に振り下ろされ、私の頸を斬るはずだった刀の一閃も落ちてこない。
どういうことだと、そっと目を開けて顔を上げた。
−視界に入ったのは、年若い可憐な女性だった。
私のような身分の人間が、一生かかっても会う機会などないような。
この国の王妃、マリー・アントワネットだった。
「……」
言葉が上手く出ない。
彼女のことは私でさえも知っていた。光の当たらぬ暗い路地裏を塒にする私たちの耳にも、この若き女王のことは入ってくるのだ。夏の太陽の日差しが空から降ってきて、その豊かな白金の髪がきらきらと絹の糸のように輝いた。ひとつふたつと彼女がこちらへ歩を進めるたび、重たそうな髪が動きに合わせて右へ左へとゆったりと揺れる…。
「お、王妃様!!!馬車へお戻りください、このような孤児の相手をなさるなど…!!!」
「衛兵長、有難う。お仕事を頑張ってくれて。この国の平和が守られるのはあなたがたの仕事あってのことですわ」
慌てる衛兵に、王妃はにこりと微笑みかけた。まだ少女らしさが残るまろい肌の輪郭から零れた笑みは花のような影を作った。
その笑みになにも言えなくなってしまった衛兵の前に出てきた王妃は、私の前まで来るとなんとその場にしゃがみこんだのだ。
「ごめんなさいね、怪我はない?」
「………」
何が起こっているのだろう。
なぜ、私はこの人に話かけているんだろう?
呆然としている私の腕に、「あら」と女王は視線を落とした。と、思えば私の腕を取って、
「まあ。怪我をしているわ」
痛ましげに目元を翳らせる。
その言葉で、私も自分の腕に視線を落とした。確かに怪我をしている。さっき、突き飛ばされた時だろうか?それとも店主から逃げていた時に路地裏の壁で擦ったのか?
自分でも覚えがない傷口は、たいして酷くないかすり傷であったものの血が滲んでずきずきと疼痛がした。
そして、王妃はなにを思ったのかすっくと立ちあがり、周囲の観衆たちに向かって言ったのだ。
「誰か、この子の怪我の手当をしてくださらない?」
王妃の言葉に、観衆たちにどよめきが広がった。
だが、女王はそれを気にすることもなく「誰か!」と、制止しようとする衛兵のことも気にせずに声をかけ続ける。
(…)
「ごめんなさいね、本当に。もしよければー、!!」
「、貴様、王妃様に何をする!!!!」
振り返った王妃の身体を、私は思い切り突き飛ばした。
「きゃあ!」と後ろに倒れこんだ王妃を、咄嗟に抱き留めた衛兵が今度こそは許さないとばかりに大声を上げる。が、私はそのまま観衆の中に突っ込み、路地裏をすり抜、来た道を全力で走った。
じゃぶじゃぶと生ぬるい泥水の中を走りながら、さっき自分の身に起きたことを思い返す。
(なんで、王妃があんなことを…)
殆ど銀色にちかい髪。まろい頬。鈴のような声。私のような者でさえも分かるような豪奢なドレス。
「大丈夫?」
何が大丈夫、なんだろう。上流階級で利権を貪る連中は皆大嫌いだ。王妃なんて、その最たる者じゃないか。
あの喧騒。
私が住む路地裏の世界とはまるで別世界のようにきらきらした明るい夏空の世界。一般の市民とさえ、私たちは交わらないところで生きているのに。
(本当に、今日は佳くない日だわ…)
そうしているうちに私はいつの間にか塒に着いていて、奥から出てきた小さな子たちに「おねえちゃん、おかえりなさい!」と抱き着かれてはっとした。手元に握ったままのパンを渡しながら、「今日は少なくてごめんね」と謝る。
そして、もう一度自分が帰ってきた道を振り返った。
薄暗い煉瓦の壁の向こうから表通りの光が漏れてきていて、だが観衆たちの声は聞こえてこなかった。
暫くそれを見つめ、私はもう振り返らなかった。
▽▽▽
あれから、幾年月が流れた。
私は少女から女になっていて、あの酒屋で下働きをしながら僅かながらも賃金を貰い、生活ができるようになっていた。
世の中は今、革命の風に包まれていた。
他国との対外戦に負けた賠償金の支払いや、貧富の差、そしてとうとう明日のパンにさえ困るようになってしまった労働者階級の市民たちによって、打倒王政が掲げらているのだ。
あれほどまでに栄えた王政。そういうことを考えるとき、私が思い出すのはいつも決まってあの時のことだった。
何年も前。私がまだ幼い少女で貧民街で暮らしていた頃、パンの盗みに出かけた帰りに遭遇したこの国の王妃。マリー・アントワネットのことだった。
しかし、酒屋にやって来た客が言うには、その王妃も今は城に幽閉されているというではないか。
「オーストリアに逃げようったてそうはいかねえんだよ。俺たちから絞り取ったものの償いもせずに自分たちだけ助かろうなんて魂胆が許されるわけー、」
「あんた、そんな飲みすぎたらまた女房に叱られるよ」
店に備え付けられたテーブルで購入した酒を飲みながら、赤ら顔でほとんど眠り眼でむにゃむにゃと言う常連客。女将はもう、と呆れながらも毛布を客にかけてやりながら、「まあこれでさ、」と私に向き直った。
「あたしたちの生活もちょっとは良くなるよ。これからこの国は、あたしたち国民のための国に生まれ変わるんだからさ」
「…」
「明日も早いからねー」と片付けに戻っていった女将の背中を見送りながら、私はその言葉になにも返すことが出来なかった。
周りの人間は皆、今のこの動乱の時代を歓迎している。自分たちを苦しめた王族にもはやかつての信頼は失せ、あれほどまでに栄えた王政の威厳は無くなってどこかへ飛んで行って、この国を自分たち人民のための国にしようという"未来"への希望で国中が熱気に浮かされていた。
だが、私は周りの皆のように嬉しく思うことがなかった。
自分だってかつてはあんなに苦しい生活をしていたのに、貴族や王族を恨んでいたのに。
あの遠い夏で、私の怪我した腕に優しく触れたひとりの王妃の指先の温度を、何故か忘れることができなかった。
しかし、とうとうその日はやって来た。
「ルイ十六世の妻だ!!!王妃、マリー・アントワネットだ!!!」
誰かが大声でそう叫んでいる。
人で溢れかえった広い道を、人々の声が埋め尽くしている。皆くちぐちに罵りの言葉を口にしていて、だがどこかその光景は、あの夏の凱旋を寿いでいた時にも似ていた。
(…)
見えるわけがない。出会うはずもない。覚えているわけがない。
それなのに、結局私は女将から休みを貰い、店を抜けてきた。女将は「いいさ。あんたも貴族連中のことが嫌いだったろ?これでせいせいするねえ。いやーあたしも見に行けたらよかったわぁ」と気分よく言ってくれたが、私の心境は複雑なものだった。
人々の中から、処刑場へと続く道を息をつめて見つめる。どんどん、喧騒と足音が、近づいて来る…。
「、…」
一瞬、自分が見た相手が王妃だと分からなかった。
記憶の中の彼女は豊かな長い銀の髪と白い肌と、美しいドレスを着ていた。それがよく似合っていたと思った気がする。
が、今すぐそこまでやって来ている彼女は、白い肌というよりも土気色がかった、まったく血の気配がしない青ざめた肌をしていた。髪は、もともとが銀がかった色だったからすぐには分からなかった。白だ。白くなってしまっている。色が抜けてしまっているのだ。それに、ああ、なんて短いのだろう。ドレスの裾ほどあった髪は、頭蓋骨の線がくっきり分かるほど短く刈られてしまっている。薔薇色に色づいていた柔らかそうな頬はこけて、小さな唇は寒々とあ紫に近い色になっている…。
死が、すぐそこまでやって来ている人間の顔だ。
貧民街で何度も見た顔。あの年に死んだアンジェラも最期はこんな顔だった。
私は、何も言えずにその場に立ち尽くしていた。
周りを包む熱と喧騒も、ほとんど耳に入っていなかった。記憶の中の彼女とはかけ離れた姿に言葉を失っていた。
ーだが、手首に鎖をつけられて道を進んでゆく彼女は、惨めな気配が微塵もなかった。
「…」
王妃は、マリー・アントワネットはその首を高く上げて、真っすぐに自分が進む道の先を見ていた。人々はずっと罵声を彼女に浴びせているが、彼女の背筋はぴんと伸びたままで、簡素な白い服は私の目の中ではまるで薄い絹でできた美しい服のように見えた。
王妃の、横顔。
翠がかった青い瞳に、まるで永遠に輝きを失わない魔法の宝石のような光が見えた。そして、はた、と。そのふたつの瞳が、こちらを、−私の、方へとー…、
「ま、待って!!!!!」
気づけば、私はそんなことを口走っていた。
「、お前何をする!!」と、驚く周囲の人々をどけて、最前列へと行く。足を止めた連行人の大男がなにか言っているが、そんなことに気を留めることなく、前のめりになりながら彼女の傍へと寄った。
「王妃様!!!」
すると、びっくりしたように王妃は目をぱちくりと瞬かせた。そして、「まあ!」と嬉しそうな声を上げた。その声は、かつて聴いた彼女の声と全く変わっていなかった。
「あなた、あの時の方ね!私がまだこの国に来て少ししか経っていなかった頃の…」
お、覚えている。
衝動にまかせて前に出てきてしまったが、彼女は私のことを覚えている?そんなまさか、何年も前のことなのに。
そんな考えを肯定するように、王妃様は深く頷いた。
「覚えていてよ。あの時の怪我は、もう治ったみたいね。よかったわ!」
「お、王妃様…」
上手く舌が回らない。声が震える。
「わ、私、あなたがそんなことしてるって思わなくて…。皆、酒屋の女将さんたちもあなたたち王族がみんな悪いんだって言うけど、でも…」
「私もそう思ってました。私たちの生活が苦しいのは貴族たちが私腹を肥やして、私たちの国のものを独り占めしてるからだって…でも、あの時、」
「あなたは私を助けようとしてくれて、それが、だから、…思えなくて、あなたがそんなことをしたって、信じられなく、」
そこでハッとして、言葉を忘れた。
王妃様は、私の顔をじっと見つめてひどく優しい声で言った。
「いいのよ」
今から死刑に遭う人間のするような笑顔ではなかった。
「私は、この国の王妃として生きることができた。でも、結局…上手くはできなかった。あなたたちのような、生活に苦しむ者たちを救済することも、できなかった」
「だから、いいのよ」
「私は、この国の王妃としてこの国で死ねるの。王妃のまま、生涯を閉じてゆけるの。そのことに何の後悔もないわ」
「…王妃様」
陽光のような穏やか笑みを浮かべたまま、王妃様はそう言った。彼女の首筋からは、春の花のような瑞々しい匂いがあまく香った。
「有難う、名も知らないあなた。久しぶりに、そう呼ばれたわ」
「その呼び方は好きよ。私を、この国の王の妻なのだと思い出させてくれるから。名も知らないあなた、この先、あなたに神の御加護がありますように」
「御機嫌よう」
それが、最後の言葉だった。
「行くぞ」と、王妃様は前にいた連行人に鎖を引っ張られて、道を行ってしまった。遠ざかる背中。だんだん小さくなっていき、見えなくなっていく。
ー私は、その場から逃げ出した。
遠く遠く、どこまでも走った。
あの人が処刑に遭うのを見たくなくて、走った。こんなに死に物狂いで街を疾走したのは、孤児の時以来だった。走っていく途中、パリの街に今まさに沈まんとする太陽が見えた。赤い夕焼けに包まれて、まるでこの世の終わりに街を呑み込む火の海にいるような錯覚に陥った。街の喧騒がなくなって、なにも見えなくなって、そしてやっと私は足を止めることができた。後ろを振り返ることはなかった。落日が見える。新しい時代は、すぐそこまでやって来ていた。
微笑みと眩暈
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