微睡のきみ
限界だ。
何が限界かって、ひとつしかない。
最近彼氏にあまりにも会えていない。
日々多忙を極めている彼に多くを望むのは申し訳なくて一度も伝えたことがないが、こうも約束のドタキャンが多いと流石に愛想が尽きちゃうよ。
ねえ、ローくん。
彼の家で1人、机に突っ伏して溜息をつく。
ローくんとの出会いは知り合いのツテだった。
愛が足りてない医者がいる、なんて言いながら知り合いに引き連れられてきた彼は、3度ほどご飯に行ったのちに告白をしてきてくれて。
やや怪しい文言とともに紹介された医者がまさかの私の好みとしてもど真ん中で、さらにその医者のお眼鏡にかなって付き合えるとは。
予定を合わせて逢瀬を重ねるようになったものの、彼の仕事の都合に振り回されることは少なくなかった。
仕事が忙しいことは重々理解していたわけだしと、最初こそ許せたドタキャンも、今となってはもう毎度の恒例行事となってしまい悩みの種。
互いの家の合鍵は持っていても、病院に泊まることの多いローくんにとって私の部屋の合鍵はただの鍵の形をしたキーホルダーでしかないだろう。
約束が流れてしまっても何らかの形でしっかり埋め合わせはしてくれるのでなんとかここまで保っていたが、ずっと前から約束していた記念日である今日の約束だけは破ってほしくなかった。
いや、破る、なんて言い方はしたくはない。
だって彼だって破りたくて破っているわけではないわけで。
普段ならいつものことかとご飯だけ作り残して夜には帰るところだが、今日だけは諦めたくなくて夜中まで粘ったがやはり無駄なようだ。
連絡の一つでもくれればまだいいが、そんなこともない。
ご飯も作った。お風呂だって用意ができている。
足りないのは彼だけ。
くそう。
彼は忙しい。そんなことは分かっている。
分かった上で、何年も一緒に過ごしてきた。
でも、私は何のためにここにいるんだろう。
じわりと滲む涙を引っ込めようと瞼を閉じていると、いつの間にか眠ってしまっていた。
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ゆらゆら揺れる感覚にぼんやりと意識が浮上する。
どうやら横抱きにされて何処かへ運ばれているようだ。
夢幻か現実か、眠すぎてどうにもしっかりしない。
瞼を持ち上げることも出来ずにされるがまま、辿り着いたベッドに沈む。
んー…ここローくんの匂いがするなぁ。
顔を横に向けて寝具の匂いをすん、と嗅ぐと、
「ひとの布団の匂いを嗅ぐな」
静かで優しい、ずっと聞きたかった声。
気力を振り絞ってうっすら瞼を開く。
その先にいるのは記憶の中にいるよりずっと優しい顔をしたローくんだった。
あ、これ夢だ。
即座に断定する。
ローくんは、こんなに優しくて切なそうな顔はしない。
何より今、ここにいるはずがないもの。
そのまま引き返そうとしている彼の服の裾をゆるりと掴む。
夢の中のローくんにだったら、もしかしたら我儘言えるかも。
でも振り返ったローくんは、私のよく知ってる険しい顔に戻っていた。
急激に寂しい気持ちが巻き起こって、胸中に塒を巻く。
夢の中でくらい、そんな顔しないでよ。
さっきの優しい顔でいてよ。
見たくなくて、また瞼を落とす。
その時に涙がひとつぶ、零れてしまったけれど、夢だからいいよね。
「…ろ、くん…ここに、いて……」
寂しいよ。
一緒にいたいよ。
我儘なんて言えないよ。
お仕事頑張ってる彼に、私の感情如きで迷惑かけるなんてしたくない。
でも、もう無理だよ。
夢の中だけでいいから甘やかして欲しい。
そんな怖い顔しないで。
今だけは優しく笑っててよ。
本物のローくんには言えないことも、夢の中の彼にならいくらでも涙と一緒に吐き出せる。
最初はひとつぶ零れただけだった涙も、一度零れると堰を切ったように止まらなくなってしまった。
後から後から流れ続ける涙を拭いもせずに、只管目の前の幻に想いをぶつけ続けた。
夢の中のローくんは何も言わない。
ただ静かに受け止めてくれた。
その様子を見て我に返る。
夢だからってこんなにめちゃくちゃ言っていいはずがない。
「…ごめんなさい、我儘言って。も、帰らなきゃ…ローくんが帰ってきちゃう、」
服を離して両手のひらで乱暴に涙を拭う。
途端、両手首を誰かに掴まれた。
誰かって、目の前には幻のローくんしかいないのに。
そのままぐいと左右に広げられる。
ちょうどベッドに押し倒されて、両手を縫い止められたような姿勢になった。
どこか気まずそうな、恥ずかしいのを隠しているような不思議な顔をしたローくん。
「…いるだろ、ここに」
「……え」
「誰だと思って話しかけてたんだよ」
「…………夢でしょう?」
「現実だ」
「嘘、だよ」
「信用ねえな…」
仕方ねえか、とその姿勢のままローくんが私の片手を自身の頬まで誘導する。
指先から伝わる柔らかい皮膚の感触。
すり、と彼が私の手に頬擦りをする。
もみあげ、耳の形、ピアス。
そのまま下がって、髭、頤、喉仏。
どくどくと触れる、動脈。
彼の存在を確かめさせるかのような動きに、だんだんと私の意識も覚醒してきた。
…待ってくれ、まさか本当に。
「…ロー…くん……?」
「そうだと言ってる」
一気に全身の血の気が引いていく。
やばい、どうしよう。
どこまでが夢?どこから現実?
私、本物のローくんに何を言った…?
見つめあったまま目に見えて冷や汗をかきはじめた私に、ローくんは僅かに目を眇めた。
「どうした」
「……」
「おい」
「…ごめ、なさ」
「は?」
「ごめんなさい、」
「何が」
「私…とんでもない我儘、違う、どこまで…聞いた…?」
「どこまでって、」
「いつから…本当の、本物のローくんだった…?」
「いつからも何も、ずっといた」
「ずっと、」
「ずっと。帰ってきたら電気もつけたまま机で寝てやがるから抱き上げて移動して、作ってくれてあった飯食おうと思ったら引き止められて、全身全霊のお願いを聞いたとこだ、今」
「まって…まって、やだ…!」
「やだってなんだよ」
信じられない。
恥ずかしい。
一気に顔に熱が集まり、先ほどあれだけ流した涙がまた滲む。
あつい。
あまりのさもしさに顔から火が出そうだ。
一旦距離を取りたくて彼の手から逃れようと暴れてみるが、寝起きでうまく力が入らない。
尤も寝起きでなかったとしても彼から逃れようとするのは無駄な足掻きかもしれないが。
「おい、落ち着け」
「だって、だってあんな我儘、」
「…だから、」
恥ずかしさから死にそうな思いで暴れていると、頬に充てられた手が解放され、腕を這うようにしてローくんの手が動く。
上腕を通って、肩を過ぎて、頤を掬い上げた。
「はな、っ」
丁寧に、壊れ物を扱うように始まったキス。
どんどんと深く激しくなる。
開いてしまっていた歯の隙間から捻じ込むようにして侵入してきたローくんの舌の動きを必死の思いで受け止めた。
頤に触れていた彼の手は、知らぬ間にまた手首の拘束へとまわっていた。
薄暗い無音の部屋の中、熱っぽい吐息と偶に衣擦れ、唾液が混り合う音が響きわたる。
どれくらいそうしていただろうか。
長い口付の末にゆっくり離れたローくんの唇。
その端から垂れ、私のものと繋がる糸が視界に入り、どうにも居た堪れなくなって顔を逸らした。
先程とは別の意味で顔から火が出そう。
「逸らすな」
「…むりでしょ」
やっとのことでそう返事を返せば、は、と短く笑うのが聞こえた。
「悪かった」
「え…」
「寂しいって散々言ってただろうが」
「あれはその…なんていうか」
「いい。取り繕うな。我儘なんて思っちゃいねぇ」
「だってローくん忙しいのに、」
「むしろ漸くか、と」
「…漸く?」
ローくんが身体を起こすのに伴って、私の身体も起こされる。
そのまま、包み込まれるようなハグをされた。
「…漸く、甘えてくれんのかって」
「散々甘えてたよ…?不在なのにこうやって勝手に上がらせてもらったり、私の家の合鍵だって持ってもらってるし」
「それは甘えてるとはいわねえ。当たり前っていうんだ」
「当たり前…」
「こうなったら頃合いだと思ってた。俺の"我儘"、聞いてくれるか」
ローくんは私を抱きしめたまま器用にベッドサイドに手を伸ばす。
身体を離して向き合った時に彼の手の中にある小さな箱。
「俺はひとつの事にしか集中できねえから…今日みたいなこともあると思う。そうしたらまた、今日みたいに"甘え"ておれを引き戻して欲しい。お前に弱いのは散々実証済みだ。今日だって本当は…いや、今はいいか」
「…もしかしてお仕事残ってるのに帰ってきてくれたの?」
「今それはいいって言ってるだろう。どうでもいい、そんなこと」
くしゃりと前髪をかき上げる彼。
もどかしさを隠そうともせず、言葉をつづける。
「だから…おれと、結婚してくれ」
開かれた箱の中には輝く指輪。
いろんな感情がないまぜになって、また視界が潤んだ。
そんな私にローくんは、「何回泣くんだよ」、と呆れたように笑って目元に唇を落とした。