長い病院生活は、今年で8年目に差し掛かろうとしている。今年こそ、学校にいけるよと主治医の先生は言ってくれていたけれど、自分ではもはやそんなに外に行きたいとすら思わなくなっていた。
窓から見える一面のひまわり畑。田舎の病院らしく望む景色はひたすら野原、田んぼ、それから目の覚めるような青い空。少し芽が出ているくらいだったひまわりの花も、もう窓から手を伸ばせば触れるくらい大きくなっていた。
私はこの病院から、ほとんど外に出たことがなかった。たまに帰国する両親に連れられて一日だけの外出許可を取り、町へ行くこともあったけれど、最近はそういう機会も減った。最近、思う。私はきっとこの病室で命を引き取るのだろうな、と。春の次には夏がくるのを当たり前にみんなが知っているように、自分の体がいつ朽ちるかがこの頃なんとなくわかるようになっていた。
けれど、悲しいとは思わなかった。悲しい、と感じたことは今まであまりないかもしれない。膝に乗せたケッセルの朝顔とかいう、本棚の古びた文庫のページを捲る。物語は中盤に差し掛かろうとしていた。
「なまえちゃん?入ってもいいかしら」
ドアをたたく音がして、小さく開かれた。ぎぃ、と軋んだ音を立てて空いた飴色の木製のドアからひょいと顔を出したのは、看護婦の野田さんだ。三十半ばごろの、優しい笑顔が印象的なこの診療所の数少ない看護師さんのひとり。そして、私が入院したてのころからずっとそばで見守っていてくれた、ほとんど親代わりの人でもある。
ふと、私は彼女の隣にいる男の子に気づいた。
「野田さん、その子は…」
「昨日から入院してきた鶴丸国永くんよ。あなたと同い年。今日からなまえちゃんと同室になることになったわ」
つるまるくになが、と呼ばれたその子は野田さんの隣から私の前までやってきた。−なんて、綺麗な男の子だろう。
「鶴丸国永だ。今日からよろしく頼む」
そう言って、彼は手を差し出してきた。はっとして、おずおずと私もその手を握り返す。温かい体温が手を通して伝わってきて、驚く。そういえば、他人の肌にじかに触れたのはいつぶりだろう。握手をする鶴丸くんは、にっこりとまた、私に微笑んだ。
▽▽▽
「なあ、君は、この病室から出たいって思わないかい」
暇つぶしに紙飛行機を下りながら、鶴丸くんはそう言った。
隣でミステリー小説を読んでいた私は、顔を上げて窓の外を見た。彼が入院してきてから、二週間あまりが経過した。同い年の子はお互いしかいなかった私たちはすぐに打ち解けて、下の名前で呼び合うようになっていた。
「思わないっていうか、無理だよ。だって怒られちゃうし、行くといってもどこに行けばいいか、分からないし…」
困惑した私に、彼は「ふうん」と言ってそれからは何も言わなくなった。その日の会話はそれで終わった。
▽▽▽
私の病気は悪化した。
もう治ることはないというそれは私の身体を蝕んで、日に日に自分が衰弱していっているのが分かった。病死室は移され、国永とも別々の部屋になった。そしてとうとう明日、この古い田舎の診療所から市内の大学病院へと移ることになったのだった。
診療所で過ごす最後の日。太陽がひまわり畑に沈んでいくのを見ながら、ここからの風景を望むのももう最後なのかと独り言ちる。横たわったベッドの淵から見上げる太陽が、まさしく燃える生命を象徴しているような夏にふさわしい輝きを放っている。何時間でも眺めていたくなるそれを薄暗い部屋から静かに見ていると、病室のドアが開いた。ぎぃ、という古いドアの音と共に、なかに入ってきたのは野田さんではなく国永だった。
「なまえ」
ぱたんとドアを静かに閉め、ベッドに近寄ってくる国永に困惑する。
「ど、どうしたの?この部屋には入っちゃだめだって言われてるんじゃ…。誰かに見つからなかったの?」
「君をここから連れ出しに来たのさ。なあ、なまえ。俺と一緒にここから出ないか」
国永はそう言って、幾分か痩せた私の手を取った。
「出ていくって、そんな…何言ってるの?それに、そんなこと出来ないよ。だって私、明日にはもう別の病院に行くし、お母さんたちだって、」
「君のお母さんもお父さんも、俺がここに来てから一度も君に会いにきてたことが無いじゃないか。なまえ、君だってもう気づいてるんだろう?君の両親はもうここへは来ない。君の病気も治らない。君の親は、君の病気が治らなくたってどうでもいいんだ」
言い放たれた言葉に、ずきんと胸に刺されたような痛みが走った。淡々とした国永の言葉ひとつひとつが胸にぐさぐさとナイフのように刺さる。目のふちから零れかけた涙を見られたくなくて俯くが、なにも言い返すことができない。そうじゃないと言えない。もう何か月も会っていない両親は、国永の言う通り、私のことなんてもうどうでも良くなったのだと私も心のどこかで思っていたのかもしれなかった。
沈黙が病室に落ちる。ベッドに屈んだ私より少し背の高い国永は、その指先で私の涙を拭った。細い、女の子のような日に焼けていない指先だった。
「なまえ、俺と一緒に行こう」
「……行くって。どこに行くっていうの?」
「俺たちがずっと一緒にいられる場所だ。親も先生たちもついて来られない、世界の果てだ」
国永の言っている意味は、私は正直理解することはできなかった。世界の果てとやらが具体的にどこなのかも分からないし、子供ふたりが許可なく勝手に病院を抜けることなんて出来ないだろうとか、言いたいことはいろいろあった。だが、差し出したれた国永の薄い掌が、ここ何か月で触れたもののなかで最も暖かだったから、私はなにも訊かなかった。
引かれるままに、ベッドを抜け出す。開け放たれた窓に手をつくと、先に庭に出た国永がおろしてくれた。まるで昔読んだ絵本の中の王子様みたいだと思う。
目線の先に広がる向日葵畑はどこまでもどこまでも広がっていて、沈みゆく太陽の光を受けて金色に輝いていた。背の高い向日葵は私たちの身長より高いものもあって、この中に一度迷い込んでしまえばもう二度と見つけることはできなさそうだった。ぎゅうと握ったお互いの手にじんわりした汗と熱が伝わってきて、私はそれからずっと国永の手を離さなかった。どこまでも続く向日葵に埋め尽くされた世界は、たしかに私たちをここではないどこかへ連れて行ってくれる気がした。
窓から見える一面のひまわり畑。田舎の病院らしく望む景色はひたすら野原、田んぼ、それから目の覚めるような青い空。少し芽が出ているくらいだったひまわりの花も、もう窓から手を伸ばせば触れるくらい大きくなっていた。
私はこの病院から、ほとんど外に出たことがなかった。たまに帰国する両親に連れられて一日だけの外出許可を取り、町へ行くこともあったけれど、最近はそういう機会も減った。最近、思う。私はきっとこの病室で命を引き取るのだろうな、と。春の次には夏がくるのを当たり前にみんなが知っているように、自分の体がいつ朽ちるかがこの頃なんとなくわかるようになっていた。
けれど、悲しいとは思わなかった。悲しい、と感じたことは今まであまりないかもしれない。膝に乗せたケッセルの朝顔とかいう、本棚の古びた文庫のページを捲る。物語は中盤に差し掛かろうとしていた。
「なまえちゃん?入ってもいいかしら」
ドアをたたく音がして、小さく開かれた。ぎぃ、と軋んだ音を立てて空いた飴色の木製のドアからひょいと顔を出したのは、看護婦の野田さんだ。三十半ばごろの、優しい笑顔が印象的なこの診療所の数少ない看護師さんのひとり。そして、私が入院したてのころからずっとそばで見守っていてくれた、ほとんど親代わりの人でもある。
ふと、私は彼女の隣にいる男の子に気づいた。
「野田さん、その子は…」
「昨日から入院してきた鶴丸国永くんよ。あなたと同い年。今日からなまえちゃんと同室になることになったわ」
つるまるくになが、と呼ばれたその子は野田さんの隣から私の前までやってきた。−なんて、綺麗な男の子だろう。
「鶴丸国永だ。今日からよろしく頼む」
そう言って、彼は手を差し出してきた。はっとして、おずおずと私もその手を握り返す。温かい体温が手を通して伝わってきて、驚く。そういえば、他人の肌にじかに触れたのはいつぶりだろう。握手をする鶴丸くんは、にっこりとまた、私に微笑んだ。
▽▽▽
「なあ、君は、この病室から出たいって思わないかい」
暇つぶしに紙飛行機を下りながら、鶴丸くんはそう言った。
隣でミステリー小説を読んでいた私は、顔を上げて窓の外を見た。彼が入院してきてから、二週間あまりが経過した。同い年の子はお互いしかいなかった私たちはすぐに打ち解けて、下の名前で呼び合うようになっていた。
「思わないっていうか、無理だよ。だって怒られちゃうし、行くといってもどこに行けばいいか、分からないし…」
困惑した私に、彼は「ふうん」と言ってそれからは何も言わなくなった。その日の会話はそれで終わった。
▽▽▽
私の病気は悪化した。
もう治ることはないというそれは私の身体を蝕んで、日に日に自分が衰弱していっているのが分かった。病死室は移され、国永とも別々の部屋になった。そしてとうとう明日、この古い田舎の診療所から市内の大学病院へと移ることになったのだった。
診療所で過ごす最後の日。太陽がひまわり畑に沈んでいくのを見ながら、ここからの風景を望むのももう最後なのかと独り言ちる。横たわったベッドの淵から見上げる太陽が、まさしく燃える生命を象徴しているような夏にふさわしい輝きを放っている。何時間でも眺めていたくなるそれを薄暗い部屋から静かに見ていると、病室のドアが開いた。ぎぃ、という古いドアの音と共に、なかに入ってきたのは野田さんではなく国永だった。
「なまえ」
ぱたんとドアを静かに閉め、ベッドに近寄ってくる国永に困惑する。
「ど、どうしたの?この部屋には入っちゃだめだって言われてるんじゃ…。誰かに見つからなかったの?」
「君をここから連れ出しに来たのさ。なあ、なまえ。俺と一緒にここから出ないか」
国永はそう言って、幾分か痩せた私の手を取った。
「出ていくって、そんな…何言ってるの?それに、そんなこと出来ないよ。だって私、明日にはもう別の病院に行くし、お母さんたちだって、」
「君のお母さんもお父さんも、俺がここに来てから一度も君に会いにきてたことが無いじゃないか。なまえ、君だってもう気づいてるんだろう?君の両親はもうここへは来ない。君の病気も治らない。君の親は、君の病気が治らなくたってどうでもいいんだ」
言い放たれた言葉に、ずきんと胸に刺されたような痛みが走った。淡々とした国永の言葉ひとつひとつが胸にぐさぐさとナイフのように刺さる。目のふちから零れかけた涙を見られたくなくて俯くが、なにも言い返すことができない。そうじゃないと言えない。もう何か月も会っていない両親は、国永の言う通り、私のことなんてもうどうでも良くなったのだと私も心のどこかで思っていたのかもしれなかった。
沈黙が病室に落ちる。ベッドに屈んだ私より少し背の高い国永は、その指先で私の涙を拭った。細い、女の子のような日に焼けていない指先だった。
「なまえ、俺と一緒に行こう」
「……行くって。どこに行くっていうの?」
「俺たちがずっと一緒にいられる場所だ。親も先生たちもついて来られない、世界の果てだ」
国永の言っている意味は、私は正直理解することはできなかった。世界の果てとやらが具体的にどこなのかも分からないし、子供ふたりが許可なく勝手に病院を抜けることなんて出来ないだろうとか、言いたいことはいろいろあった。だが、差し出したれた国永の薄い掌が、ここ何か月で触れたもののなかで最も暖かだったから、私はなにも訊かなかった。
引かれるままに、ベッドを抜け出す。開け放たれた窓に手をつくと、先に庭に出た国永がおろしてくれた。まるで昔読んだ絵本の中の王子様みたいだと思う。
目線の先に広がる向日葵畑はどこまでもどこまでも広がっていて、沈みゆく太陽の光を受けて金色に輝いていた。背の高い向日葵は私たちの身長より高いものもあって、この中に一度迷い込んでしまえばもう二度と見つけることはできなさそうだった。ぎゅうと握ったお互いの手にじんわりした汗と熱が伝わってきて、私はそれからずっと国永の手を離さなかった。どこまでも続く向日葵に埋め尽くされた世界は、たしかに私たちをここではないどこかへ連れて行ってくれる気がした。
真夏の果てで逢いましょう
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