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最悪の夢から目が覚めて私は真っ先にお風呂に入った。夢で見た光景が頭から離れなくて、手の感覚が蘇ってきて何度も嗚咽をするが胃に何も入っていないのだから何が出るはずもなく、ただ気持ち悪さだけを残していく。
それでも張り付くような汗を落としたくて、1階まで降りて共用スペースのシャワーを浴びる。石鹸で手や頬を何度も洗って付着した感覚を落とす。
入念に洗ってお風呂場から出て共用スペースのソファに横になろうと思い歩くと、朝のトレーニング帰りの焦凍くんと玄関先の広間で出くわした。

「おはよう」
「あぁ、こんなところで何やってんだ?」
「早くに目が覚めたからお風呂に入ってた」
「……顔面真っ青なのにか?」

眉間に皺を寄せて私を見る焦凍くんの瞳から目を逸らすように、嘘の言葉を並べるがすぐにバレた。バレたというよりは私が今の表情をわかってなかったのが敗因だ。

「なにがあった」

何もないよ。なんて言っても多分騙されてなんかくれない。

「夢を見たの…」
「悪夢だったのか?」

こくりと頷き焦凍くんの目を見て目を逸らす。焦凍くんがあの夢に出てきたわけじゃないのに、身体が震えて止まらない。何度洗っても感覚が薄れるだけで消えるわけじゃない。

「取り敢えず部屋に行こう。柚華さんの部屋は確か2階だったな」
「やだっ!」
「柚華さん…?」
「行くなら焦凍くんの部屋がいい」

女子寮のエレベーターに行こうとする焦凍くんの背中の裾を掴み、拒否すると振り返った焦凍くんは驚いた顔をして顔ごと私から目を逸らした。

「…流石にそれはダメだろ」
「でも、今は部屋に戻るとあの夢が蘇ってきそうで怖い」
「だったら、だったら尚更柚華さんの部屋の方がいいだろ」

裾から手を離して顔を俯かせながら懇願するが彼は私の手を取り女子寮に向かって歩き出す。
抵抗しようにも全身気持ち悪くて力が入らない。私は大人く焦凍くんに連れられて自分の部屋に帰ってきた。
扉の前に立ってもなお入るのを渋る私の背中を焦凍くんが優しく押して中に入ることを促し、漸く私は部屋の中に一歩足を踏み入れた。
部屋の中はまだ少し見慣れる景色の私の部屋で、存外平気だった。

「大丈夫か?」
「ううん。平気だった…ごめんね我が儘言って」
「それはいい」
「ごめんね、ありがとう」

スリッパを脱ぎ部屋の中に入ると焦凍くんも付いてきてローテーブルに向い合せで座る。夢を見た直後よりはだいぶ気持ちも落ち着いて、少しは冷静に考える事も出来そうだ。

「夢の内容を聞いてもいいか?」
「私が“剣(ソード)”を握っていて、頭に殺せって声が響くと意志とは反して目の前にいた、一緒に旅をしていた大切な人達を…」
「殺したのか」
「そこまでは分からない。怖くて堪らなくて目が覚めたから。でもさっきまでは斬った感覚が手に残ってたの」

今はもうないあの感覚が蘇らないように膝の上でぎゅうと手を握りしめる。

「何れにせよ夢は夢だ。現実で起きた事じゃない」
「わかってる…、でも私が見る夢は殆どが予知夢なの」
「予知夢って事はこれから起こる出来事が予め夢で分かるってことか」

つまりこの夢で私はわかったことがある。あの夢の通りにさせない為にも、私は絶対に。

「飛王に捕まってはいけない」
「もし捕まれば誰かを殺す事になる…か」
「そんな未来は絶対にダメ」

あんなに怖い思いはもうしたくない。あんな怖い思いをして、自分の意志とは関係なくあの人達を、大切な人達を傷つけるくらいなら自分が傷ついた方が随分とマシだ。


「こっちに来てくれないか?」

手招きされたので立ち上がり向かいに座る焦凍くんの横に向かい合って座ると、温度の違う左右の手が私の頬を包むように触れて、こつんと彼の額と私の額が触れ合った。
普段よりもずっと近くてキスをするには少しばかり遠い距離感に心臓が激しく鼓動し、伏せられた瞳を覆う睫毛や間近で感じる吐息に息が止まる。

「あ、のっ」
「柚華さん、柚華さん…」

優しい声で囁くように名前を何度も呼ばれる。愛おしむように呼ばれる名前は確かに私のものなのに、特別なもののように感じる。

「柚華」
「っ!」

たかが呼び捨てで呼ばれただけなのに、一際大きく心臓が高鳴る。包まれる頬の温度は随分と高く熱くなっている。焦凍くんの右手は冷たいはずなのに、冷たさを感じられない。それ程私の頬が熱を持っている。

「俺が言えた事じゃねえのは分かってるが、あんま無理すんなよ」
「う、ん」
「偶にいなくなるんじゃねえかって思う時がある」

焦凍くんの顔が離れていき、見上げた表情はどこか寂しげに見えて片手を焦凍くんの頬に添えた。すると私の頬を包んでいた両手は私の後ろに回り、緩やかに私を引き寄せた。

「俺の手の届かない処に行くんじゃねえかって思っちまう」
「焦凍くん…」
「だから俺は、俺の手の届く処にいて欲しいって思うし、何かあったら守りたいって思う」

たとえ私がこの世界の人間だってわかってても彼はずっとそんな不安を抱えていたんだろう。私が彼の前に突然現れたのだから突然いなくなってもおかしくないって、そう思っているんだろう。

私が何を言っても慰める事は出来ないかもしれない。それでも伝えないよりはずっといいから。

「私は焦凍くんの傍にいるよ」
「あぁ」
「離れたりなんかしない」

密着した身体からお互いの熱が混ざり合うように、彼の不安が私の気持ちと混ざりあって少しでも和らぐように 、膝を床につけて両手を焦凍くんの首に回して引き寄せる。お互いを求めるように強く相手を引き寄せて抱きしめ合う。

焦凍くんの頭を抱え込むように抱きしめていると、腰に巻かれていた腕の拘束が解かれ、私の二の腕に焦凍くんの手が触れた。

「柚華さん…苦しい」
「あっ、ごめんね、つい」

力が入った。そう言葉を続けるはずがもぞもぞと動いた彼が私の首に自身の唇を当てた事に驚き止まってしまった。
リップ音をたてて離れていき、私はすかさずそこに手をあてた。

「な、なな、なにをっ」
「悪い」

悪びれなく謝る焦凍くんに何か言い返そうと思ったが、何も思い浮かばなかった為言い返すことをやめた。
私だけが気恥しいこの雰囲気を何とかしようと頭の中で必死に話題を探して、昨日のことを思い出した。

「あのね、緑谷くんと一緒に訓練する事になったよ」
「…2人でか?」
「多分そうだと思うけど」

焦凍くんは不満そうに顔を歪めたが、溜息を吐いて私に頑張れよと言ってくれた。

「うん」
「緑谷なら大丈夫だと思うが、万が一があっちゃいけねえからな。あの八百万にもらった服は着ていくなよ」
「チューブトップのこと?動きやすくて好きなのに」
「ダメだ」

ハッキリと意志を持った声で断られた。
あの服の何がそんなにダメなんだろうかと疑問が尽きないが、焦凍くんがここまでダメだと言うのだから着て行ってバレた時が怖いので来て行かないことにする。

「わかった」
「ありがとうな」

なんでお礼を言われたのか分からなかったが、頷きぎこちなく笑うと焦凍くんは私の髪を一房持ち上げ口付ける。そして髪をはらりと離して私の頬に触れてゆっくりと優しく私の唇に掠るように焦凍くんの唇が重なった。
すぐに離れたその行為は私の心臓を落ち着かせなくさせる。目を閉じる事さえも出来ずに終わったそれを名残惜しく感じるのは、私が彼に触れたいと思っているからだ。

「…それじゃ、俺は部屋に戻る」
「あ、うん」

彼は立ち上がり扉に向かって歩き出し、私もそのあとを追いかけるように立ち歩いた。焦凍くんは扉のドアノブに手をかけ、後ろに、私の方に振り返った。

「もう、大丈夫そうだな」

その言葉に私が夢の出来事の事をすっかり忘れている事に気が付いく。あんなに怖くて嫌で震えていたのに今はすっかり震えも治まり、こんなにも笑えている。何もかも焦凍くんのお陰だ。

「ありがとう。もう大丈夫だよ」
「また下で」

そう言って彼は扉を開けて私の部屋から出て行った。扉がパタンと音をたてて閉じ訪れた静寂が部屋一帯を支配する。寂しさはあれど恐怖はない。

もう大丈夫。

あの夢の通りにさせない。それだけを覚えておけばいい。人を刺した感覚、恐怖に染まった人の表情は忘れてしまえばいい。私にはいらない。

「私はヒーローになるんだから」

焦凍くんの目指す道を一緒に行けるように、支えられるように、励まし合えるように。他の人に手を差し伸べる事が出来るように。

「絶対、大丈夫だよ」

私は飛王に支配なんかされない。
 
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