シスター・コンプレックス


2

「もう、一回、言って、みろよ! オラァッ!」

 ガツン、ガツン、と一定のリズムで聞こえてくる鈍い音にテオはふと足を止めた。セキュリティーネットワーク対策室からの音だ。責任者は先日日本からつれてきた白井直樹。鈍い音とともに聞こえてくるドスの聞いた声は、おそらくその直樹のものだろう。こうして聞くと笑い出したくなるほど、いろいろなものが姉の白井裕未とにていた。
 興味本位で室内をのぞく。そこにはうずくまって身を堅くしている男と、その男を蹴り上げている白井直樹の姿があった。腹部のあたりを狙って蹴っているあたり、相当タチが悪い。
 テオはまれに、こういう場面を目撃することがあった。ネットワークセキュリティ対策室は、まだ責任者の白井直樹に反感を抱いているものが多い。彼を挑発するために、直樹が日本から追いかけてきた特務実働隊の裕未を引き合いに出し姉弟ごと馬鹿にするものも、やはり多かった。いつもはどんな態度をとられても平然としている直樹だがそういう時は狂ったように相手を攻撃する。怒り狂った姿はどこか暴力沙汰で笑う彼の姉にそっくりだった。テオに指摘する気はなかったが、指摘したら彼は『姉弟なんだから似てるのは当たり前でしょ』と切り捨てたことだろう。切り捨てつつも口元にはうれしそうな笑みがうかんでいるに違いない。
 なにせ、姉と一緒にいるためだけに平穏な日常のすべてを切り捨ててきた男なのだ。彼は家族というものに人一倍終着している。

「あんたはっ、僕とっ、姉さんがっ! セックスするような関係だってっ! 本気で思ってたわけっ!?」

 どうやら今回の男は、『そんなに姉が好きなら姉とヤってろ』という趣旨の発言をしたようだ。それは直樹の一番大きな地雷である。裕未も性交というものに対して嫌悪感を抱いているが、どうやら直樹もその傾向があるらしい。先日も似たようなことを言われて男を一人殴り飛ばしていた。

「馬鹿にするなっ! 家族にっ! そんなことっ! 思うわけないだろっ! ぶっ殺されたいのかよっ! このままっ! 蹴り殺してもいいんだぞっ! 年下のガキに使われてっ! そのガキに蹴られてる気分はどうだよっ! ほらっ、言ってみろよっ! クズっ! このクズっ! 訂正しろっ! 僕は姉さんに欲情なんかしないっ! 訂正するまでやめないからなっ! あんたがっ! さっきの馬鹿げたこと訂正するかっ! 死ぬまでっ! 蹴り続けてやるよっ! この役立たず! このままっ! 年下のガキにっ! 蹴り続けられてっ! 死んじまえっ!」

 叫びながら直樹が腹を蹴り続けていたせいで、男がとうとう胃の中のものを吐き出した。びちゃびちゃと汚い水音とともにおそらく今日の昼食だろうと思われるカーキ色の半液状体が床を汚す。今まで男の腹部を蹴っていた直樹が眉をひそめて男の腹部に思い切り足を振り下ろす。ぐぇ、とカエルが室外機の羽に巻き込まれるような声が聞こえた。直樹は男の腹部を何度もぐりぐりと踏みつける。

「きったないな、なんなわけ? そんなにこらえ性がないの? ばかじゃないの。なっさけない、それで本当に大人なわけ? ガキに嫉妬して変な言いがかりつけたあげくそのガキに一方的に蹴られてゲロ吐くとか情けなさすぎて気持ち悪いんだけど! なんで僕があんたみたいなのの面倒みてあげなきゃいけないわけ!? なんであんたのために僕の時間を無駄にしなきゃいけないわけ!? こんなクズがなんで僕のことを馬鹿にするわけ!? 生きてる価値ないんじゃないの!? とっとと土下座して僕と姉さんに謝りなよねっ! 僕はあんたと違って忙しいんだよこんなことしてる暇ないのにわざわざかまってあげたんだから本当感謝してよ! 感謝しながら土下座して謝って! そのきったないゲロ自分で掃除してよね! ほら早く土下座しなよほんとグズだなグズ! なんであんたこの仕事できてんの? きっもちわるぅ、近寄らないでよっ! 僕から最低30cmは離れたところでできるだけ惨めに無様に情けなく土下座して謝ったあとそこの気色悪いきったないゲロ自分で掃除して後始末しなよ! 馬鹿は土下座のしかたもわかんないの? 地面に手ぇついて! 頭ゲロにこすりつけながらすいませんでしたって言えっ! 膝をつけ! 気色わるい!」

 白井直樹は姉にも罵詈雑言を吐く傾向がある。けれど、それはまだ軽い方だ。日本にいた頃は他人を罵ることもなかったらしいが、今は一度侮辱されると怒濤のごとく相手を罵る。逆鱗が姉ーー家族に関することだから日本では怒る機会がなかったのだろう。直樹に蹴られていた男が嗚咽混じりに直樹の言う『土下座』をしたところで、テオは室内の状況から視線をはずした。

「ほんとにやった! 気持ち悪い! はやくゲロ掃除してよ!」

 まだ直樹の声が聞こえてくる。病的なまでに執拗な罵倒だ。彼の姉に対する執着も病的なので、きっとこの男は病的なのだろうとテオは思う。思うことにした。
 直樹には、裕未以外家族がいない。だから、一人しかいない家族とのつながりを執拗に求めている。自他ともに認められる『家族』になりたいのだろう。だから、家族の規格外であるような言葉を言われると烈火のごとく怒り狂うのだ。その反応がすでに『家族の規格外』であることには気づいていないのかもしれないし、意識して気づかないふりをしているのかもしれない。

 なんにしろ彼はもう『規格外』の存在なのだから、そんな彼が築こうとする『規格』が世間一般のものに当てはまるわけがない。

 もはや狂気的な直樹の罵倒を遠くで聞きながら、テオは彼が望むものに手の届くことは一生ないだろうと思う。
 思って、いつものように人を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
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