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夫の手記

 私はさっきから自動車を待つ人混みの中で、一人の婦人に眼を惹かれていた。

 年の頃は私と同じ位、そう二十五六にもなるだろうか。年よりは地味造りで縺毛一筋ない、つやつやした髷に結って、薄紫の地に銀糸の縫をした半襟、葡萄の肌を思わせるようなすべすべした金紗の羽織、帯や着物など委しい事は私に分らないけれども、それらのものが、健康を思わせる血色、撫でたような然し肉付の好い肩つき、楚々とした姿にすっかり調和して、ほんとうに私の好きな若奥さん型なのだ。もっと気に入った事は、抱いている赤ン坊が、生れて半年位かしら、女の子らしいが、頬べたが落ちそうに肥って、文字通り林檎のようで、自分の身体の三倍位の大きさの、眼の醒めるような派手な柄の友禅に包まっているのが、なんと愛らしい事だ。女中なんか伴に連れないで、お母さんの手で抱いているのが耐らなく好い。

 でも、自動車を待っている多くの人達は、この奥さんの事などは考えていないらしかった。その人達はちっとでも早く乗ろうと思って、前へ前へと出て行くのだった。自動車が人々の前へ止った時には、奥さんはいつの間にか後の方になって、未だその後から押して来る人達との間に揉み込まれて終った。

 私はほんとうにしようのない人達だと思って、犇めき合う群集を見ていた(この東京駅の前から出る呉服店行の自動車は店の人がついていて世話をしている時は、みんな渋々一列に並ぶけれども、誰もいないとすぐこれだ!)。

 私は別にあわてて乗ろうとはしなかった。実を云うと私は、呉服店などに用のある人間じゃあないのだ。毎日毎日疲れた足を引摺って、減った腹を抱えて、就職口を探している哀れな青年なんだ。父親と衝突さえしなければ、今年あたりは学校を卒業して、親の光で、苦労もせず相当な地位が得られたんだろうが、そんな事を今更悔んだ所で仕方がない。今も丸ビルの五階の或る会社へ出かけて、体よく断られて出て来た所で、もう今日は中途半端になって、どこと云って行く当もないし、裏長屋の一間で淋しく待っている妻の所へ帰ろうかと思ったが、ふと眼の前を走って来た赤く塗った、呉服店の自動車を見て、久し振りでそこへ行って見ようと云う気を起したのだった。

 あまり混雑するので、乗ろうか乗るまいかと決し兼ねている中に、又一台自動車がやって来た。群集の半分は忽ちその車の前へ集って中の人が降り切らないうちから犇めき出した。私は人波に押されて運よくその新しく来た車の前の方へ出る事が出来た。ふと見るとさっきの奥さんが、之も人に揉まれて、赤ン坊をつぶされまいと一生懸命に庇いながら、直ぐ私の傍へよろめいて来た。私は直ぐ自動車に乗る事に決めた。そうしてデッキに片足をかけて、奥さんに、 「赤ちゃんを抱っこしましょう」

 と声をかけて、奥さんの返辞を聞かないうちに、もう赤ン坊を受取って、中へ飛び込んだ。

 未だ初めの方だったから、私はずっと奥の方へ席を占めた。続いてドヤドヤ乗り込んで来たので、忽ち車は一杯になり私の前へは背を曲げて窮屈そうに二三人の人が立並んだ。車は直ぐ動き出した。

 車が動き出すと、間もなく心配になり出した事は、どうも奥さんの姿が見えない事だ。何しろ一杯に混んでいるから、両隣りの人でさえ、どんな人だか分らない位で、無論入口の方に乗っている人などはてんで見えないのだが、どうも奥さんが乗っているらしい様子が感じないのだ。私はだんだん心配になって来た。

 やがて自動車は、呉服店の前で止った。

 私は気が急いたけれども、中々降りる番が廻って来ない。漸くの事で片足が地面についた時に、それでも私はニコやかに迎える若い奥さんの姿を予期していた。が、どこにもその姿は見えなかった。

 私は情けない気持で次の自動車を待った。故障でもあったのか、自動車は中々来なかった。私はなき出したくなった。やがてブルブルと音を立てて自動車が眼の前へ止った時はああ助ったと思ったが、どうしたと云う事だ! 奥さんの姿は見えないのだ!

 私はあわてた。一生懸命にあやしても、兎もすると泣き出そうとする赤ン坊を抱えて居ては気が気じゃない。それに往来の人がジロジロと見るような気がする。考えて見ると――今まで何と云う迂闊な事だったろう――私はこんな人眼につく所にウロウロしている訳には行かないのだ。知ってる人にでも見つかればどんなにか困る事だ。私は横丁へ曲った。そうして時折大通の方へ見に出た。角の交番の巡査が何となく恐かった。

 自動車は引続いて二三台来たけれども、奥さんは来ない。もしや横丁に引込んでいる間に来たのじゃないかと、私は思い切って内部へ這入った。そうしてよくこんなに這入ったものだと思われる大勢のお客の間を縫って、一階二階と順に上へ昇ったけれども、考えて見ると随分無理な話だ。こんな雑踏した所で、両方で探し合った日にはどうして出遭う事じゃない、でも私はもう夢中だった。何階だかも分らなかった。赤ン坊を揺り動かしながら昇ったり降りたりして探し廻った。終いには腹立しさと情けなさとで涙がにじみ出た。美麗に着飾った夫人や令嬢が怪訝な顔で私を見送った。

 何べん目かで一番下へ降りた時に、私はふと入口の所に後向きに立っている一人の紳士に眼がついた。横顔を見ると驚いた。父なんだ。足かけ三年遭わない内に、気のせいだかいくらか窶れたようだが、いかつい肩、利かん気の太い眉、骨の高い頬の皺まで、三年前そのままだ。父はじっと入口の方を睨んでいた。でもいつこっちを振り向くか分らない。私は大急ぎで出口の方に向った。そうして夢中で下足をとって外へ出た。もう大通りの方へ出る勇気はなかった。私は大通りと反対の方へ歩んだ。堀端へ出ると、銀行の前から橋の方へブラブラ歩き出した。

 幸な事には赤ン坊は時々渋面は作ったが、まだ泣き出しはしなかった。だが、私はどうしたら好いんだろう。父がいる間は呉服店へ行く事は出来ない。呉服店の男衆に訳を話して預けようかと思ったが、容易には預ってくれまい。何しろ赤ン坊なんだから。角の交番へ行けば無論その女が来るまで待てと云うだろう。それに人目を忍んでいる私には警察が苦手なのだ。と云ってその中に赤ン坊が泣き出したらどうしよう。あのお母さんは半狂乱で私を探しているに違いない。私は、呉服店の前で待っているべきだ。だが、父が居るのをどうしよう。私は三年前父の前で、お世話にならなくても、一人前の人間になって見せますと放言したのだ。このみすぼらしい身装を、しかも他人の赤ン坊を抱いて、どうして曝す事が出来よう。

 私は思案に余った末、一度宅へ帰る事にした。妻はきっと驚くだろう。けれども訳を話せば納得するに違いない。妻なら赤ン坊の世話も出来るし、泣き出せば近所のおかみさんが乳を呉れるだろう。赤ン坊を妻に預けて置いて私は直ぐ、呉服店に引き返えそう。今は三時だから呉服店の閉る五時までには充分本所まで往復する時間はある。その時分には父は帰っているだろうし、あの奥さんは自分の子供の事だ、余計に心配をかけるのは気の毒だが、きっと待っているだろう。そう決心して私は電車に乗った。

 妻は私が赤ン坊を連れて帰ったのを見ると、丸い眼をはち切れるように瞶って吃驚した。

 私が手短に事情を話すとまあと云って赤ン坊を受取った。そうして、 「なんて可愛い赤ちゃん」と云った。

 誰だって、この赤ン坊を見たならばこう云わないで居られるものか。赤ン坊もやっぱり妻に抱かれる方が気持が好いのだろう。ニコニコと笑った。

 妻は父に見つけられはしないかと、ひどく恐れたけれども、私は云い宥めて、すぐ呉服店に引返えした。

 恐々内部へ這入ったが、父の姿はもう見えなかった。そうして何とした事だ、赤ン坊のお母さんの姿もどこにも見えないのだ。

 私は呉服店が閉るまで、内部をうろつき廻った。閉っても未だ暫く外に立っていた。けれどもとうとう奥さんの姿は見えなかった。

 重い足を引摺って暗い気持に浸りながら、再び私は宅へ帰った、赤ン坊はスヤスヤと寝て居た。留守中に一度激しく泣いたそうだけれども、二三軒先のおかみさんに乳を貰うと、そのまま寝ついたのだった。

 私は妻と顔を見合せてホッと溜息をついた。

 私達二人でさえ、もち扱っているのだ、こんな天使のような悪戯者が飛び込んで来て、どうすることが出来ると云うのだ。

 二人はいろいろ相談した。

 何と云っても、警察へ届けるのが一番だけれども、それは出来なかった。父は警察へ私の捜索を依頼しているに違いないから、第一父に見つけられる事が恐かったし(之は妻が特別に恐れた。何故ならもし私が見つかればきっと二人の仲を裂かれると思っていたから)、私達が偽名して今の所に住んでいるのが、ひょっと知れるのも恐かった。

 私は三年前今の妻と恋に陥ちた。妻は当時あるカフェの女給をしていた。彼女はほんとうに真菰の中に咲く菖蒲だった。その顔があどけなく愛くるしいように、気質も優しくて、貞淑だった。けれども頑固な父は女給であると云う事だけで私達の結婚をどうしても許さなかった。父にして見れば早く妻に別れて、男手一つで育て上げた一人息子は掌中の珠より可惜しかった。その大事な息子の魂が、父の見解に従うと売女としか思えない女給風情に盗み去られると云う事は、耐らないことであったのだ。

 或日とうとう最後の時が来た。私は父に袂別の辞を述べて家を出たのだ。それから人目を避ける為めに偽名をして、この路次の奥のささやかな家に世帯を持っているのだ。

 それから三年越し私達は随分苦労した。私は妻とした上は女給をさせて置く事は出来なかったから、僅か許り持出した金を頼みに、内職をしたり、ホンの僅な給料で勤めたりして、細々と生計を立てて来た。それが、何と云う不幸だろう。三月程前からすっかり職に離れて終ったのだ。一生懸命に倹約しくして、やっと手つかずに残して置いたいくらかの貯えも、もうあと二月とは保たないのだった。それで私は毎日就職口を探して歩いていたのである。でも父に詫びると云う事はどうしても私の意地が許さなかった。こんな情けない有様を父に見られるのは死ぬより辛い。こんな事情で警察へ訴える事は、どうしても出来なかった。

 と云って同じような理由で、新聞広告も出来なかった。私立探偵となると、費用はよし後に先方で出して呉れるとした所で、いつ先方の知れる事が当がなかった。

 私達は可愛い赤ン坊を間に置いて当惑した。

 どうしよう、どうしようと云いながら二三日経ってしまった。いろいろのものを赤ン坊の為めに買い調えねばならなかった。親の方では随分探しているだろうと思って、新聞社の前へ行ったり、隣のを借りたりして、新聞の広告には残らず眼を通したが、それらしいものはなかった。もしやと思って、呉服店の前へも二三度行って見たが、駄目だった。

 でも赤ン坊は障りなく育って行った。もう大分馴れて、私達の顔を見るとニコニコ笑う。それにつけてもほんとうの親達の心はどんなだろうと思うと、じっとしていられなかった。

 妻はお襁褓をこしらえたり、それを取り替えたり洗ったり、それに世帯の苦労が加わりながらも、始終機嫌の好い顔をして、赤ン坊の世話をした。妻は真から赤ン坊を可愛っているようだった。三日目の朝こんな事を云った。 「あなた、この赤ン坊宅の子にしましょうか」 「馬鹿を云え」私は答えるのだ。「そんな事が出来るものか。第一親が承知しやしないよ」 「でも親が、今だに何ともしないのは可笑しいわ。きっと何か事情があって、棄子にでもしたんじゃないでしょうか」 「何を云うんだ。真昼間大勢の中で、棄子をする奴があるもんか。それに撰りに撰って、貧乏書生なんかに渡す奴はないよ」

 とは云いながら私にも実は不思議でならないのだ。新聞に広告さえも出さないで、子供の行衛を尋ねようとしない親の心が分らないのだ。

 妻は黙って終った。私には妻の心がよく分るのだ。私が自分の不注意から、こんな厄介物を背負込んで来た事を、苦に病んでいる事をよく知っているものだから、妻は自分の気苦労を押し隠して、私を慰めるように、ああ云うのだ。ほんとうに可愛そうな妻よ。私はどうしたら好いのだろう。

 所が、天は何と無情なんだろう、それとも親に背いた罰なのか、この窮境の時に、私はふと風邪を引いて終った。然し風邪を引いたと云って、じっとはしていられないのだ。就職口と赤ン坊の親とを探し出さねばならぬのだ。私は無理に外を歩いた。

 二三日すると私はどっと床についた。四十度の熱が出た。我慢にも起きられない。肺炎になったのだ。貯えの尽きようとしている時に、他人の赤ン坊を背負込んでいる時に、私は動けなくなったのだ。泣き叫ぶ赤ン坊と、高熱に浮かされる夫の間で、甲斐甲斐しく働く妻を見ると思わず熱い涙がハラハラと溢れるのだ。でも、私はもう筆をとる事さえ出来なくなった……。