06 若草芽吹く
「ん…」
微睡の中重たい瞼を開くと見慣れない天井が目に入った。
そういえば、昨日は雅貴の家に泊まったのだった。
「まさき…?」
恋人の名を呼ぶ。隣にあった温もりは今はなく、名前の呼びかけに応える者もいなかった。
そうか、彼は神社の仕事があるからきっと朝が早いのだ。
昨夜は彼に抱かれる覚悟でいたが、いざとなったら身体が硬直してしまい、雅貴が気を遣って途中でやめたのだ。
寸止めのような事をさせてしまい申し訳ない気持ちが募る。
しかし、だからこそ彼の優しさに改めて触れられたのだから、悪い事も良い事のように思えた。
テーブルに綺麗な字が書かれた書置きを見つけ、自然と笑みが浮かぶ。
"名前へ
おはよう。よく眠れたか?俺は神社の仕事で留守にするけど、自分の家だと思ってくつろいでくれていいぞ。冷蔵庫の中も自由に使ってくれ。もし帰るなら鍵はポストな。
雅貴"
「丁寧だなぁ」
自分がいいと思えるその時が来たらでいい。大事にしたい。
そう言ってくれた昨晩の彼の言葉を思い出す。
雅貴はただの暇つぶしでもなく、身体目当てでもない。
名前という人間を好きになってくれたのだ。
大切にされている実感がわくと嬉しさが込み上げる。
「はあ…好きだな。」
彼と恋人になれて良かったと心の底から思う名前だった。
-若草芽吹く-
「高校の弓道部のコーチ?」
「ああ、昔からの知り合いから話が来てるんだが引き受けるか悩んでてな…」
街が静まり始めた頃合い、雅貴は自宅で恋人に相談事をしていた。
最近、雅貴は早気に悩む高校生の鳴宮湊と出会ったのだ。
そして狙ったかのようなタイミングで風舞高校のコーチをしないかという二度目の打診がきた。
弓引きを辞める予定だった為一度目の打診は断ったのだが、その後名前に自分の弓が好きだと言われたことや早気に悩む湊との出会いがあり、雅貴の心は揺れていた。
弓道の師匠であったじいさんとの確執を名前に話すのは気が引けたため、弓道をやめようとして一万謝をしていた事などはぼかしながら色々と経緯を彼女に話す。
「雅貴は早気?になったその子と昔の自分がよく似てるって言ったよね。」
「ああ。俺も昔早気に苦しんだから…重なる部分が多いんだ」
「苦しい気持ちが分かる雅貴だからこそ、その子に教えられることも多いだろうし。コーチを引き受ける価値はあるんじゃないかと私は思うけど…」
「うーん…そうだな」
「何か、他に悩むわけがあるんじゃない?もしよければ教えて欲しい」
気を遣いつつも、名前は的確に雅貴のぼかした部分を突いた。
「お見通しか…」
「まあ色々説明がふわっとしてたからね」
「さすが俺の恋人、よく分かってる」
「ふふ、なにそれ」
彼女に隠し事は通用しないようだ。
窓から遠くを見やり、雅貴は少しずつ話し始める。
「俺は毎日百射引いて、一万射まで行ったら弓引きを辞めようと思ってたんだ」
「弓道を、やめる…?」
「ああ。俺の弓の師匠は祖父なんだ。高校3年の頃、俺は早気というやつになって思うように弓が引けなくなった。その時に師匠であるじいさんに酷くなじられて、家を飛び出してところ構わず教えを請うた」
「スランプの早気を治すために…?」
「名目はそうだな。でも、じいさんの教えではなくても大丈夫だという反発が一番だった。」
「……スランプは今はもう治ってる、よね?」
「そう、結果早気は治ったんだ。でもその頃にじいさんは亡くなった」
「…」
「なんの為に弓を引いているのか俺は分からなくなった。じいさんとは最後まで話さないまま死別してしまって、俺は空っぽになって弓を引く目的を完全に見失ったんだ」
雅貴の話を聞いている名前の表情はなんだか険しかった。
雅貴はそんな彼女を横目に続ける。
「それで弓引きをやめるために一万射を始めた。」
「私と初めて会った時もずっと弓を引いていたのはそういうこと」
「そう。でも名前は俺の弓が好きだと言ってくれただろ?凄く嬉しかったんだ。空っぽな俺の射を好きだと言ってもらえて、堪らなかった。」
「私、初めて雅貴の弓を見た時に魅入られたの。弓道がこんなに綺麗で素敵なんだって。空っぽなんかじゃない、雅貴が今まで積み重ねたものが全部詰まってる素敵な射だよ。」
「ありがとう…嬉しいよ。」
「あなたが弓を辞める姿が私には想像できない、かな。だって雅貴は弓が好きだもの。」
「そう見えるか?」
「うん。弓道馬鹿みたいなものだと思ってる。」
「はは、ひどい言い方だな」
「ごめんって。ねぇ、弓を辞めるために一万射を始めたかもしれないけれど、別に引き終わったら目的を変えてもいいと思うのよ」
「変える…?」
「引きおえて、また始めたらいいと思う」
真っ直ぐ雅貴の瞳を射抜きながらそういう彼女から目が離せなかった。
「また、一から引き直すってことか?」
「そう、でもそれは一万射という形じゃなくて、高校弓道部のコーチとして始め直すの。どう?雅貴が素敵なコーチになって天国のおじいさんをぎゃふんと言わすなんて最高でしょう?」
得意気に、そして勝ち誇ったような表情でそう提案する彼女に、雅貴は思わず破顔した。
この恋人は本当に面白くて最高で、自分のよき理解者である。
「…っははは!じいさんをぎゃふんと言わす、か。さすがだよ名前。」
全てを打ち明け、彼女の言葉を聞いたことで雅貴は気持ちの整理がついた。
じいさんへの復讐としてコーチを引き受けてみようと思ったのだ。
「ありがとう、助かった。お陰でようやく決断できそうだ」
向かいに座る彼女に手を伸ばすと、頭をわしゃわしゃと撫でた。
「わ…っちょっと、髪ぐしゃぐしゃになる…」
「そんな名前も可愛いけどな」
「サラッと恥ずかしいこと言うのやめてよ…心臓に悪いの」
愛おしそうに微笑むその表情はどこか晴れやかだった。
◆
“風舞高校のコーチ、正式に引き受けることにした“
数日後、彼からそんな連絡を受け取ると名前はほっと胸を撫で下ろした。
弓道を辞めようと思っているだなんて言うから本当に焦ったのだ。
彼が弓をやめてしまったら、それこそ全ての目的を失ってしまうのではないかと怖かった。
結果的に弓道部のコーチを引き受けたのだから、おそらくこれでよかったのだ。
雅貴にかけた言葉が正解だったかは分からない。しかし、きっと自分が何も言わなくとも雅貴は引き受けていただろう。
あれほど弓道が好きだという顔をしながら、当の本人は自覚が無いのが面白いところだ。
“がんばれ滝川コーチ!応援してる。“
そう返信すると、少し経って写真が送られてきた。
写真をタップすると、そこには髪を切ってすっきりとした短髪の雅貴が写っているではないか。
“ついでに邪魔くさかった髪も切ってみたんだが、どうだ?“
「っ…?!」
あまりの衝撃に思わずスマホを机にスライディングさせてしまった。
かっこいい、きっと誰もがかっこいいと言うに決まっている。
髪を伸ばした姿も言わずもがな好きだったが、短髪になった雅貴は整った顔立ちも相まってどこぞのアイドルのように名前には写った。
“とっても似合ってる!素敵!好き!“
なんとか感情を半分以下に抑え返信をした。
「これは、やばい。」
無意識に写真の保存ボタンを押した。
というかこれを自撮りしているのも可愛い。
自分の恋人があまりに可愛くてカッコ良すぎる。
「ぅ〜〜〜!」
なんとも言えない悶えが名前の部屋に響いた。
◆
風舞高校弓道部のコーチを始めてからというもの、雅貴は以前よりずっと険が取れ楽しそうにしている事が多くなった。
そんな様子を名前はとても嬉しく思っている。
出会った頃は少し近寄りがたい雰囲気があったものだ。
「今度大会があるんだが、部員達の距離が縮まらないから近々大会に向けて軽い合宿をするんだ」
「合宿かぁ、青春だね。どこでやる予定なの?」
「うちの神社」
「おお…神社合宿、楽しそう」
弓道部の話をする雅貴はコーチらしく頼りになるお兄さんといった雰囲気だ。
雅貴に弓を教えてもらえるだなんて、風舞高校の子たちは幸せ者だなと思う。
「雅貴、きっと教えるの上手いからその子達が羨ましい」
「なんだ、名前も弓引きたいのか?」
「そりゃあ気になるし、一度やってみたいと思ってるよ。大好きな彼氏がお熱なものだからさ」
「今度うちの道場で引いてみるか?俺が教える」
「本当に?」
「ああ。本当。」
「雅貴に教えてもらえるなんてすごく楽しみ!今度よろしくお願いします」
「おう」
だいぶ前にそういう雰囲気になって以来、雅貴はあまり気軽に名前に触れてこなくなった。
きっと彼の優しさだ。自分があの時怖がってしまったばかりに気を遣わせているのだろう。
雅貴は弓道部のコーチを受けて前へと進んだ。
今度は自分も前に進まなければ、ずっとそう思っていた。
今日は何だか大丈夫な気がする。なによりあの時よりもずっとずっと雅貴の事が好きになっているし、彼の色んな一面も知った。
それにコーチを引き受けてからというもの雅貴はずっと忙しくて、今日のようにゆったりデートをする事も減ってしまったのだ。
踏み出すのならば今日が絶好のチャンスだと思う。
夕焼けに染まる人のまばらな駅前、じゃあまたな、と爽やかな笑顔で別れようとする雅貴に意を決して正面から抱きつく。
「ぅわっ、どうした?」
「あの、雅貴…」
「…?」
「今日…帰りたく無い、雅貴と一緒にいたい。」
真っ赤な顔を隠すように雅貴の胸元に顔を埋めながら伝えると、息を呑むのが分かった。
「…もう、大丈夫なのか?」
「うん」
「分かった。車取ってくるから待っててくれ」
ふわりと頭を撫でられ顔を上げる。
そこにはいつもよりも嬉しそうに微笑み、優しく自分を見つめる雅貴がいた。