04 糸を結んで

弓道場で口付けられたあの日から3日。
あれから、滝川さんとは顔を合わせていない。というよりも、名前が意図的に彼を避けていた。
彼は神主なのだから、夜多神社を訪れれば会える事は分かっている。
しかし、一体どんな顔をして会えばいいのか自分には分からなかったのだ。

“さっきは本当にすみませんでした”
“直接謝罪をするチャンスを頂けないでしょうか“


あの夜、私が逃げ帰った後に彼から来たメッセージだ。
既読はつけたものの、どう返事をしたらいいものか分からずそのまま放置してしまっている。
付き合ってもいない異性と突如口付けをしてしまったことに気が動転していた。
異性と付き合ったことがない訳ではないが、経験値が高いとは到底言えないようなものだ。

あの日逃げてしまった手前どう返したらいいのか分からない。
変わらず滝川さんの事は好きだというのに、触れた唇の感触が心を乱すのだ。

「どうしよう…」

メッセージを開いたまま名前はテーブルへと顔を突っ伏した。


-糸を結んで-




春の夜風が舞い込み始めた夜多神社の社務所に、渦中の男は居た。
「よーっす、元気か?」
「っ?!何だ蓮か…驚かすな。前から言ってるだろ、玄関から入ってこいって」
「こっちの方が近いんだから仕方ないだろ?それより、そんなに驚くなんて雅貴らしくない。どうした?浮かない顔だぞ」
「うるさいな…なんだって良いだろ」

血がつながっていないとはいえ、それなりの年月を共に過ごしてきた兄弟だ。
この男は意外と雅貴の変化によく気がつく。
要するに隠し事ができない。取り繕ってもすぐにバレてしまう唯一の相手なのだ。

「なんだ、兄ちゃんに話してみ。お前本当に酷い顔だぞ?神主がそんな辛気臭い顔しててどうするんだよ。」
「急に兄貴面されてもな…とはいえ、はあ、まあ確かにそれもそうだな。俺だけで考えてても堂々巡りだ。蓮、少し付き合ってくれ。」
「素直な雅貴も珍しいな」
「うるさいぞ…」

目の前の仕事を明日やることに決め、蓮を母家に行くよう促す。
社務所を締めると雅貴も続いて母家へと向かった。

台所でコーヒーを淹れ、縁側に座る蓮に渡す。
我が家のようにくつろぐ蓮の姿に、雅貴は張り詰めていた気が抜け肩を撫で下ろした。

「サンキュ。で、本当にどうしたんだよ」

蓮の隣に腰を下ろすと夜空を見つめ、どこから話をしたらいいものかと思案する。

「好意を寄せている人に、嫌われるようなことをしてしまったんだ」
「ほーう?弓道じゃなくてまさか女性関係の悩みとはびっくりだぜ。」
「茶化すなよ…本気で悩んでるんだ」
「悪い、それで?具体的になんだ?傷つけるような言葉でも言ったか?」
「違う。その、無意識にキスをしてしまってな…逃げられた。」

隠して伝えたところで蓮相手では無駄だと思い、素直に白状する。
その言葉に蓮が固まったかと思うと、次の瞬間には思い切り吹き出した。
人が真剣に悩んでいるというのにこの態度だ、本気で殴ってやりたいと雅貴は思った。

「はははは!!!あの雅貴が!まじか!!」
「だから笑うなって…俺もびっくりしてるんだ、自分の無意識の行動に」
「で、その後どうしたんだよ」
「どうもしない。謝罪したくて連絡したが返事がこない。読んでいるのは分かってるけど」
「どう返したらいいか分からなくなってるだけじゃないか?」
「どうだろうな…きっと嫌われたと思う」
「嫌われたかどうかはその時の向こうの反応次第だろ?そりゃ」

どんな反応だったか、か。
そう言われ、当時のことを思い返す。
口付けた直後、徐々に紅のさす顔を両手で包みこみ雅貴から距離を取った彼女の様子。
呆然としながら真っ赤な顔で自分を見つめ、慌てて去っていったあの姿を。

「雅貴のことが嫌いだったらビンタか突き飛ばすくらいするだろ?」
「…満更でもなさそうな反応ではあった」
「それなら決まりだな」
「何が」
「ちゃんと謝って、それからちゃんと自分の気持ちを伝えるしかないだろ」
「チャンスさえくれるならな。」
「そんなの無理やり作るしかないだろ?」

雅貴は怖かったのだ。彼女に拒絶の言葉を口にされるのが。
彼女は突然雅貴の前に現れたかと思えばその心をすぐさま射止めてしまった。いわば一目惚れだ。

デートに誘って、思いすら伝えないまま一方的に口付けまでしておいて拒絶されるのが怖いだなんて、臆病者だと自分でも思う。
このままずかずかと彼女のテリトリーに入ったとして、それで嫌われた時には立ち直れる気がしないのだ。

コーヒーを一口飲み、真剣な表情で黙りこくる雅貴とは対照的に蓮は嬉しそうだ。

「にしても、モテモテの雅貴がそこまで本気になるなんて珍しいじゃないか」
まるで人が取っ替え引っ替え女性と遊んでるような物言いに少しムッとする。

「はは!むくれるな。俺は嬉しいよ、お前が弓道以外にも本気になってくれて」
「なんだそれ。いつもは本気じゃないみたいな言い草じゃないか。」
「事実だろ?お前が今まで本気じゃなかった事は。ま、大本命なら今回はなんとしてでももう一度会うことだな。」
「そう…だよな。」
「それで、雅貴の心を射止めた女性はどんな人なんだ?俺にも教えろよ」

そんな問いを軽くあしらう。
彼女の詳細は例え兄だろうが秘密だ。ちゃんと自分が射止めるまでは。

「無事落ち着いたらな」

どこか吹っ切れたような表情でそういう雅貴に、蓮はふっと笑う。
「楽しみにしてる。」

緩やかな空気が流れる中、自室に置いた雅貴のスマートフォンに1件の通知が届いていた。





“返事が遅くなってすみません。こちらこそ、この間は急に帰ってすみませんでした。
少しだけお時間をいただけませんか。今は滝川さんに合わせる顔がなくて“

必死に絞り出した文章を彼へと送る。
ふーっと息をつく。返信をせねばという重圧から解放され肩の力が抜けるのを感じた。

あの日、突然キスされ驚いたまま逃げ出してしまったが、正直なところ嫌ではなかった。
ただ、この先自分がどうしたらいいのか分からなくなっているだけだ。

出会ってから数週間の相手に気持ちを伝えるのもおかしい気がしてしまった。
この速度で距離を縮めるのが正解なのか、否か。もう何も分からない。
あの日見つめられた滝川さんの瞳を思い出すとまた身体が熱くなった。
気持ちの整理がつかないまま滝川さんに会うのは得策ではないと思っている。

悶々としているうちに机に置いたスマートフォンのバイブが響き、びくりと肩が跳ねる。
滝川さんからの返信だ。恐る恐る文章を目で追った。

“非があるのは俺の方ですが…わかりました。ただ、俺もそこまで謝罪を先延ばしにしたくないので早くお会いできると助かります。“

「ずるいな、滝川さんは」

そう呟きながら自身の唇を指でなぞる。あの日滝川さんと触れた唇だ。
私とて早くこの気持ちに整理をつけたい。
抱えた膝に顔を埋め瞼を閉じた。

脳裏に浮かぶのは滝川さんの豊かな表情と、芸術品のような美しい弓を引く姿だった。

ああ、やっぱり滝川さんの事がどうしようもなく好きなのだ。
このまま逃げていては何一つ進まないのだから、動かねば。
気持ちを整理してちゃんと思いを伝えに行こうと決心をすると彼への返信を打ち込み始めた。





その日、滝川雅貴はいつになく緊張していた。
これから神社の境内で名前と会うことが決まっているからだ。

最初は少し時間が欲しいと言ってきた彼女だったが、その後すぐに逢瀬の日時メッセージが届いたのは意外だった。
雅貴としては願ったり叶ったりである。

ふわりと微笑むその笑顔と鈴の音のような落ち着いた声色、よく変わるその表情を思い出すだけで鼓動が早まる。
大会で弓を引いた時ですらここまで心拍数が上がることはなかったというのに、どうして彼女はこんなにも自分の心を乱すのだろうか。
心を落ち着けるかのように、前髪をかき上げる。

今日が最後のチャンスなのだ。例え残念な結果になったとしても動じない覚悟は決めてきたつもりだ。

約束の時間になると、コツコツと階段を登る女性の靴音が聞こえた。
雅貴は階段へ向き直ると、名前の姿を捉える。心臓が酷くうるさかった。

緩やかに毛先を巻いている鎖骨より下まで伸びた艶やかな髪。整った顔に、程よく色づいたリップがよく似合っている。
すらりとした手足に会社帰りといったパンツスーツの出立ちは、初めて会った日を彷彿とさせた。

「名字さん…お久しぶりです。今日はここまで来ていただいてありがとうございます」
「私が夜多神社でお願いしたんですから大丈夫です。お久しぶりです、滝川さん。」

2人の間を春風が通り抜けた。
縮まっていた名前との距離がまた広がっているようで雅貴は少し焦る。

「まずは謝罪をさせてください。この間は本当にすみませんでした。出会って日も浅いというのに、無意識とはいえ一方的に触れてしまって。本当に申し訳ない。」

深く腰を曲げると、名前は慌てたように手を振った。
「そんな…滝川さん、お願いですから顔を上げてください。その、、なんていうか」

嫌じゃなかったです。

その言葉に、はっと顔を上げた。
慈愛に満ちたように柔らかく微笑む名前を目に映すと、雅貴は言葉を紡げないまま息を呑んだ。

「滝川さん私、あなたに伝えたいことがあってここに来ました。あれからずっと、どう言おうか悩んでいたんですけど。」
「…」
「私、滝川さんが好きです。初めて出会ったあの時からずっと、あなたのことばかり考えてしまうんです。だからあの日キスされたのも嫌じゃなかった。気が動転して逃げ出してしまったんですけど…」
「…っああ、敵わないなぁ」

自分のことが好きだと、彼女の口からその言葉が聞けた事が夢のようだった。
自分とて同じだ。名前が好きだ。しかしそれを伝える準備をしていたというのに、彼女にあっさり先を越されてしまった。

「俺も今日、あなたに思いを伝えようと思っていたのに。なんだか名字さんの前では格好がつかないですね。」
「私はただ、滝川さんが好きだと伝えただけですよ?」
からかうように彼女がくすくすと笑った。この先は俺が決めろと、暗にそう言っているのだ。
一呼吸置いて、真っ直ぐ名前を見据える。

「俺も、名字さんが好きです。初めて弓道場であなたと会った時、なんて綺麗な人だろうと思った。一目惚れでした。少し順番が逆になってしまいましたが、俺と付き合ってくれませんか?」

伝えたかった言葉を丁寧に紡げば、名前は頬を赤くさせて柔らかく微笑んだ。
「はい。こんな私でよければ喜んで」

ほっと全身の力が抜けた。
「嫌われたかもしれないと、ずっと怖かった。あなたに拒絶されたら立ち直れる自信がなくて。」
「そんなわけ無いじゃないですか。私こそ逃げ出したから傷つけちゃったかなって…」
「返信が来ない方が怖かったですよ。生きた心地がしませんでしたからね」
「だって、どうしたらいいか分からなかったんです。私、恋愛経験豊富じゃないから…」

そう言いながら赤い顔でぷいっとそっぽを向く彼女に目を開く。
雅貴は名前の事を美人だと評している。だから経験豊富ではないというのが些か信じ難かった。

「ええと、それはつまり…」
「…これ以上は今は内緒。過去はともかく、今の恋人は滝川さんですから。」
人差し指を口元に当てて冗談めかしながらそういう彼女。
「なんというか、俺を翻弄するのが得意だ」
「滝川さんもですよ」
「そうだ、苗字で呼ぶのをやめませんか?もう俺たちは恋人同士になったわけだし」
「そう…ですね。」
「それから敬語もなしで」
「すぐ外れるか分からないです……けど。あ」
「はは、早速敬語だ。俺のことは好きに呼んでくれていい。マサさんとかよく呼ばれてるけど、名前の呼びやすいのにしてくれ」
「じゃあ、雅貴…で。」
「うん、名前」
にこりと微笑むと、名前は照れたようにはにかんだ。その顔が可愛くて、抱きしめたくなる。
どうしようもなくなり彼女の様子を伺うように問う。

「キス、してもいい?」
「…うん」
「ありがとう」

するりと名前の頬に片手を当て、腰を屈めて距離を詰める。
顔を近づければ、名前はゆっくりと瞳を閉じた。ああ、可愛い。
そう思いながら雅貴は唇を重ねた。

「ん……」
「…っ」

重なっては離れて、また少し重なる啄むようなキスを数回繰り返せば、抗議するように胸元が軽くたたかれた。
瞳を開けば真っ赤な顔の名前が映り込む。

「はっ…可愛い」
「…もう、からかってます?」
「いや?本当に可愛くて、つい。」
「うぅ…サラっとそう言うこと言っちゃうんですから」

ゆっくりと身体を離すと、名前と手を緩く繋いだ。
「これからは恋人としてよろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」

晴れて思いが通じた2人を、夜多神社の神が見守っていた。