走った。走って、走って、喉の奥から血の味がするまで走った。途中で何度か転びそうになって、自分は走りが得意じゃなかったことを思い出して、休息に誘惑されながらも振り切って走った。大事なものが途中でポケットからこぼれ落ちても、それを拾う余裕なんてなかった。余裕のないまま走って、周りが見えなくなるくらい走って、全てを置き去りにして、もう息をしているのだか息が止まっているのだか分からないくらいだった。
折れかけていたこころで、何かに殆ど縋り付くようにもたれかかった。そのあたたかさに、何故だかなつかしい感覚があるような気がした。けれど、もうずっと長いこと走り続けて、いまさら其処に留まることは出来なかった。だから、また走り始めた。離れる瞬間、最後に彼が何かを言ったけれど、風を切る音で言葉そのものは私に届かなかった。
「これはね、そういうお話」
「ふうん、大将。あんたの好きな話っていうのは、また随分と物悲しいんだなあ」
「そうかな。そんなことないと思うなあ。だって、ほら、最後に一瞬抱きとめてくれるような、やさしい人に巡り会えたでしょう。だから、これはハッピーエンドだと思うの」
「ハッピーエンドねえ」
手からひょいと取り上げられた本は彼の肩で止まり、その思案の最中に何度もそこで跳ねる。とんとん。とんとん。音のしない音。一定のリズムを刻んだ手元は、きっと彼の鼓動に合わせて動いている。
「…ま、それは人それぞれの解釈だ。でもな、あんた…きっと最後に男がなんて言ったのか、わかってないと思うぜ」
暗にこちらを馬鹿にしたような言葉に、むっとして反抗する。分かってないだなんて、”分かってない”。人にはいろいろ複雑な事情があって、その深淵まで見通すのは不可能だ。予測なら誰にだって出来るし、そんなことは人間四年生の刀剣男士に教えて貰わなくたって理解出来る。
「彼は彼女の背中を応援したって話でしょ」
「違うだろうな」
「…じゃあ、別れを告げたとかそんなかんじ」
「ハッピーエンドのハの字もねえな」
埒が明かない。これはそういうお話なの、と終わらせようとした瞬間に気づいた。藤色の瞳に力がないことを。彼は、ちょうど、擦り傷を消毒するときに堪えるような目の形を作っている。そしたら、…そしたら、私が悪者みたいだ。なんだか分からないけど、私が彼を傷つけた悪者なのだ。不満のクッションで出かけた言葉を包んで胸の奥に隠して、自分の中に傷に似て触れたくない部分が出来たのが分かった。だけど、理由が分からなければごめんなさいも言えやしない。
「そいつはきっと」
言葉が其処で途絶える。いつの間にか本は彼の手から消えている。代わりによく知った刀を握っていた。薬研藤四郎。鋭い切っ先。命を奪うために生まれてきたくせに、命の匂いがする。たぶん、私はこの刀のそういうところが、途方もなく好きだ。
「じゃあ、殺してやるよって?」
殆ど期待にまみれて私がいじけた皮肉をぶつける。言葉っていうのはどうして、ぶつけた瞬間からこんなに痛々しいんだろう。新鮮なあたたかさが、空気に触れて泥くさくなる。相手を汚して貶めようと必死に聞こえる。正しいかたちなんてない割に、うつくしいかたちを知っているというのは厄介だと思う。もう二度と口にしたくないと思ってて、どうしてか余計な言葉はいつまでたっても世界から消えない。理想的になりたい。言葉も、姿も、生き方も、理想的な本に出てくる理想的なかたちにしたい。汚いところも、後ろ暗いところも、卑怯なところも、なんにもなくなって、誰に愛されたって誰を愛したって恥なんてありませんという顔をしていたい。
「それも外れ。――きっと、そいつは応援なんかしてなかったし、別れを告げてもなかったよ。殺してやる、ってのは案外良いセンいってるぜ」
ああ、命を奪うことと、生かすことは、少し似ている。くちびるの熱さと共に分け与えられる呼吸で、思考が息を吹き返す。理想に殉じるといううつくしさが、ここではけっして許されない。むごいね、と笑って色のついた夢を乗り捨てた。

……朝日がまぶしい。
とおいところでばたばた誰かが走り回っている音がする。とんとん、とんとん、とまな板で包丁がリズムを取っている。お米が炊けたにおいがする。ああ、今日の近侍は、誰だっけ。そろそろ起きて、しゃんと背筋を伸ばして、もっとちゃんと、もっとうんと。
不意に、影がさして障子が開かれた。
「言っただろう。自殺なんか、したくてもさせないよ」


――、ああ、ああ、なんだもう四日間なんて、とうに経っていたのだ。



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めちゃめちゃ今更、修行から帰ってきた話を書きました。