新年度がはじまって、はや一か月。桜の花もすっかり散って、窓から見える駅までの道は青々とした葉に彩られていた。マンションの9階にある我が家へと帰ると、先に帰宅していた夫が夕食の支度をしてくれていた。


「おかえり、先に風呂に入ってくるかい」


ことことと、いい匂いがもれる鍋の蓋を開けながら夫は言う。笑いさえしなければどこか冷たささえ感じられる切れ長の目元をゆるゆると緩ませて微笑む夫に「晩御飯なに?」と尋ねれば、「あんたの好きなものだよ」と抱き寄せられた。額に落とされる降れるだけの口づけが擽ったい。私よりずいぶん背が高い夫の、見かけよりもしっかりした肩からは彼のにおいがする。嗅ぎなれた、よく知っている匂い。頬を撫でたり、瞼にも唇を寄せたりと、この人は私の体を愛でるのに暇がない。結婚した時からずっとこうだ。特別美しくもない私の身体にそんな面白いところもないような気がするのだが、抵抗しても長い手足で封じられてしまうから、されるがままになることにしている。


「新しい入浴剤を買ってきてあるから、冷めないうちに入ってきな。それまでに夕飯の用意をしておくよ」


夫は今の今まで撫でていた私の髪の一房を、するりと指先から離した。名残惜しげな手つきだった。



▽▽▽


考えれば考えるほど、あの人は私のことが好きなのだなあ。

ざぷんと首の下まで熱いお湯につかりながら、しみじみと考える。
付き合っていたころは、まったくこんな感じではなかったのだ。4つ年上の彼は会社でも評判の美しい男で、しかしながらその気さくな言動や面倒見の良さからよく慕われていた。勿論、女性社員からはとても人気があったし、バレンタインの時には明らかに義理ではない綺麗に包装されたチョコレートをもらっているのを見たこともある。それもひとつやふたつでなく沢山。夫は、女性の扱いをよくわかっているタイプの男だった。夫は女性に優しいし、甘い。
しかし、それも私と結婚してからは無くなった。廊下ですれ違う時、どれだけ女性社員が周りにいても、私を見つければすんなりと彼女たちをかわして、私のもとへやってくる。その時に投げかけられる笑顔は、私しか見たことがないのではないだろうか。まるで少年のような、屈託のない笑顔。

勿論、私は彼を愛している。だけれど、彼はそれ以上に私のことを愛しているような気がするのだ。長光さんが私に傾ける愛は、沼のようにそこがしれなくて、温かくて、甘い。
なぜこんなにも彼は私を好きでいてくれるのだろうと不思議になることがある。一度尋ねたことがるのだが、そしたら彼は


「あんたのことがずうっと好きだったんだよ。あんたが俺と知り合う前から」


と、言った。
ということは、私と別部署だった長光さんが顔を合わせた時より前から彼は私を見ていたということになる。あんな美丈夫に好かれているだなんて全く想像もしなかかったことだ。

ぱしゃ、とお湯が揺れる。


(私は、死ぬまで彼と二人で過ごすのかな…)


私たちには子供がいない。作ろうという話にもならないし、うちの親もとくに孫が欲しいとも言わない。二人の暮らしは静かだが楽しいし、特に今はそんな気持ちにもなっていない。
じゃあ、どちらが先に死ぬのだろう?
年齢としては長光さんの方が上だから私が残されることになるんだろうなあ、と思うのだが、もし逆だったら?
私が眠る墓に、彼はやってくるのだろうか。彼のことだから、献花もこまめに変えてくれそうである。

と、風呂のドアの向こうに人影が見えた。長光さんだ。


「あ、もう上がるよー」


私はバスタブから上がった。入浴剤で白くなったお湯がその衝撃でたゆんと揺れる。ほかほかの蒸気で白んだ窓は隙間が少し開いていて、春の夜の匂いがした。
お慕いするは彼岸まで
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