がこん、と数度目の衝撃で体が跳ね上がった。だから、観覧車に乗るといつも後悔をする。乗る前までのふわふわとした期待は、思ったよりも揺れる密室のなかできえてしまう。私が音をころす重苦しい呼吸。その奥で乱数くんの瞳は、窓ごしにまたたいている。
「あは、ねえ、お姉さんみて。燃えてるみたいだよ」
はしゃいでいるような声色とは裏腹に、瞳が凪いでいるから、彼の背中に這い寄る夜の気配が観覧車の中に一層立ち込める。不穏なさみしさが近づいてくるかたわらで、燃えてとろけた太陽は、彼の青いまなこにうつる街にのしかかっていた。
「あーあ、本当に燃えちゃえばいいのに」
ぎし。小部屋は彼のかるい背を預けられてたやすく揺らいだ。揺らぎは、揺りかごだとか、ロッキングチェアに似ている。やすらかさを感じられないという点が、ちっとも似ていないけど。
夕日があざやかであればあるほど、こんな些細で無邪気な悪意がおそろしくて居心地がわるい。私は、考えに共感して賛同して、そうして側にいるはずだ。いつか、彼が私に言ってみせた「この世界はもっと面白いはずじゃない?」という言葉を掲げて、信じて。
それでも、いつからだろう。乱数くんの言葉にうまくうなずけなくなっていた。在りし日の尊さが、かすれてありふれた思い出になっていく心地がする。
「わたしは、夕方より朝が好きだけどな」
太陽がらんらんと振り向いた彼のまなこをかがやかせる。彼は、こんなつまらない返しを笑いはしなかった。ただいつもと違うこわ色で、「そう」とひくく切り上げた。
「きっと、私達はどこにもいけないよ」
そう言えもしない言葉が胸のなかでうつろに響く。
見当外れのそんな言葉で、この人の何かが揺らぐわけではないと分かってる。世界をひっくり返しても、気に食わない街を燃やしても、腹立たしい相手に食って掛かっても、私達は結局私達以外の何物にもなれないだとか。そんなことはきっとこの人も私も承知で、それでもそうせざるを得ないから、術がないからそうしているだけにすぎないなんてことが分からないほど、私は愚かになれなかった。
それでもなにか言葉を残したいと、呪いのように背丈が小さいままの彼に思ってしまうのは、わがままだろうか。静かな水面に、小石を投げ込んで波立たせたい。同じ場所で足踏みを繰り返している限り、世界の裏側のおもしろさなんて覗き込めないような気だってする。それが、理想論だとしても。
「うん。朝がすき。朝がきたら、どこにでも行けるような気がするから」
ああ、息絶える間際にあざやかにもえる夕日をすかして、夜がくる。もう滅んだのかもしれない光がとおく明滅している。気付いてしまった。――星を、掴めないと知るから大人になるってわけじゃない。
「僕たちは、どこにもいけないよ」
はじめは、夜に声が反響していくうちに、私の言葉が彼の声に錯覚されたのかと思った。彼の顔が、哀れみを含んだ甘い微笑でなければ、多分私はずっとそう勘違いして生涯を終えたのだと思う。
「お姉さんはさ、」なおも続く。
「お姉さんは、優しいんだと思うよ。優しい良い人だね。変に踏み込んでこないところとか、かと言って話を聞いてないわけでもないところとか、案外居心地がよかった。だから僕はあえて、お姉さんの理想像を引っ被せられても無抵抗でいたし、筋違いな共感にも声を荒げたりしなかったでしょ。」
いま、目の前にいるのが本当に私の知っている人なのか、はっきりとは分からない。一瞬にして、容易く崩されてしまった。理解したつもりの部分を、突き崩されて何も確かなものなんて其処にはないのだと突きつけられる。下がる観覧車。近くなるまち。もう死んでいるかもしれない星の光。眼の前の人。途端にすべて恐ろしくなる。
乱数くんの瞳は、ただただ柔らかく哀れんで、心底こちらを軽蔑していた。それが、私をなのか、何かもっと別のものに対する感情なのかは分からないけど。
「それでさ、今更何処にいこうっていうの?僕と一緒に踏みにじった多勢の人間を忘れて。自己啓発本に書いてあるみたいに、本当の本気で世の中に取り返しの付かないものはないとか、物事を始めるのに遅いことはないとか、そういうの、信じちゃえるの?」
「そんなこと」
「そりゃ、見たくないものに都合よく布を被せてたら、綺麗なお別れだよね。今まで払ってきた犠牲を、仕方がなかったかなと思えれば、立派だよね。でもね、踏みにじられた人たちはそんなの許さない。絶対に、絶対に忘れない。僕を、お姉さんを恨んだままだよ。――世界が終わりでもしない限り」
ああ、――星を、掴めないと知るから大人になるってわけじゃない。星を掴めない現実を、許してしまえるようになったら、夢の終わりなんだ。おさなごころに抱いた自分の幻想をくしゃくしゃに丸めて、くずかごに捨ててしまえたら。それに払った犠牲や、自分のしでかしてきた悪を、必要なことだった、あの頃は若かったなんて思えてしまったら、きっともう"おしまい"なんだ。
気づけばもう町並みは私達を追い越している。街明かりがカレイドスコープみたいに乱反射する。がこん、ぎ、ぎ、ぎっ……。一時停止して開かれた扉から飛び出した彼は、まだ目がくらんでいる私の手を取って走り出す。「待って」そう言ったことが届いているのかどうか、引かれるがままのヒールの音はどんどんと短いリズムで刻まれる。さっきから、ずっと私の言葉は、もしかすると乱数くんの何にも届いていないのかもしれないな、と気付いてしまえば暗さとは関係のないさみしさが胸に広がった。
あはは、乱数くんの無邪気な笑い声がそこかしこに響く。
「ね、何処かに行っちゃだめだよ、お姉さん。僕がこんな世界を真っ二つにするまで、ちゃんと見ててくれないと。証明してもらわないとならないんだ。今までの世界がどんなに面白くなかったか、お姉さんのつまんない言葉で。」
情けなくも息の上がる私の吐息を、急に立ち止まって翻った乱数くんが一瞬奪った。だから私は、何処かに行ったのは乱数くんじゃない。とは、きっともう一生、言えないのだろうなと悟ってしまった。