明日から、夏休みが始まる。
高校三年生になると、この時期は皆それぞれの大学入試に向けて勉強で忙しくなる。中には就職する子もいるのだが、うちの学校は進学校ということもあり、ほとんどの子が大学へと進学する。
なのだが。
「松井、小麦粉取って」
「うん」
かしゃかしゃかしゃ。泡立て器を混ぜながら、隣にいる松井に声をかける。砂糖を量っていた松井は、腕まくりしたほっそりと白い腕を伸ばして、小麦粉を渡してくれた。女子である私よりもずっとずっと色の白い肌が、古びた家庭科室のカーテン越しに透けて、その中を通る青い血管まで透けてしまいそうだった。
「松井って、ケーキとか作るの?」
「ううん、全然。こういうのって桑名の方が得意だし、もし作ってたとしても僕は味見専門だからね。まあ、苺の蔕を取るくらいならするよ」
松井と私は、彼の双子の兄弟・桑名とともに幼馴染だった。桑名は別の高校へと進学したが、私と松井は同じ学校に通っている。それも、いよいよ来年に変わってしまうのだが。
クラスの友だちからはたまに、「松井くんと付き合ってるの?」と訊かれることがある。そんなんじゃない。私あは、松井と恋人同士になりたいという気持ちを今まで一度も持ったことがない。むしろ、そういったことは想像できなかった。私たちは、永遠にこの姿のまま、ずっと仲のいい幼馴染として生きている気がする。実際には年月が流れ、来年からは別の大学へと行くからそんなことにはならないのだが。
松井は推薦で、私は七月のAOで既に大学が決まっている。今こうやってケーキ作りなんて優雅なことをしていられるのもそのおかげだ。有志の生徒だけでケーキを作るというこの家庭科の授業は、なんと誰も参加者がいなかった。だが材料だけがすでに買われていたらしく、こうして家庭科委員の私たちが一応、作っているわけである。
型に移したケーキのタネを、オーブンへと入れる。
「ケーキ、楽しみだね」
のほほんとした口調で言った松井に「そうだね」と頷く。ケーキ生地を焼いている間、飾り付け用の生クリームを泡立てないといけない。
しかし、かき混ぜ続けても一向にクリームはできそうにない。いつまでたっても白いミルクのままだ。だんだん腕も疲れてきた。くそう、なんでハンドミキサーがうちの家庭科室にはないのだろうか。思わず心の中で悪態を吐いたとき、横から腕が伸ばされてボールを攫っていった。
「代わるよ」
そう言って私に代わって、松井は生クリームを泡立て始めた。すると暫くして、クリームがだんだんと固さを帯びてきた。私の時には一向に変化する気配がなかったそれを、ぼんやりと見つめる。
「松井、大きくなったね」
「うん?」
「昔は、私の方が力があったのに」
昔は桑名も一緒に、三人でよくケーキ作りをしたものだ。一番さくさくと作業を進めるのは桑名で、松井はちょこちょこと私たちの後ろをついて回っていた。自分が焼いたカップケーキの生地が半生で、大きな目に涙を浮かべて半泣きになっていた松井の顔をよく覚えている。なのに、今の松井の目は切れ幅が長い、涼やかでとても美しいものへと変わってしまった。
そんなことを悶々と考える私の気持ちも気づく様子もなく、松井は依然クリームの準備に忙しい。と、松井が私を振り向いた。
「なまえ。ちょっと砂糖の加減を見てくれないかい」
「、うん。わかった」
スプーンで掬った真っ白なクリーム。それを一口で口の中へと収めると、甘い味が広がった。とても美味しい。
「美味しいよ。これで良いと思う」
「そうか。なら、これで飾り付けるね」
ほっとしたように笑った松井の顔を見ながら、家庭科室へ来る前に友だちのひとりに言われたことを思い出した。曰く、「なまえってなんで、そんなに松井くんといっしょにいるの?」とのことだ。この場合の"なんで”は、理由を尋ねているのではない。私と松井が一緒にいるのが気にくわないんだろう。
松井は女の子にもてる。王子様みたいな見た目だし、性格もいいからだ(ちょっと変なところもあるけど)。そんな松井の隣を私が独占しているのを、よく思わない子は多い。
(…蝉が、鳴いてる)
窓越しに、外のグラウンドから蝉の鳴き声が聞こえてくる。夏の日差しの中、眩暈がするような温度に包まれて、世界は今日も眩しい。厭になる。このまま、世界が終わればいいのに。私と彼を、永遠にこの"現在"の時間の中に閉じ込めて、もう未来なんて締め出してしまいたいのに。
「なまえ、」
と、苺を洗っていた松井がふと私の顔を見てなにか気づいたようだった。なんだろう、と思うよりも早く、松井の指が私の口元へと伸ばされた。
「クリームがついているよ」
そう言って、唇のすぐ横を拭っていった松井のほっそりした指先にクリームは取られて、彼のさくらんぼみたいにつやつやした唇の中へと当たり前のよう舐め取られてしまった。
「松井にそういうことされたって、どきどきしない」
「そう?まあ、昔から一緒にいるからね。もう兄弟も同然だからかな」
「私、松井とずっとこのままでいたいの」
「そう。僕もだよ」
松井はうんと頷いて、首を少し傾けて私の唇にキスをした。ふに、と私のそれよりも柔らかな唇の感触がして、一拍置いてまた離れていった。
「僕もなまえとこんなことをしても、何とも思わないさ。きっと、桑名もね」
顔を私から離した松井は、蛇口から水を出しながら「クラスの子になにか言われたんだろう?気にしなくていいよ。僕が気にしないんだから」などと勝手なことを言った。
きゅ、と蛇口が閉まる。
「なまえ、ケーキ作り、あと少しだよ。作り終わったら持って帰って、桑名と三人で食べようね」
そう言ってにっこりと笑った松井の顔は、カーテンを引いた家庭科室の暗がりの中で、私の記憶の中の小さな男の子と一緒だった。私はもう一度、松井の細い首に腕を回して、抱きしめた。松井はふふ、と笑って私の身体を抱きしめ返してくれた。さらさらと間近で揺れる薄墨色の松井の髪からは彼の匂いがして、こうしていると二人くっついて離れられなくなりそうだった。
高校三年生になると、この時期は皆それぞれの大学入試に向けて勉強で忙しくなる。中には就職する子もいるのだが、うちの学校は進学校ということもあり、ほとんどの子が大学へと進学する。
なのだが。
「松井、小麦粉取って」
「うん」
かしゃかしゃかしゃ。泡立て器を混ぜながら、隣にいる松井に声をかける。砂糖を量っていた松井は、腕まくりしたほっそりと白い腕を伸ばして、小麦粉を渡してくれた。女子である私よりもずっとずっと色の白い肌が、古びた家庭科室のカーテン越しに透けて、その中を通る青い血管まで透けてしまいそうだった。
「松井って、ケーキとか作るの?」
「ううん、全然。こういうのって桑名の方が得意だし、もし作ってたとしても僕は味見専門だからね。まあ、苺の蔕を取るくらいならするよ」
松井と私は、彼の双子の兄弟・桑名とともに幼馴染だった。桑名は別の高校へと進学したが、私と松井は同じ学校に通っている。それも、いよいよ来年に変わってしまうのだが。
クラスの友だちからはたまに、「松井くんと付き合ってるの?」と訊かれることがある。そんなんじゃない。私あは、松井と恋人同士になりたいという気持ちを今まで一度も持ったことがない。むしろ、そういったことは想像できなかった。私たちは、永遠にこの姿のまま、ずっと仲のいい幼馴染として生きている気がする。実際には年月が流れ、来年からは別の大学へと行くからそんなことにはならないのだが。
松井は推薦で、私は七月のAOで既に大学が決まっている。今こうやってケーキ作りなんて優雅なことをしていられるのもそのおかげだ。有志の生徒だけでケーキを作るというこの家庭科の授業は、なんと誰も参加者がいなかった。だが材料だけがすでに買われていたらしく、こうして家庭科委員の私たちが一応、作っているわけである。
型に移したケーキのタネを、オーブンへと入れる。
「ケーキ、楽しみだね」
のほほんとした口調で言った松井に「そうだね」と頷く。ケーキ生地を焼いている間、飾り付け用の生クリームを泡立てないといけない。
しかし、かき混ぜ続けても一向にクリームはできそうにない。いつまでたっても白いミルクのままだ。だんだん腕も疲れてきた。くそう、なんでハンドミキサーがうちの家庭科室にはないのだろうか。思わず心の中で悪態を吐いたとき、横から腕が伸ばされてボールを攫っていった。
「代わるよ」
そう言って私に代わって、松井は生クリームを泡立て始めた。すると暫くして、クリームがだんだんと固さを帯びてきた。私の時には一向に変化する気配がなかったそれを、ぼんやりと見つめる。
「松井、大きくなったね」
「うん?」
「昔は、私の方が力があったのに」
昔は桑名も一緒に、三人でよくケーキ作りをしたものだ。一番さくさくと作業を進めるのは桑名で、松井はちょこちょこと私たちの後ろをついて回っていた。自分が焼いたカップケーキの生地が半生で、大きな目に涙を浮かべて半泣きになっていた松井の顔をよく覚えている。なのに、今の松井の目は切れ幅が長い、涼やかでとても美しいものへと変わってしまった。
そんなことを悶々と考える私の気持ちも気づく様子もなく、松井は依然クリームの準備に忙しい。と、松井が私を振り向いた。
「なまえ。ちょっと砂糖の加減を見てくれないかい」
「、うん。わかった」
スプーンで掬った真っ白なクリーム。それを一口で口の中へと収めると、甘い味が広がった。とても美味しい。
「美味しいよ。これで良いと思う」
「そうか。なら、これで飾り付けるね」
ほっとしたように笑った松井の顔を見ながら、家庭科室へ来る前に友だちのひとりに言われたことを思い出した。曰く、「なまえってなんで、そんなに松井くんといっしょにいるの?」とのことだ。この場合の"なんで”は、理由を尋ねているのではない。私と松井が一緒にいるのが気にくわないんだろう。
松井は女の子にもてる。王子様みたいな見た目だし、性格もいいからだ(ちょっと変なところもあるけど)。そんな松井の隣を私が独占しているのを、よく思わない子は多い。
(…蝉が、鳴いてる)
窓越しに、外のグラウンドから蝉の鳴き声が聞こえてくる。夏の日差しの中、眩暈がするような温度に包まれて、世界は今日も眩しい。厭になる。このまま、世界が終わればいいのに。私と彼を、永遠にこの"現在"の時間の中に閉じ込めて、もう未来なんて締め出してしまいたいのに。
「なまえ、」
と、苺を洗っていた松井がふと私の顔を見てなにか気づいたようだった。なんだろう、と思うよりも早く、松井の指が私の口元へと伸ばされた。
「クリームがついているよ」
そう言って、唇のすぐ横を拭っていった松井のほっそりした指先にクリームは取られて、彼のさくらんぼみたいにつやつやした唇の中へと当たり前のよう舐め取られてしまった。
「松井にそういうことされたって、どきどきしない」
「そう?まあ、昔から一緒にいるからね。もう兄弟も同然だからかな」
「私、松井とずっとこのままでいたいの」
「そう。僕もだよ」
松井はうんと頷いて、首を少し傾けて私の唇にキスをした。ふに、と私のそれよりも柔らかな唇の感触がして、一拍置いてまた離れていった。
「僕もなまえとこんなことをしても、何とも思わないさ。きっと、桑名もね」
顔を私から離した松井は、蛇口から水を出しながら「クラスの子になにか言われたんだろう?気にしなくていいよ。僕が気にしないんだから」などと勝手なことを言った。
きゅ、と蛇口が閉まる。
「なまえ、ケーキ作り、あと少しだよ。作り終わったら持って帰って、桑名と三人で食べようね」
そう言ってにっこりと笑った松井の顔は、カーテンを引いた家庭科室の暗がりの中で、私の記憶の中の小さな男の子と一緒だった。私はもう一度、松井の細い首に腕を回して、抱きしめた。松井はふふ、と笑って私の身体を抱きしめ返してくれた。さらさらと間近で揺れる薄墨色の松井の髪からは彼の匂いがして、こうしていると二人くっついて離れられなくなりそうだった。
いつか鳥になりたいの
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