留まらない銀河の果てまで


 「大きくなったら、はんたくんとヒーローになるのがわたしの夢なんだ」


 そう言うと、母は私の頭を撫でて「なまえは本当に範太くんと仲良しなのねぇ」と感心するように言った。私と隣の家の範太くんは幼稚園が一緒で、また母親同士も仲が良かったためによく一緒に遊んだ。要らない布で作ったマント、砂浜で造ったビル。破壊しようとするヴィランをやっつけて、私は彼と一緒にみんなの住む街を守るのだ。それが私の夢だった。
 手の中でかき混ぜるボールは、これからチョコチップを加えられてクッキーになる。焼きあがったら袋に包んで、公園に持っていて範太くんや友達と一緒に食べる。花形に生地をくり抜きながら、窓の外を見ると雪が降っていた。触ったら簡単に溶けて消えてしまいそうな儚い冷たさを纏った雪が、ちらちらと寒空を落ちてくる。こんな寒い日に外で遊びたがる私は、正真正銘の子供だったと思う。


 私たちの小さな夢を先に「やめよう」と言い出したのは、範太くんのことだった。
 中学に上がって暫くしたころ、彼は廊下で私に言い渡した。


 「なあ、なまえ。そろそろ止めねぇ?こういうの」


 私は範太くんの言う意味がよく分からなくて、「こういうのって?」と聞き返した。そうすると、彼はバツが悪そうに頬を掻いた。これから大きくなる予定の身長に合わせて買った中学の黒い学ランは、まだ彼の身体にぴったりではなかった。


 「一緒に帰ったりすることだよ。お前だって、新しい友達できたって言ってたじゃん。お互いもう中学生なんだし、そろそろ別々に行動してもいいんじゃないかって思うんだ」
 「新しい友達って、確かにそうだけど。でも、私の一番の友だちは範太くんだよ」


 私はその時、悪気もなくただ純粋にそう思ったからそう言った。だが、彼は困ったような顔になってしまった。この時はその表情の意味だって分からなかったが、今思えば彼は昔から続くこの幼馴染の関係が嫌になったのだと思う。そういう年ごろだ。範太くんは、中学生になってから新しくできた男友達三人くらいと一緒にいるようになった。それは私も知っていた。休み時間などで、廊下ですれ違うと彼は楽しそうにその子たちと喋っているのだった。私と一緒にいるときよりも楽しそうに見えることを本当は心の中では分かっていた。だが、それを認めたくはなかった。


 「範太くんだって、そうでしょう?」


 だけど、彼の返事は。


 「…ごめん」


 十三歳の春だった。私は生まれて初めて、この世に永遠じゃないものがあることを知ったのだった。

 それから。
 私も彼に倣い、自分の友だちとの時間を増やすようになった。そうしてみると、私も最初はあんなに範太くんにこだわっていたのに、いつしか自分の友だちと一緒にいることの方が楽しいと感じるようになっていた。中学で一度だけ、彼と同じクラスになったことがある。三年の時だ。少し離れた後ろの席にいる範太くんに、私はもう話しかけようとしなかったし、繁多くんもまた話しかけてはこなかった。一度、彼の友だちが私を見遣って、「みょうじって瀬呂と幼馴染なんだって?」と範太くんに訊いた。そうすると、彼は肩を組んできたその子に笑いかけながら


 「昔の話だって。な?みょうじ」


 と言った。みょうじ。この頃になると、彼は私を苗字で呼ぶようになっていた。その言葉に自分が何と返したのかは覚えていないのだが、私ももう彼に未練を感じなくなっていたのだと思う。結局、彼とはろくに話さないまま、その年は過ぎて行った。時間が流れの止まらない川のようにどんどん過ぎていって、範太くんの肩は広くなって、背が伸びた。あの丈が余っていた学ランだって、もうすっかり彼の身体に馴染んだ。時は過ぎゆき、私たちは別々の道へと進んでいったのだ。

 結局、私は瀬呂くんとは違う高校へ進学した。

 他県の女子高へと行くことになり、彼は日本屈指のヒーロー養成校、雄英に進学が決まったらしい。母からそれを聞いた時、彼はほんとうに夢をかなえようとしているんだなと思った。小さい頃によくヒーローごっこをしたこと。おもちゃのマントが記憶の片隅で翻る。


 「あなた、昔は"大きくなったらはんたくんとヒーローになるの"って言ってたわねぇ」


 懐かしそうに母がそう言うのを、車の中でぼんやりと聞きながら窓の外を見遣った。昔はあれほど通い詰めた彼の家。もう何年訪れていないんだろう。おばさんには最近会ってないけど、元気にしているのだろうか。
 私はこれから長く住み慣れたこの街を離れる。高校に上がれば、次に家に戻るのは夏休みだ。進んでいく車に揺られていると、公園が見えた。見覚えのある公園。昔、範太くんと遊んでいた公園だ。よく見てみると、私たちが遊んでいた頃にはあった遊具が別のものになっていた。


 「…元気でいてくれたらいいなぁ」


 もうろくに話すことも無くなってしまったかつての幼馴染みに、そっと心の中で餞別の言葉を送る。懐かしい風景はどんどん遠ざかって、やがて道路の向こうに見えなくなった。

 そして、長い年月が過ぎた。
 私は今日、結婚する。


 「綺麗だよーなまえ!」


 式に来てくれた友達の言葉に「ありがとう」と返しながら皆で写真を撮る。きらきらと果物が宝石のように輝く真っ白なケーキ、豪華なごちそう。真っ白なテーブルクロス。集まった親族や婚約者の友人たちなどが思い思いに談笑する喧騒の中、ふいに呼び止められた。


 「みょうじ!」


 それは懐かしい声だった。

 振り向くと、スローモーションの映画のように、こちらに向かって小走りでやって来る彼の動きだけが人込みの中で止まって見えた。
 「間に合ったー!」と、肩で息をしながら私を見上げたその人は、範太くんだった。


 「えっ、せ、瀬呂くん?どうして、今日…、どうして」
 「いやー、実はさ、みょうじのお母さんからメッセージ貰ってたんだよ。今日、お前の結婚式があるって」


 唖然とする私に「まあ、今更なんだよって感じかもしれないけどさ」と笑う。数年ぶりに再会した範太くんは、最後に見た学生時代の時よりもずっと背が伸びていた。見上げなければ届かない位置にある顔。髪が少し短くなっていて、シンプルなスーツがよく似合っていた。


 「う、ううん…。そんなことないよ、ありがとう…」
 「うん、俺も久しぶりに会えてよかったよ。中学卒業してから、女子高に行ったんだよな。もう五年以上立ったのかぁ。早いよなー時間の流れって」
 「瀬呂くんは、雄英に行ったんだよね。この前、テレビに出てたでしょ?」
 「おー、そうそう!これでも仕事けっこう頑張ってるんだぜ」


  範太くんは、言葉を切ってから私をじっと見た。何だろう、と思うと少し目元を下げるようにして笑って「結婚おめでとう」と言った。


 「うん、ありがとう。今日、お仕事は?大丈夫だったの?」
 「抜けてきた!今逃したら、もうお前にちゃんと会えるのも最後かなって思ったし。仕事の方も都合つけれたからさ」
 「そうなんだ…ありがとう、本当に」
 「うん」


 頷いた範太くんは、人だかりの方を見た。「あれが、みょうじの旦那さんか」と笑った。視線の先にいるのは、私の婚約者だ。集まった友人たちと写真を撮っている。


 「そう。同じ会社の人なの。私、結婚したら仕事やめて家庭に入ることになったんだ。これからは彼のことを支えることにしたの」
 「そっか。みょうじなら、きっと良い嫁さんになるだろうな。懐かしいよ、昔はよくヒーローごっこして遊んだっけ…」


 と、その時。


 「わ、」


 開け放たれたバルコニーの窓から、強い風が吹いてきた。突然の強い風に、半透明のベールが揺れる。それはアップにした髪に纏わりついてしまって、慌てて外そうと手をかける。しかし絡まっているのかうまくできないでいると、範太くんが私に向かって手を伸ばしてきた。
 

 「あ、動くなって。せっかく髪整えてんのに、ぐしゃぐしゃになっちまうぞー…あ、」


 と。彼は寸でのところで手を止めた。
 バツが悪そうに笑って、「あー、悪ィ」と頭を小さく掻いた。


 「もうこういうの駄目だよな。ごめん、気が回らなくて」


 春の風が、窓の向こうから吹いて来る。巡る季節の中で、私たちふたりは大人になった。昔はなにも考えずに手を繋いだりしていたのに、もうそんなことは出来ない年になってしまった。範太くんは肩も背もすっかり大人の男性になっていて、私は今日結婚するのだ。
 向こうから、友人が私を呼ぶ声がした。そっちに気づくと、範太くんがそっと笑って身を引いた。


 「ごめん、俺もう行くわ。今日は何も出来なかったけど、最後に会えて嬉しかったよ」
 「あ、」


 ひらりと身を翻して去って行きそうになる彼に、思わず私は手を伸ばしていた。掴んだ彼の袖口を、離さないようにぎゅうと握りしめる。


 「え、」
 「あ、あのね範太くん!私たち、離れてても友だち、だよね…?」


 中学に上がってから、次第にお互いに離れていってしまった。私たちは、もう二度と小さい頃のように遊んだり夢をみたりすることはないだろう。だが、このまま彼を離せば、私と範太くんは一生会えない気がする。これが私と彼の最後の別れになるならば、心残りを残したくない。
 驚く範太くんに、私はしどろもどろになりながら続けた。


 「私たち、中学に上がってから全然話さないようになったでしょ?でも私、やっぱり範太くんのことは一番の友だちだと思ってるよ。ほかにも仲のいい子は出来たけど、範太くんは特別な友だち、だから……」


 言いながら、自信がなくなってきた。私はそう思っているが、彼はもう私のことなんて気にしていなかったらどうしよう。こんなことを言ったら、重くて気持ち悪い奴だと思われるかもしれない。
 そんな心配が胸を過るも、範太くんは私に向き直った。


 「…俺も、お前のことは特別な友だちだと思ってるよ」
 
 「−え、」
 「中学上がってからさ、女の子と一緒にいるの同級生の奴らに見られたくないとか、そういうこと気になるようになって、だんだんなまえと距離置きたいって思うようになった。それは、本当。だけど、ずっと、お前がどうしてるのかなって、気がかりだったんだ。…勝手だよな、俺からお前のこと突き放したのにさ」


 そう言って、眦を下げて範太くんは自嘲するように笑った。ううん、と首を振る。


 「そんなことないよ。私も、全然範太くんの気持ち考えられてなかったし…。私の方こそ、ごめんなさい」
 「…うん。あのな、なまえ。あの時、ごめん」
 「え?」
 「クラスの奴に、お前と友だちだったの、昔の話だって言って、ごめん」


  遠くで、「なまえー?」と、私を探す友人の声が聞こえる。


 「なまえさえよければ、これからも友だちでいてほしい」


 なまえ。範太くん。気づかないうちに、私たちはお互いを昔のように名前で呼んでいた。懐かしい感覚だった。はんたくん、と口で小さく呼んでみると「うん」と彼も返事を返してくれた。
 
 胸の奥が温かくなって、自分の顔が自然と笑顔になるのが分かった。


 「あ、なまえ呼ばれてるぞ」
 「、百合ちゃんだ。私行かなきゃ」
 「俺もそろそろ仕事に戻るわ。じゃあな、なまえ!」


 そして私たちは手を振った。またな、と笑った彼は、式に集まってくれた人々の中に紛れてすぐに見えなくなった。きらきらと輝く日の光が、窓の向こうから春風と一緒に会場の中へと入ってくる。やって来た百合ちゃんに、「なまえ!さっき誰と話してたの?」と不思議そうに訊かれる。彼女と一緒に歩き出しながら、


 「友だちだよ。私の特別な」


 そう言って、もう一度微笑んだ。

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