痛い、痛い、痛い。
どうしてこんなに痛いのだろう。私は、一体何をしていたのだろう。苦しくて喘ぐ。声はかすれて呼吸になる。指先が寒くて悴む。大切なものを今掴んだって、きっとすぐに指からすり抜ける。
身を引き裂かれるような痛み。悲しみ。憎しみ。愛しい人だったと、本当に愛しかったと、ぐらぐら煮立った眼の奥が叫んでいる。
「いた、い」
やっとのことで出た一言は単純に響いた。先生は、先生はその恋心の亡骸を受け入れて、得心したようにうなずいた。この人は、多分こういう治療に慣れている。痛みを鮮やかに拭い去ってくれる。それがかつて痛みと呼ばれていたことにも私が気づかないほど。痛い。ただ、痛い。私の身体に外傷はない。傷一つないからいっそう惨めさが痛い。私は、こんなちっぽけな、ただの悲しみを抱いて、今世界で一番不幸だという顔をしている。冷静な方の脳が、それを蔑んでいる。余計に、悲しい気持ちが沸き立って、今すぐ先生の背中側にある台のメスで突き刺してほしかった。先生。高名な先生。一体何で有名なのだろう。きっと、人を殺すことで有名なんだ。人を救うために人の感情を切除する。取り乱した私を前に冷静な眼から伝わってくる。この人に楽にしてもらえなかったら死のう。決意を抱いて私は検索結果の一番上だった此処にきた。病院は、ひどく混んでいた。みんな誰も彼も救いを求めて、この先生に。私もそう。痛い。痛いとこうして泣いて、先生に縋るしか出来ない。先生は、それを笑ったりしなかった。恐ろしいほど冷静に、ただ観察していて。私は痛みが少しだけゆるやかな調子になったな、と思った。一番痛いのは、いたましそうな顔をして、恐る恐る触られることだと思う。私の身体には何処にも傷がないのに、恐る恐る抱き寄せて、恐る恐る慰める。そんなことが、余計に痛いことも知らないで。
「いたいです、せんせ、ぃ」
「我慢して。すぐ済みます」
きん、と耳鳴りの様に高らかに音がなる。スイッチが入ったのだ。きっと、私を塗りつぶしてくれる特別な機械の。見た目に傷なんてなに一つないのに、心臓から延々と、どくどくどくどく血を流し続けている私のために。血が目から溢れてとめどなく嗚咽を繰り返して、人の言葉を忘れかけている私のために。人が生きること。生きて死ぬこと。特別扱いするひとはみんな、忘れるなと言っている。忘れてはいけない。過去の恥も、苦痛も、悲哀も。そんなマゾヒズムを神聖視する様な真似は、私はごめんだった。早く心臓に絆創膏を貼ってほしかった。或いはそうじゃなかった。痛かったね、よくがんばったね、辛かったね、とただそれだけ、それだけを口にして抱きしめてほしかった。躊うこともなく、貴方の手で。私は、そしたら多分ちゃんとして、ちゃんとした大人になれた。こんなふうにスーツをぼろぼろにしなかった。むかし醜くさに絶望した泣き顔を、他人に晒すような事もしなかった。頬に指先をあてがう先生の手。はめられたゴム手袋は黒い。マスカラだ。ずっとずっと泣いていたから、もう化粧なんてきっと落ちてる。彼のために作った顔はかけらも残らず溶け出してしまった。背の高い先生の肩越しに窓が見える。ブラインドの隙間から西日が真っ赤が目を焼く。逃げ場なんて無いほど、眩しくて寒かった。こういう日は、必ずわたしを迎えにきてくれたのに。痛みがぶり返す。同時に涙が溢れる。にじむ視界が次第に黒くなる。先生の長い髪が、カーテンの様に緩やかに広がる。棚引く夜の色が広がって、ぶつかって、ほどけて、多分それが眠るという感覚だった。久しくわたしが知らなかったもの。ああ。安堵の息が漏れる。先生は、きっと知らないんですね。ああ。私は気づいてしまった。偽物の夜空に搖蕩って、星を掴んで指を刺したから。その傷口が膿んだから。
「……さあ、立って。うん。少々荒療治で心配していたが、その様子だと大丈夫そうですね。勿論、痛みの経過観察は必要だから次は来週においで」
耳鳴りがやんだ後、ささめく声が少しだけ聞こえていた気がする。子守唄だったんだろうか。私のために?医者の先生が?発想の幼稚さに笑った。だって私には子守唄は必要ない。本当にそんなものが大の大人に必要なのだとしたら、多分一番それが必要なのは私じゃない。夢を見ている人。人より少しだけ高い場所で、人を救う悲しい夢を見ている。理想論をうつくしいと言える人間を、称える言葉が子守唄なんだ。わたしは少しだけ冷えた部屋で、悪夢を見たのかも知れない。先生の診察の合間のことは何故かすべてが遠くて、ぼやけて見える。受付の看護師さん。指さされるカレンダー。私はそれに頷く。きれいな細い指先が、きれいで細い数字を刻む。丁寧に予約日を書いてもらった診察券と保険証を手渡されて、財布にしまい込んだ。ああ、レシートが増えてきたなあ。いやだな、初診料こんなにかかるんだ。そんな下らないことばかり考えてしまう。ああ、なんだろう。私はこんなに下らないことばかり考えていたっけ。ひどくひどくぼんやりした思考がにじむ。病院を出ると、もう殆ど落ちかけの西日が星空の奥に見えた。赤色よりも紫色の感じがつよくて、遠くから子供の声がする。
「あっちゃーん、待ってよぉ!」
「はやくしろよっ!母ちゃんに怒られるだろお!」
あははははははははは、笑う子どもたちのこえ。横断歩道手前で信号が変わるのを待っていると聞こえてくるうた。「かーらーすー、なぜなくのぉ」音痴だと思う。ぶおん、と眼の前を車が通り過ぎていって先は聞かずに済んだ。殆ど体をなしていないかすれがすれの白線の内側を、とぼとぼ歩く私の背を何人か追い越していく。煩わしそうにぶつかっていく人もいた。私はこの世の何もかもを優しく抱きしめてしまいたいような心地でいる。この人たちはみんな知っているはずなのだ。だから、世界から絆創膏は消えない。私達は痛み止めを捨てられない。逃げた人間の末路を、私達は潜在的に知っている。あの先生だけが、この世界でそれに気づかず、悲しい無益な自分を人の痛みに投影している。見上げると、遠くでちかちか明滅する飛行機が星と横並びに遊んでいた。よくあのひとの仕事が終わらない日は、こうして見上げていた。あそこのコンビニで、大して好きでもない肉まんを買って。食べて。あんが零れて。そんな思い出は今はもうすべて、湿った土のように冷たくて、母校の校庭くらいにかさかさしている。みんな知っていたのに、人は、痛みがないと生きていけないんだって。それをどうして誰も教えてくれなかったのだろう。痛みと私は完全に癒着していたって、気づいていないはずがなかったのに。痛みの不在は冷たい。彼の居ない部屋で西日を浴びることよりもずっと。まるで私自身が死体になったかと錯覚するほどに。コンビニに寄って、懐かしい肉まんを買った。お金を出す時もたついて、さっき貰った診察券ごと小銭を床にぶちまけた。迷惑そうな他の客の顔と、店員の顔。謝って、身をかがめて。遠くに転がっていった5円玉は無視した。無視していたのを勘違いした親切なおじいさんが、肩を叩いて教えてくれた。
私が小銭を拾うと嬉しそうに笑う人。この人は、痛みを知っているんだ。拾いそこねた診察券を踏みながら、それが分かった。
だから、やっぱりそう、私は死のうと思ったのだ。