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夏休み中に雄英が全寮制になり俺の生活環境はガラリと変わった。それでも俺のやることは変わらないので朝にはランニングをして汗を流して柚華さんの作った朝飯を食べる。これが俺の朝の生活だ。

そんなある日のことだ、ランニング帰りの広間で柚華さんが足をふらつかせながら俯きソファの方へ歩いて行く姿を見つけた。何かあったのだろうか、と心配になってしまうその姿に酷く胸が痛んだ。

「おはよう」

俺を見つけた柚華さんは笑顔を向けてくれたが、その笑顔は痛々しく見える。顔面が真っ青でそれでも心配かけまいと笑顔を作るが何もかもが笑顔の形を成していない。目も口も眉毛も何もかもが、だ。

「何があった」

そんな事を聞くのも愚問すぎるが彼女は聞かなきゃ答えねえ。そういう人だ。自分でなんでも抱え込んでそれでも健気に笑う人だ。そんな人が今は笑えてすらいない。

俺は彼女の不安を取り除いてやることは出来るんだろうか。
…違う。俺がこの人の不安を取り除いてやるんだ。柚華さんが俺に手を差し伸べてくれたように、俺もこの人に。

兎に角ここにいては何も聞くことが出来ないからと柚華さんの部屋に行こうとすると、裾を掴まれる。振り返ると柚華さんは俯き部屋に戻りたくないと泣きそうな声で言った。肩も、裾を掴んでいる手も小刻みに震えている。柚華さんの見た夢はそんなにも怖いものだったのか。

「行くなら焦凍くんの部屋がいい」
「…流石にそれはダメだろ」
「でも、今部屋に戻るとあの夢が蘇ってきそうで怖い」

だったら尚のこと柚華さんの部屋に行くべきだ。このまま、俺の部屋に行ってもまた自分の部屋に戻れば恐怖が蘇ってきてしまう。それではダメなんだと震える手を取り女子寮のエレベーターに向かって足を動かした。
抵抗する力もないのか柚華さんはふらつきながらも俺のあとについてきている。

部屋の前に立ち扉を開けてもらう。先に柚華さんを通して様子を見るが、何かに怯える様子も涙を流したり震えが酷くなることもなく、本人も平気だと言っていたので、中に入り夢の内容を聞く。

話をかい摘みながら教えてくれたが、俺からしたらただの悪夢。ただの夢にしか過ぎねえように思える。けどそれが柚華さんだったら話が別だ。個性とはまた違う魔力を有してる柚華さんには何らかの意味があるようで、目の前に座る柚華さんは予知夢かもしれないと言った。

「予知夢って事はこれから起こる出来事が予め夢で分かるってことか」

つまり、その飛王って奴に捕まったら最後。
柚華さんが大切に思っている奴を柚華さんが自身の手で殺す事になる。

「そんな未来は絶対にダメ」

柚華さんは俺の目を見つめて言葉を強く発するが、意識は此処にはないように感じる。俺じゃない遠いどこかにいるその大切な奴らを考え、何かを決意したような目をしている。

それじゃダメだ。
この人は自分を犠牲にする事を厭わない人だ。

俺はこの人に傷ついて欲しくねえが、それよりも失いたくねえ。

俺の傍にいて欲しい。俺の手の届く距離にいて欲しい。俺がこの人を守りたい。

そんな欲だけは尽きないのに、この人は俺の守りを必要となんかしてない。それどころかきっと、いつか俺の手を離れて遠い何処かに行ってしまう。そんな気が偶にする。

柚華さんを縛り付けたくなんかねえのに縛り付けとかねえと不安になる。とんだ独りよがりの恋愛感情だ。

手招きして近くに来てもらった柚華さんの頬を両手で包み額に自分の額を重ねる。俺よりも少しだけ低い体温が俺の心情を落ち着かせる。
けど、それでも広がった不安が俺の胸ん中を蝕んでいく。

「柚華さん、柚華さん」

何度も何度も柚華さんの名前を呼んだ。胸ん中を蝕む何かを消したくて、目の前にいる柚華さんの名前を呼ぶ。名前呼ぶだけで今まで知ることの出来なかった感情が、腹の奥から体に広がるように暖かくなる。

好きだ。好きなんだ。

「柚華」

ぴくりと柚華さんの肩が跳ねる。閉じていた目を開けると顔を真っ赤に染めた柚華さんが必死に目を閉じながらふるふると震え、両手で包んでいる頬は赤く染まり熱を持っている。

「俺が言えた事じゃねえのは分かってるが、あんま無理すんなよ」
「う、ん」

一瞬また肩を跳ね上がらせた。無理しようとしてんだろうか。

「偶にいなくなるんじゃねえかって思う時がある」

ぽつりと漏らしたそれは、言葉を重ねる度に胸ん中を酷く蝕んでいく。
柚華さんの柔らかい手が俺の頬に触れる。俺を見つめる柚華さんの顔はどこか切なげで、堪らず俺は両手を柚華さんの腰に回して引き寄せた。今、柚華さんは確かにこの腕の中にいるのに今にも消えてしまいそうだ。

「俺の手の届かない処に行くんじゃねえかって思っちまう」
「焦凍くん…」

柚華さんが俺の名前を切なげに呼ぶ。

「だから俺は、俺の手の届く処にいて欲しいって思うし、何かあったら守りたいって思う」

この人の瞳に映る人は俺だけでありたい。そんな願望があるだって知ったらきっと、困ったように笑うんだろう。

柚華さんはこの世界の人間だって分かってんのに、出会った日のようにふわりとどこかに消えてしまうんじゃねえかって勝手に妄想して不安になる。

「私は焦凍くんの傍にいるよ」
「あぁ」

俺も柚華さんの傍にいる。

「離れたりなんかしない」

あぁ、俺もだ。

柚華さんの両腕が俺の頭の後に回り抱きかかえるように引き寄せられる。ゆっくりと引き寄せられた場所は柚華さんの首筋ではなく、胸元だった。

ふにっと顔面に柔らかくて暖かいものが触れる。流石にこれはダメだと体に力を入れて、頭を持ち上げようとするが、柚華さんの腕が力を入れて更に胸元に頭を埋めさせる。

柚華さんは俺に安心してもらおうと、今こうして抱きしめているんだ。そう思い抵抗することを止めて、体の力を抜いた。

ドクンドクンと早鐘を打つ心臓音を聞きながら、昔母に抱き締めてもらった時のことを思い出した。母の心音はもっとゆっくりで聞こえると無条件で安心できるものだったが、今は柚華さんの音の方が安心できる、そんな気がする。

理由は考える必要もないほど簡単で難解なものだ。

柚華さんの腰に回していた手を解いて、俺の頭を抱え込む柚華さんの腕を掴む。

「柚華さん…苦しい」
「あっ、ごめんね、つい」

頭を抱えるように回していた腕の力が緩んだのをいい事に、柚華さんの首筋に吸い付く。痕を残さないように浅く軽く。

首筋に手を当て、顔を真っ赤にして狼狽える柚華さんに悪いと謝ると、柚華さんが大きく口を開けそのまま閉じた。何か言おうとしたのだろうか。
けど、悪いのは柚華だ。
あんな事されて何もせずにいられるわけがねえ。

2人の間に沈黙が流れ、目の前にいる柚華さんは忙しなさそうに視線を彷徨わせていたが、何か思いついたように明るい声を出した。

「あのね、緑谷くんと一緒に訓練する事になったよ」
「…2人でか?」
「多分そうだと思うけど」

2人きりとはあんま精神衛生上よろしくはねえが、相手がまだ緑谷なのが救いだ。それでも警戒しとく事に越したことはねえ。

前に八百万に作ってもらったとかっていう露出の多い服は着るなと言うと、渋々ながらも合意してくれた。
俺の我儘を聞いてくれてありがとう。と意味を込めてお礼を言うと小首を傾げられる。意味が伝わってない事がすぐに分かったが、真っ直ぐに俺を見つめる柚華さんがあまりにも可愛く見え、意味伝えるよりも先に手が動く。

指通りのいい滑らかで艶のある柚華さんの髪を一房持ち、そこに自身の唇をあてる。次いで柚華さんの唇にそれを重ねる。いや、重ねたかったが寸前でやめた。

今日ここに来たのは柚華さんの恐怖を拭い去る為だ。俺の欲に走っていいわけがねえ。

けど、このままこの部屋にいると柚華さんに触りたいだとか、もっと頬を赤く染めて蕩けるような表情をする柚華さんを見てえって思ってしまう。

物足りないと物欲しそうに俺を見る柚華さんの目に思わず息を飲み、早急に退散しようと立ち上がり玄関に向かう。

後ろに付いてくる柚華さんは朝会った時とは違い、顔色もよく震えも止まっている。
念の為大丈夫そうだな。と声をかけると驚いた顔をして柔らかく笑った。

その後柚華さんの部屋を後にして、汗を流そうとシャワー室に向かう。途中歩きながら何度も頭の中にさっきの柚華さんが浮かんでは消える。

「あれは反則だ…」

今後暫くはお互いの部屋を行き来するのは控えよう。
俺の理性が持つ気がしない。

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