昼盛りが少し過ぎ斜陽めいた西日が部屋に折り重なって、私達の影を伸ばす。風も僅かに出てきた。庭先の群立つ花々を吹雪かせながら、ざあと一陣荒び頬を撫ぜられてふ、と顔を上げて前方を盗み見る。延々書面と向き合う事にも飽きたのだと、そんな主らしからぬ笑われそうな言い訳を携えて。私が庭を眺められる様にと気を使われた結果、下座に座る事が多い。丁度逆光になる目映さにしぱしぱと目を瞬かせ、こちらに気付いたのか気付いていないのか書類から持ち上がらない薄い藤色が掛かる影の内、仄かに光を帯びる様を映す。先程よりは強くない風に艶ある髪が遊ばれて、それが眼前に落ちてくる度に少し煩わしそうに耳に掛け直す仕草がなんだか可愛らしい。

集中しているらしい薬研がこちらを諫言しないのを良い事に、幾度もしっとり落ちる綺麗な黒髪へと手を伸ばした。上から下へ射干玉の髪に触れる心地に、私の口許のむっつり結ばれた唇が笑みに柔く転じる。傍から見たらがさぞ幸福げに映る事だろう。と、其処で漸く眼鏡越しの双眸と目が合った。言外になんだと問い掛ける視線に、知らぬ存ぜぬと決め込ませて貰う。

「猫にでも戯れつかれてる気分だな」

悪戯というにはあまりに胸を焼く行為を続けようとしていた矢先、そう一言笑いを溢しながら囁かれた。そうして私を諫めるでも止めるでも無く、目を通すだけでも眠気を誘われる様な文面へと再び目を落とす。自然と共に垂れ下がり頬へと散るその髪を、もう耳に引っ掛ける事はせずにいる。

「薬研」

ならこうして名前を呼ぶのは、彼に対する一種の意趣返しの現れだ。悪戯染みた指先を許すその所作を切なく感じて仕方がない。平穏過ぎる日々の中、移ろう直前に似た静謐さが立ち込める光景が少し恐ろしくもあった。恋だとか愛だとか容易く名前を付けられる割に複雑怪奇な衝動が、胸の深奥でつっかえる。見ている姿すら白昼夢の様に感じられる浮足立ち具合で、本当は自分の為に、彼の輪郭がぼやけないか心配で名前を呼んだのだと思う。立派な名目を用意したところで、ただ怠惰な審神者がこちらを気に掛けもしない近侍に八つ当たりをしているだけでしかない現状と裏腹に、甘い色合いを湛えた春情が沁みた。

「ねえ、薬研」

返事がない事に焦れて尚も言い募る。薬研の頭の越しから見る庭では、春らしくもう桜が見頃を迎えていた。この刀は覚えているだろうか。幾日か前、縁側でぼんやりと「見事に咲いたなあ」だなんて嬉しそうに独り言を漏らしていた自分を。雅な事が分からないと言う割に美しい物を愛でるのが様になるのが、少々にくいと誰かも言っていた気がする。それで、そんな独り言を簡単に忘れてしまえるほど私は薬研に対して無関心になるなんて出来やしないのだ。様々なしがらみをを忘れて、ひとときでも花ばかりを眺め本丸中の刀達と大騒ぎをして、誰より貴方に屈託なく笑って欲しい。ねえ、薬研。みんなで花見でもしようかって言ってるんだよ。こうして秘密にしている事ばかりが口から出そうになるのは、何故なんだろう。

――ぱしゃり、と音を立てて池の鯉が跳ねた。

引き際を失い困り果てていた私は渡りに船と、手と口を引っ込める。鯉が跳ねた先で、水面が揺蕩って強まる日差しをちらちらと跳ね返して瞬かせている。こんな、なんでもない光景が彼の側に居る時だけは極楽とも地獄ともつかない。滲む好きの二文字が、狭い世界で私を恐ろしいほど迷子にさせる。

びょう。風が山颪めいて一瞬、強く吹き付けた。縺れる髪を抑える視界の端で、巻き上がる木の葉が数枚沈んだ心地の私にほど近く、畳の上へとやんわり降り立つ。春先というのは天候が崩れやすい時分ではあるけれど、今日はこうして時折吹く風の強さ以外は、てんで雲一つ無く暖かい儘だ。だからなんとも言葉にし難い心細さを嵐の所為にも出来やしない。状況から逃れたい一心で、落ち葉を手繰って縁側へ向かう足取りだけは随分と軽い気がする。虫でも付いていたら困るから、葉達には来た場所から退場して貰おう。

「大将」

こういう薬研の聡さに、時たま驚く事がある。側に居られないという心地を、容易く悟って咎める呼び声が後ろから聞こえた。咎めるというには、砂糖が沢山綯交ぜになっている様な味わいだ。錯覚でなく春風や春容より余程甘やかな声に、逆らえたら苦労はしない。

「なあ、大将」

とぼとぼ来た道を引き返し座布団に漸く腰を落ち着けた最中、再び柔らかく声が落とされる。致し方ないと取り掛かろうとしていた書類ではなく、彼の方へ今度はこちらがなんだと目で問い掛ける番だった。目尻に皺を寄せて笑う顔ばせが、そんな胡乱な眼に映る。鋲に穿たれた蝶さながら、顔も視線もその情景から逸らしようが無く留まった。薬研もこちらへと柔和な視線と表情を投げた儘、執務の続きを促すでもない。

今日という一日の中で、ほんの僅かな瞬間でしかないひととき。その時間が止まる。一刷毛だけ塗り伸ばした水彩の如き淡い花の彩りが、そんな薬研の睛眸が、私の眼の色を映し返していた。一瞬が永劫続くかの様に錯覚してしまう。昨日や先刻までと世界の速度が変わった訳でも、なんでもない筈なのに。

ぱしゃんっ。再び庭先から音が聞こえる。次は、彼にとっての合図だったらしい。呼び止めるばかりで言葉を続ける事がなかった彼が腰を上げる。それにどうしたの、と声にする間も無く確りとした力で腕の中に抱き寄せられた。細いけれども、力強い腕の感触。突然の事に驚いて、抗議の眼を向ける。さっきも問い掛けが言葉にならなかったけれど、今もこうしてやめてと口に出来ないのは、服越しの温かさ一つで簡単に絆されてしまういわゆる惚れた弱みかも知れない。

自然と近くなった薬研の胸から"と、と、と……"小さく心臓の音が聞こえてくる。生きている音だ。そんな体勢から、薬研が深く抱き込み直す様に上半身を僅かに、くっと丸めた。温かな胸にまた近付き触れ合って、ただ触れ合っている事以上に、彼の息が私の無防備に晒されている方の耳にかかる事が恥ずかしかった。

「大将、あんたの意地の悪さは知ってるんだ」

不意に、耳元で声が聞こえて肩が跳ねた。状況に冷静さを欠いて意味を捉え損ねたけれど意地が悪い、と言われた気がする。今まさに誰より意地悪く私をからかっているのは彼なのに。私は、だって髪で遊んだ事くらいしかそう言われても仕方ないと、思い当たる節はない。それだって呼び掛けに応えなかったのだって、きちんとした理由があるのだから反論はさせて貰わなければ困る。

「薬研、私、」

「だが、俺の方も意地が悪いのは確かだな」

容易くこちらの言葉を先回りされて、相手の落ち度にされた私は恥ずかしさを置き去りに何処か拗ねた心地で居直った。丁度、開け放たれた障子窓の向こう側でさわさわと風に枝ごと撓む桜の花々の様に、こころがさざなみにも似てざわつく。余裕の無さからその場を遠く感じられる事で翻って、ひとつまみの余裕が私に許されたので、其処でやっと仄温かい体へと手を回す事が出来た。薬研の心臓が、ぎゅ、とこれ以上ないほどに近く感じる。

「あんたが、逃げ惑う様が唆るんだよ。俺の所作一つ言葉一つで乱されちまって、平静を欠いて何処にも行けやしないものを、その場凌ぎに逃れようとしてんのが」

意地が悪いなんていう話ではない。先ほどまでの互いに視線を交わすだけの、穏やかな光景との落差から告げられた言葉にぎょっとして、反射的に離れようとする私の体をあやすみたいに、声の主は抱き寄せる手も離さずに耳朶を撫ぜた。

「そんな時ばかりは、満たされる。頭の天辺から足の爪先までもあんたを俺の物にした様に、心地が良いのさ。大将」

一度言いきり、表情が見えなくとも明らかに愉快げだと悟れる調子で、一言付け足される。

「あんたの意地が悪いもんで移っちまったのかも知れねえが」

そんなからかい混じりの言葉で、けれど私の胸に少しも悲しい余韻を残さなかった。隠れた懊悩が、言葉の息遣いに見え隠れした気がするからだろうか。覗き込まれる形で近かった薬研の顔が不意に上がり、自然とそのまま体も離れて行く。こちらには離れるなとばかりに触れておいてだ。

「待って、薬研」

慌てて短く呼ばい手を伸ばして、その洋装の袖口を掴もうと――、すり抜けた。上手く躱す恨めしい腕が翻って、私の伸ばした手を掌でやんわり包む所為で。手袋伝いの体温を感じながら胸の内だけでしてやられた、と溢した。自分で追い縋って囚われたのなら、逃げ場なんてない。上目遣いに覗くと、薄い藤色の瞳がどうにも嬉しげな目映さを湛えている。それに知らぬ存ぜぬを通したがる気持ちをぐ、と堪え代わりに生まれて始めて言葉を口にする子供染みて「行かないで」とだけ喉を震わせた。行かないで。

春が過ぎ吹く風も匂いも移ろう中、季節が巡る最中のさみしさとよろこびを、共にずっと感じていたい。すき、と口にする事が許されるなら。何処にも行かず、このままで。

彼が私の手を包む力をそっと強めた。

「本当に、意地の悪い」

微苦笑交じりにそう漏らされ、途切れる。彼が施す口付けで春の日差しに伸びる影が重なった。唇が塞がれる中、生まれる静寂に続けるべき言葉なんてお互いに持ちえない。遠く幾度目かの飛沫を上げる音。内番に励む誰かの笑い声。その何もかもを拭い触れ合う箇所の熱さが、溢れた恋の匂い立つ様が、痛みにも似ている。やがて、どちらとも無く名残惜しげに身を分かち「好き」「好きだ」と示し合わせのどうしようもない単純さに、声を上げて笑った。

「――花見に、俺も誘ってくれよ」

未だ笑った名残が色濃い、緩んだ私の眦をそっと撫でる指先が心地良い。黒い手套越しの指を滑らせながら、僅かに臍を曲げた様な声音の言葉に返答が数拍ばかり遅れた。

「知ってたの?」

「当たり前だろ。あんただけじゃなく、本丸連中も浮かれてりゃあな。己ばかりが置き去りと、例え頓馬だとて気付くさ」

それじゃあ、意地の悪い意地の悪いと繰り返されても仕方ない気もする。余計だとか秘密だとか驚かせたかっただとか好きだとか、口にするのを憚った言葉達を眺める心地で振り返って、小さく息をつく。言いたくて言えなかった話。言うべきではないと口を噤んだ裏の言葉達。全てを詳らかにするには未だ仕事は手付かず過ぎたし、とても今日だけで伝え切れるとは思えなかった。

明日に明後日に移ろう日々の光景に貴方が居てくれるなら、この下らない途方も無さをすっかり声にし、そして恥も臆面も無く愛を歌えるのかも知れない。でも今はそんな整理しきれない気持ちを残し、恥も臆面も捨てきれず新しく生まれたての感情と返答を口で彷わせて、声を潜め「驚かせたくって」と返して再び笑われるしかないのだ。