01.Süße Versuchung

「嫌だわ!私克彦さんに着いて行く…!だいたい克彦さんとの婚約を決めたのだってお父様たちじゃない!嫌よ!克彦さんと一緒になると決めたもの!」

今まで生きてきた中で1番の大声で、人生初めての口答えしたのはその日が最初で最後だった。

Süße Versuchung


婚約者である真木克彦は、恐ろしいほどまでに美しかった。

所謂政略結婚というやつで、私自身最初は決められた相手と結婚するのが嫌で逃げ出そうかとも考えていた。しかし彼に会った瞬間一目惚れしてしまったのだ。

容姿端麗、頭脳明晰、そしてとても優しく紳士な彼に魅了され、気付けば彼との結婚から逃げ出すなんて思考はどこかへ消えていた。

そんな婚約者がドイツへ美術を学びに行くことになった。
彼は美術作品がとても好きで、よく私にも芸術の話をしてくれていたし、いつか海の向こうへ渡りたいとも口にしていたから、この日が来ることは予想していた。
だが、彼の海外行きで婚約を破棄させられるとは思っていなかったのである。

彼の家は海外行きに猛反対。
彼の意志が固いことを知るや否や、私の家にも迷惑がかかるからと婚約の取り消しを申し出たらしかった。そして私の両親もそれに同意したというわけだ。

しかし今更彼と結婚せず離れ離れになる未来など思い描けるはずもなく、理不尽な婚約破棄に耐えかね一度も逆らった事のない父に大声を上げたのが先程だ。

彼は今回の件で勘当同然だという。とにかく今は本人に直接会って話がしたい。
先程私が大声を上げたことに驚いたのか、父が女中に私が部屋から逃げないようにと見張りを命じている為抜け出すこともままならない。
家のしきたり、肩身の狭さ、何もかもが息苦しく感じた。何も出来ない自分にひどく腹が立つ。
いっそ窓から外に出て彼の家に行くか…しかし、彼の家に行って見つかればまた直ぐに連れ戻されてしまうだろう。

どうにかして彼に会えないだろうかと必死に考える。
そこでふと、いつも彼と2人で出かける際に立ち寄る公園を思い出した。お互いの家に向かう分かれ道、人通りの少ない道に面した落ち着いた雰囲気の公園だ。
彼は逢瀬の最後に必ずその公園に立ち寄り2人でベンチに腰掛け語らうのだ。
まるで別れを惜しむかのように、柔らかな眼差しで私を見つめ髪の毛を弄びながら。

私はその時間がとても好きで、彼の涼しげな声色で紡がれる言葉にうっとりしながら耳をすましてばかりだった。

時には将来を語り合ったりもした、彼との思い出がたくさん詰まった場所。

『貴女のように優しく美しい方と結婚できる僕は幸せ者ですね』
『僕にとって貴女は美術品以上に美しい、人生の宝です。』
いつだったか、公園で彼が放った言葉が蘇り胸がじんわりと温かくなる。
あの公園に行けば彼に会える気がした。

外の者に気付かれないようにそっと窓を開けると、自室の側まで伸びている庭の木の枝に手を伸ばした。
二階の窓から家を抜け出すというとんでもない事をしている事実にどこかわくわくしている自分がいた。



「名前さん、貴女なら此処に来てくれると信じていましたよ。」

公園に着くと、何時もと変わらない涼しげな顔をした真木克彦がそこに居た。
ベンチに座り、膝に難しそうな本を広げ読む姿はとても優雅で、事の中心にいる人物とは思えない程の落ち着きようだった。

「此処に来れば克彦さんに会える気がしたのです。良かった お会いできて」
「僕も、日本を発つ前に貴女に会えて嬉しいです。こちらへどうぞ、お嬢さん」

彼に促されるまま隣に腰を下ろすと、綺麗な指がそっと私の耳をかすめた。
「…っ?!」
「あぁ、驚かせてすみません。髪に木の葉がついていたものですから。一体どうしたのです?服も酷く汚れています。今の洋装じゃ、裕福な家庭のお嬢様には見えませんが…」

クスクスと笑いながら彼は言う。きっと何もかも分かっているのに意地悪な人だ。
「どうしても克彦さんにお会いしたくて、二階から庭の木に飛び乗って家を抜け出して来ましたのよ。褒めてくださる?」
「はは、これは驚いた。あのお淑やかなお嬢様がよくそんな事をしでかしましたね。流石は僕の婚約者、侮れません。」

彼は大層可笑しそうに笑った。その横顔がとても綺麗で、自分の事を笑われているのを忘れて見惚れてしまう。

「わたくしに此処までさせた克彦さんには、責任を取って頂きたいものです。」

冗談交じりに、しかし半分本心からそう言うと彼はふっと口の端を上げながら何時ものように私の長い髪を弄んだ。

「貴女は物好きですね。こんな、家を勘当される禄でもない男に責任を取ってほしいなどと。」
「貴方を心から愛してしまったのだから、仕方ないでしょう?克彦さん以外の殿方と一緒になるなんて死んでも御免よ。」
「ああ、本当に貴女という人は…僕をどうしたいのですか。」

次第に顔が近づき、どちらからともなく唇を合わせれば啄ばむような接吻を繰り返す。

「元より、僕は貴女を手放すつもりなんてありませんよ。他の男の妻になどさせません。」
「でも、婚約は解消されてしまったわ…」
「そうですね。正当な手段で貴女を手に入れることはできなくなりました。残る手段は1つです。」

駆け落ち、しますか?
彼は耳元でそう囁くと不敵な笑みを浮かべた。
甘く静かな声色で紡がれる駆け落ちという言葉はまるで魔法のようで、私は恍惚とした表情で彼を見つめた。

「わたくしを、連れて行ってくださるの?」
「えぇ、貴女さえ良ければもちろん。」
「本当?!ありがとう克彦さん…っ!」
嬉しさのあまり抱きつけば、彼の優しい香りがして胸がきゅっと締め付けられる。

「海の向こうでの生活は大変ですよ。僕は家を勘当されていますし、ドイツに渡ったら二度と母国には帰れないものと思ってください。それでも僕と共に生きる覚悟がおありで?」

「貴方の側にいられるなら私はそれだけで充分なのです。克彦さんの側に居る為に邪魔をするものは全て捨てる覚悟でいます。
向こうでの生活がいくら大変でも、二度と日本に帰れなくても構いませんわ。ですから…お願いですから私を、、」

ーー私を攫ってください。

頭上で長いため息が聞こえる。
いくら婚約者とはいえこんな台詞を言うなんて、はしたない娘だと思われてしまっただろうか。
不安になり顔をみやると、耳を赤くした克彦さんが片手で顔を覆っていた。

「殺し文句ですね。」
「??」
「貴女の覚悟は十二分に伝わりました。では貴女のお望み通り攫って差し上げましょう。」

得体の知れない恐ろしい空気を纏った彼がにんまりと笑う。その瞬間彼が化け物のように見え、背筋に冷や汗が滲んだ。だが次の瞬間には全てが見間違いだったかのように、爽やかな表情の彼に戻っていたのだ。

視線が絡み合い、再び唇を重ねあう。
今日の彼はいつになく自信家で傲慢だ。
その様子に違和感を覚えたが、彼との長い口付けに思考が蕩け、いつの間にか目の前の事しか考えられなくなっていた。

酸素を欲し彼の胸をたたく頃にはもう、真木克彦と共に過ごす未来に期待を膨らませる自分だけが残されている。

「名前、愛しています。」
「えぇ、私もよ。克彦さん」

今この瞬間私は世界中で一番幸せな女なのだ。