白と黒の頭脳戦



 現代社会の利器、空気調整装置。通称、エアコン。
 エアコンが一般家庭に普及したのは何十年前だったか、もう忘れた。都会はコンクリートジャングルで大半の都市は緑が少ない。そのせいで余計に暑い。それ故、ここで問題が一つ浮上する。
 我が家にはエアコンがない。故に、空気循環が悪く、暑い。
 唯一の頼みの綱である扇風機1号と2号は現在稼働中だ。扇風機はあくまで電気でプロペラを回して空気を循環させているだけ。生温い空気しかないこの空間は、生温い空気しか循環しない。ほんのり涼しい風も吹いてくるが、気の持ち方の問題のように思えてきた。
 熱中症で倒れるのはマズいため、大量のアイスと大量の氷とかき氷機は準備万端。飲み物は、水道水。温いけど。あと、気休めに風鈴を飾った。今日は無風のためただの飾りになってしまったが。
 こちらが暑さに音を上げているというのに、目の前の人物は相変わらず爽やかだ。体内に人工降雪機でも入れてるの? 汗がじんわりと滲んでいるところを見ると、暑さを感じているのは間違いない。人体の不思議。あー、もう何も考えたくない。
「次はきみの番だよ」
「えー。暑くて死にそうなんだけど」
「それじゃあ、ぼくの勝ちということで良いんだよね?」
「……待った。それは気に食わない」
 正方形のローテーブルの上に乗せられているのは、8×8の白黒の市松模様の盤で構成されるチェスボードと、あと、あれ、白と黒のオブジェが不規則な配置で乗せられている。言わずもがな、目の前の王子一彰という男とチェス勝負をしている。負けた方が勝った方の言うことを聞くという王道罰ゲーム付き。
 今まで何回も戦ってきたが、勝てたのは一度。その一度も王子が急用でゲームの続行が不可となったから。その日も、王子が優位だった。つまり、私は事実上王子に勝ったことはない。多分この先も勝てない。無理。
 なぜこの無謀な戦いを始めたのかを思い出すのは疲れるので捨てておくが……いや、なんで始めたんだろう。
 王子はチェスが強いというのは周知の事実。片や私はチェスは不得意どころかルールもよく覚えていなかった。将棋のように単純明快であれば良いのに、チェスは駒の動きが複雑だ。何回も王子とやってきているが、いまだに駒の動かし方を聞いている始末。作戦なんてハナからないし、作戦はほぼ無意味。
 初心者と言えど王子は容赦ない。どこまでも誠意がある。王子が手加減して勝つのもそれはそれで嫌だけど。
 盤面はお世辞も言えないほど悲惨なもので、とりあえず駒を動かしているような状態。これが最初の頃からまったく進歩していない。駒の動かし方はまだ何とか覚える事ができた。しかし、あまりにもチェスに向いていなくて、どういう状況の時にどの駒をどう動かせばいいのかがまったく解らない。
 発展も何もしないやつとどうしてチェスをしているかも分からない。どうして飽きないんだろう。悪手とやらしか打っていないような気がする。盤面に駒がどう配置されているのかの説明は省くが、今回の盤面は何かおかしい。
 いつもは数手であっけなく終わらせるのに今回は無駄に手数が多い。でも、そんなことより王子を負かす一手を打たなければ。
「じゃあここ!」
「それならぼくはここに置こうかな」
「少しくらい悩んでもいいでしょ。決めるの早い」
「きみは成長しているけれど、ひねりがない手なんだよ。もう少しひねりがあると良いんだけれど……」
「単純で悪かったですよ」
 王子は爽やかで、それでいて余裕のある笑みを浮かべている。この笑顔を少しでも崩さなければ。
 駒の数ではこちらの方が有利。それでも最後まで勝負が決まらないのがボードゲームの面白さ。特にチェス。将棋みたいに王手か王手じゃないかで明確化されていればいいのに、いろいろな終わり方がある。そこが面白い要素だろうけど、複雑すぎて私の脳みそが受け付けない。どういう手を打てばぎゃふんと言わせられるんだろう。
 キングを追い詰めているはずなのに、王子の手の上のような気がする。傍から見れば確定演出が起きているのかもしれない。でも、私は確定演出をすり抜けるほどの下手さを兼ね備えている。
 もう駒数も少ないからざっと盤面の説明すると、b3、d3、e2に白ポーン、a4に白ビショップ、c4に白ルーク、f4に白キング、g7に白クイーン。これが私。a5に黒ポーン、a2に黒キング。これが王子。今は王子の盤だからここから王子が駒を動かす。
 王子がキングをb1へ。それを追いかけるように私はクイーンをg1へ。
 王子がキングをa2へ。駒を動かそうとしていたら王子が楽しそうに笑う。何か、何かを見落としている。ポーカーフェイスが得意な王子がわざと私に知らせてくれる。これで手を間違えれば私は負ける。
 クイーンを持ち上げ、王子の顔を窺うと、相手の様子を窺ういつものポーカーフェイス。持ち上げる駒を間違ってはいるわけではなさそう。額から汗が垂れる。蒸し暑い部屋に生温い空気。そがれかけた集中力を総動員して私はクイーンをc1へ置く。
「はぁ。やっぱりきみは期待を裏切らない」
 王子は楽しそうにしているが、私は全然楽しくない。王子の次の手は何か。うまく働かない頭を意地で動かす。
「これで、終わりだよ」
「……へ?」
「ステイルメイトさ」
「凡人にも解りやすく」
「つまり、引き分けってことさ」
「あり?」
「あり」
「なんで」
「なんで、と言われても、これがチェスだからとしか言いようがないね。あと少しで勝てたのに、残念だったね」
「そのきれいな顔殴らせて」
 今までにないくらいの相手を煽る声に無性に腹が立つが、暑さのせいでどうでもよくなってしまった。引き分けになる想定をしていなかったから今回はどちらも罰無しかなぁ。チェス盤をよけて、温くなってしまった保冷剤を握り締めながら机に突っ伏す。
「そういえば、夏祭りって今週の土曜日だったかい?」
「あー、もうそんな時期ですか。確か今週だった」




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