結局、雪は積もらなかった。窓辺で外を眺めてた、昨晩のわたしの期待の残り香は、朝日とともに跡形もなく溶けてしまったのだ。
ぬれて色が深くなってる地面を歩く。よくあるつぎはぎのアスファルトは、滑らかな部分と砂の目が粗い部分が、なんのルールもなさげに組み合わされているので、わたしは好きじゃないなといつも思う。整合性がどこにもないことが、こわいから。
「きたねえ町だな」
長いあいだ二人で歩いて、ギルベルトがやっとそれだけを言った。軽快な足取りは、カラスに突き回されたあとのゴミを避けてく。散乱するゴミ袋のはらわた。わたしたちのお腹の中に収まっているものと同じだ。きれいに仕舞ったはずなのに、取り出した瞬間からよごれてく。
それなのに、決まりきった言葉以外、何を言うべきことがあるというんだろう。いまさら、取り返しがつかないと分かってて。
気にしないそぶりは、関係を続けていくうちに得意になったのだ。わたしの育った街への罵倒に、笑い声を上げてしまう。誤魔化すなよと、彼にきらわれているやつ。言うべきことが見つからないと、笑って逃げようとすることが看過されていたから、それを治そうと頑張ってどうにもできないまま、ここまできてしまった。
後悔と、かなしみと、虚しさが胸の中でごうごう荒んだ風音を立てるけど、現実はちっとも変わりはしない。天気は荒れていない。雪は此所に降らない。わたしと彼の歩く速度は重ならない。
この、 きたねえ街 は歩道と車道の線引きが曖昧だから、つられて更に誤魔化しを上塗りしないよう、掠れた線の上を苦労しながらわたることに集中しなければ。白線から出たらワニに食べられてしまうことを、子供のころ聞いた歌ごと、今まさに思い出したように思い込んで。それでも、身軽さだけを置き去りにして。なつかしい遊びに真新しいパンプスが、どんどんと地面の鋭い部分で傷だらけになってく。そういうのを心地いいと思えないまま、大人になってしまったことを、今わたしは初めて後悔した。
わたしたちを引き寄せたものはなんだったのだろう。彼の横顔にかかる孤独の影を見て、それを引き剥がそうと躍起なのはわたしだった。けれど、傷だらけのまま生きてきたギルベルトに、ずっとわたしの方がぬくぬくと守られてきたのだ。わたしだけがそれに気付かずいたなんて、ばかみたいだ。でも、この世界をぐしゃぐしゃに握りつぶしてしまいたいような悲しみがあったから、貴方を見つけられたのなら、どうしてそんな愚かさを持ったことを不幸だなんて言えるだろう。ほんとうに不幸だったのは、口にしてきたことの殆どが真実だったことだ。好きだということも、許しがたいということも、憎いということも、そばに居てほしかったということも。己の虚に耐えかねて、そんなどうしようもない呪いを彼に背負わせることで、やっとわたしは呼吸ができていた。
この人は、どうだったのかな。へたくそな裁縫でもめちゃくちゃな縫合でも、少しでも、定命が存在しないさみしさで出来た傷を、わたしは塞げてたかな。
道も知らないくせして、先導していた彼の足先が不意に止まる。白線から落っこちたわたしは小石をけとばした。遠くでぶつかる音がする。
「おい」
ずっと、穏やかな声をこの人は出してる。思い出の中の最初の方。遠いところから。もう一緒に見れないドイツの冬のなか、簡単に溶けない雪に包まれて。そして、目の前の口からも。わたしが、何を言いたいか察しているのかも知れない。そうだった。声を荒げることが多かったけど、貴方はそういうひとだったよね。器用じゃないやさしさが、痛いひとだった。
「なに、ギルベルト」
良い日というのは、いかにも良い日ですという顔をしている。今日の空みたいに、水色が薄い雲を引き連れて、風は木を揺らして一瞬、ひかる影を揺らしたりするのだ。ひやっとした北風でわたしの頭も冴える。ずっと、愚かな一人遊びをしていたわたしを、ちゃんと暴いてくれる。よかった。冬の日を選んで。虚勢みたいに自然とそんな言葉が産声を上げず、わたしの影法師に染み込んだ。
ねえ、ギルベルト。わたし、貴方のことを愛してしまった。貴方にこころを守られて生きていく自分に、耐えられなくなってしまうくらい。わたしを隠してくれる大きなそのからだが好きだった。いつの間にか、押しつぶされているほどに。貴方の大きな影に隠れて、屈強なからだが矢面に立って傷ついていることを知りながら、ずっと目を覆ってたんだよ。こっそりと泣いて縋るしかできないことのむごさに、押しつぶされそうになりながら。
「日本まで呼び出しておいて、いつまでそうしてるつもりだよ。今日の夕方の便で戻る事になってんだ。…とっとと終わらせろ」
貴方にそれを告げることがこわくて、死んでしまいそうで、視線をさまよわせていたわたしの逃げ道がふさがれる。この人は、どこまでやさしいんだろう。そしてそれを悟られることもなく、いままで何人に刃を突き立てられてきたのだろう。むしょうに叫びだしたくなる。貴方が全部悪いんだと逃げ出せたらよかった。許されないでいるつよさと、狡くなれるだけのかしこさを持って。でも、今私が持っているのはナイフだ。ただのナイフ。ほんとうに、冬を選んで良かった。振りかざすために、目を瞑って思う。すべての生き物が死に絶える季節を選んだ。わたしの愚かな恋をころすことが出来るつめたい空気をもとめて。
「ギルベルト」
「ああ」
「…ギルベルト、貴方ともう一緒に居られない。もう二度と会いたくない。――未来永劫、さよならがしたい」
いろんな、言葉を考えて、出てきたのがたったこれだけだった。あたまを言い訳で埋め尽くしている今のわたしから、他のましな言葉も出てきそうにもない。こんなことなら、上手なひとのころしかたを教えて貰えばよかったのにね。全部いまさらだ。口にした瞬間に、貴方がどんなに大切か、貴方がどれほど私の命と一つだったか、血液みたいに吹き出して息が出来ない。目測を誤って、自分の古傷ごとえぐり取ったような気がする。わざと曖昧にして、忘れようとしてた愛が追いかけてくる。自分で、全てを終わらせた瞬間に。ゴミ袋にそれを詰め終わったと思った瞬間に。
ギルベルトは、なんでもなさそうに短く「わかった」と告げると、あの編み上げブーツの音をたてて通り過ぎていく。音が遠のくにつれ、気配が遠くなる。もう二度と、触れられないところに行ってしまう。手を伸ばしても、もう二度と届かない場所に。わたしの心臓ごと、遠いところに消えてしまう。不思議と、涙は出なかった。代わりに唇がかさかさに乾いてる。指先は冷えていて、自分の手足なのにもう体温も分からない。死人みたい。いっそ、今死人であれたら愛の不在も、彼の不在も、自分の言葉も、もうこれ以上感じずに済んだのだろう。
やがて、靴音が聞こえなくなって、瞳をこじ開けて視界を取り戻してく。
彼はそこにはいなかった。当たり前だ。街はいつもどおり排気ガスのにおいがして、今日は良い天気で、風は冷たかった。彼がついさっきまでそこにいたことが全て、白昼夢だったみたいに。
離れているときすら感じた、あの濃密な気配がもう傍らにないことだけが、わたしが彼という存在に死を与えた事実を知らしめている。
「ッ、ごめんなさい、…ごめんなさい…っ…」
それに耐えきれなくなって、もう誰にも届かない謝罪を繰り返す。今まで彼に預けていたかなしみが、胸の空虚を埋めてくれた。ごめんなさいと口に出すたび、吐息が白いもやになる。静かに空に立ち上って、そして消える。何度も、何度もそうして空へ消えた。人はいつしか、あんな風に空にのぼる。貴方はそれを見守り続ける。私は正しく人として生きる。貴方のことを忘れていつか思い出さなくなる。
ありがとう。ごめんなさい。私は、貴方を埋葬します。