菊さんと降谷さん

 苗字に誘われ、全くと言っていい程人気のない公園に来ていた。今日は平日だが珍しく私立探偵との仕事もポアロでのシフトも入っておらず、誘われるまま公園に行くとそこには苗字と米花公園で見かけた和服の男がいた。前に苗字が雇用主だと言っていた男だ。遠目に2人の姿を視認し、酷く重たく感じる足を前に1歩踏み出した。

「名前さん、お弁当は彼が来た後に食べましょうね」
「はい!旦那様のお弁当はいつも美味しくて好きです!」

 いや、お前家政婦なんだろう?なんでお前が弁当を作ってもらっているんだ。と口に出しそうになったが、ぐっとこらえ名前さん。とアイツの名前を呼べば、苗字は振り返り俺の顔見て薄く笑い手招きして早く自分の元に来るように促した。それに従い苗字の所に行くと、苗字の雇用主である男が立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
 艶のある濡烏色の髪が動作に合わせて揺れる。和服から覗く肌の色は日焼けをしていないのか白く、何もかもが俺とは違う。

 言葉を選ばずに言うなら、これぞ日本人といったような男だった。
 出過ぎた主張がなく、かと言って個性を殺しているわけではない。そんな印象を受ける。

「初めまして僕は安室です。この度はお招き頂きありがとうございます」
「こちらこそお忙しい中ありがとうございます。本田と申します」
「役者も揃った事ですしお弁当を開けちゃいますか!」

 苗字が両手を合わせるとポンと軽い音が鳴り、男と俺が目線だけ苗字に向けると、苗字はいそいそと男が作ってきたお重の弁当をレジャーシートの上に広げ始めた。安室 透的には何か持参した方が良かったのだろうが、苗字に手ぶらで来いと言われてしまった為、何かを持っていく事は出来ずにいたが、男が作った弁当を見る限り俺が何か作って持って来ても余計だったかもしれん。

「張り切りすぎちゃいました」
「旦那様の料理は美味しいので、沢山食べてくださいね」
「え、えぇ……」

 漆塗りのお重は4段あり、おにぎりや卵焼きに煮っころがし、焼き魚や和え物等、和食を中心に色とりどりの料理が敷き詰められており、なるほど苗字が和食に関して洋食ほど驚かない理由がわかった。

 つまり見慣れてる、食べ慣れてる。そしてその味に愛着がある。

 俺が作る料理より、男が作った料理の方が舌に馴染み好みなんだろう。

「適当に取り分けちゃいますね」
「これこれ、名前さんちゃんと桜も楽しむんですよ」
「はい!安室さん苦手な食べ物とかありますか?」

 特にないですよ。と女性ウケのいい笑顔を作るも苗字は意に介さず、適当に重箱の中身を紙皿に乗せていく。俺は大人しくそれを受け取り、苗字と男が食材を口に入れるのを確認してからくちにした。

「んー!美味しいです!」
「これは……」
「お口にあったようで何よりです」

 男は目を細めて笑い、紙コップにいれたお茶に口をつけた。苗字は美味しそうに頬を緩ませ紙皿の上に乗せられたおかずを味わいながら次々に平らげていく。

 この女は風情というものを知らないらしい。

「名前さん。どうして我々は花見をするのだと思いますか?」
「……なぞなぞですか?」
「いいえ。ただの問いかけに過ぎません」

 苗字は食べる手を止め、桜を見上げながら真剣に考え始めたが、答えは出なかったようで、眉尻を下げへらりと笑って、安室さんわかりますか?と問いかけてきた。

 諸説あるが、桜は下を向いて咲くから花見がしやすく、花を愛でる為に集まるようになった。といった所だろうが……この男が求めている回答はこういったものじゃないのだろう。

「僕にも、分かりませんね」
「ふふ、そうですか。安室くんにも分からないことがあるんですねぇ」
「僕にはわからないことだらけですよ」

 本田と名乗る男は、満開に咲く桜を一瞥すると、困ったように笑った。

「なぞかけのつもりはなかったのですよ。ただ単純にこの景色が綺麗だから、だと思います」

 本田と名乗った男は、続けてこう言った。

「今こそ満開に咲き誇る桜も数日経てば散ってしまいます。それでも次の年には散るとわかっていても咲くのですよ。一瞬の美。例え儚く散ると知っていても咲かずにはいられない……そんな姿に古来から惹き付けられているのかもしれませんね」

 男はそう言うと、少し照れたように笑い、爺さんの独り言ですよ。と言った。苗字はそんな男を見て穏やかに笑った。

「その考え方は素敵です」
「恥ずかしですね」
「いや、とても……っ」

 言葉が詰まり、喉に手を当てると苗字が俺にお茶を差し出した。俺は何を言おうとしていたのだろうか。一瞬でも共感したのだろうか。

 ……一瞬でも公安としての仕事に重ねてしまったのだろうか。

 そんなはずはない。俺は、俺は……。

「あぁ、名前さん飲み物がなくなってしまいました。買ってきて貰えますか?」
「ですが……」
「僕が代わりに行きますよ」
「いいえ。安室くんは今日はお客様ですので。名前さん頼めますね」

 苗字は渋々といった具合に立ち上がって、俺の耳元に口元を近づけた。

「旦那さまに少しでも手を出したら、黙ってませんから」
「……わかっている」

 酷く温度のない一瞬の会話だったと思う。これで夫婦関係というのだから心底笑えてくる。
 喉の奥で込み上がる笑いを抑えていると、男からの視線を感じた。

「僕の顔に何か?」
「いえ。安室くんは名前さんと仲がいいんですねぇ」
「そんなことありませんよ。彼女はどうも掴めないですから」

 本田さんが羨ましいです。と言うと男は照れくさそうにはにかんだ。

「名前さんは少なからず貴方の存在を受け入れていますよ」
「どうでしょうか」

 俺にはこの男と一緒にいる時の方が苗字の表情が柔らかいように見える。苗字は喜怒哀楽がはっきりしているタイプだが、同じ表情の中でも温度が違う。

「名前さんは私の側にいて安心することはあっても、安らぐことは出来ないのですよ」
「……安らぎ、ですか」
「えぇ。私には与えられないものが君は与えることが出来る。それは名前さんにとってかけがえのないものです」

 風が頬を撫で地面に落ちるだけの桜の花びらの行方を変えていく。男は艶のある髪を耳にかけ、それは柔らかく微笑んだ。

「名前さんをよろしくお願いしますね」

 どうしてかは分からない。
 ただ、俺の中に幾つか芽生えた感情の中に、苗字への羨望があったのだけは確かだった。

戻る