なかば剥がれ落ちた窓たちを縫うようにして吹き付ける風が、ごう、と耳元で鳴る。夜は寂しくてつめたい。ナマエは風呂上がりらしくいまだ湿り気を残した髪を抑えながら、人気の消えた大広間をぼうっと見つめた。昼間は仲間たちがまばらに談笑する大広間は、今は月明かりと一所に固まった揺れる小さな蝋燭と、ルイの机に置かれたランプがわずかに光るばかりである。吸血鬼らしくその暗さにも急速に目が順応する中で、ナマエは薄暗い大広間の奥、テラスにぽつんと佇む人影にそっと目を細めた。彼がまだ起きていることは、想定の範疇ではある。声をかけることは、少し躊躇った。
 ナマエは無意識のうちに細く吐息を零しながら、靴音を殺してゆっくりと彼に近づいていく。テラスの手摺りに体重を預けたその細身の身体が、わずかな明かりと呼吸をするような赤い霧の明滅を逆光にして浮かび上がっている。最近はお互いに探索ばかりに精を出しているから、普段は身につけている武装も兼ねたベストやポーチを外した姿は久しぶりに見るもので、だからこそナマエはどこか違和感を覚えた。傲慢で不自然な考えだな、とナマエは思う。ただ、そう思ったことも事実だった。
 するり、と滑り込むように隣に立てば、彼――ルイは驚いたようにぱちり、と瞬きを繰り返した。それからほっとしたように小さく眦を緩めて、凭れていた身体をゆっくりと起こす。ルイはべつに表情に乏しいわけではないが、こういうとき、ナマエはなんとなくさみしいな、と思う。彼は言葉もなくナマエを先導すると、テラスの手前に置かれた椅子に腰かけた。ナマエも続く。ルイの手元で、折り目のついた一枚の紙が擦れて音を立てた。ナマエの指先はもうわずかに悴んでいる。
「眠らなくていいのか」
 ルイはそう言って、わずかに目を細めた。ルイこそ、とナマエは復唱する。俺ももうすぐ寝る、と返したルイは、しかしまだ眠る気がないのだろう。ナマエが拠点を初めて訪れた時にはもうすでにルイの書斎と化していたあの机で、ランプはなおもじりじりと輝いている。おそらく、あくまで研究の息抜きのつもりなのだろう。吸血鬼はその生命活動に必要とする睡眠は幾分か少ないとはいえ、ナマエの仲間たちはある程度夜も深まれば眠りにつく。ココなどは特にそうだ。ナマエはルイへの返答に迷って、夜風に当たるのは身体によくない、とだけ零した。
「お前もな」
 ナマエの言葉を聞いたルイは、くすりと笑いながらそう呟く。その表情は、なんとなく好きだ。しばらく会話が途切れ、ルイは手元の紙に視線を戻した。テーブルで捲れたささくれを避けて広げられた紙は、裏表ともにくすみのない正方形の白紙である。あれ、とナマエは不思議に思う。さして大判ではないから地図などの類いではないとはいえ、メモか何かかと思っていたナマエは、やや拍子抜けしたように首を傾げた。
 ルイはナマエの不思議そうな視線に気が付いたのか、微笑を浮かべながらその折り目に沿って紙を折り畳んでいった。その細くも無骨な指が滑るように動いて、その白い紙がゆっくりと姿を変える。時にこまごまとして複雑に見えるその手順に、ルイはどこか馴染みのようなものを持っているらしい。石榴石のように透き通るその片目は、懐かしさのような複雑な何かを湛えて揺れている。姉さんが、という掠れた声は、わずかに白む吐息の中に消えていく。気付けば、わずかな時間でルイの手の中で立体的な三角形の物体ができあがっていた。
「これは紙飛行機といって、折り紙の一種だ」
 折り紙。紙飛行機。聞き慣れない言葉を、ナマエは何度か繰り返し呟いた。飛行機は知っている。欠落している記憶の中でもまだ薄らと覚えはあるし、ルイやミア、ココたちが大崩壊の前の日常について話す中で話に上がっていた気もする。ただ飛行機が薄い紙だけでできているとは聞いたことがなかったし、なにより折り紙という言葉に覚えはなかった。
 首を傾げたままのナマエにルイは瞬きをして、それから紙を折ってものを作る遊びだ、とだけ口にした。そっか、と相槌を打つ。あの聖堂の血英を回収したとはいえ、未だナマエの記憶に穴は多い。自身の記憶の欠落が激しいからこそ折り紙について何も知らないのか、それとももっと深い断絶がルイと自分の前に横たわっているのか、ナマエにははっきりとはわからなかった。
 ルイは浅く腰かけた椅子から立ち上がってその紙飛行機を手に取ると、まるで何かを投げるようにゆっくりと腕を上げる。その背を押すように吹いた風に乗せて、ルイの手から離れた紙飛行機がふわりと宙を舞った。暗く沈んだ夜と合間に瞬く星を繋ぎ止めるように、「飛行機」の名を冠するそれはゆっくりと空を滑っていく。思わず歓声を零したナマエに、ルイは嬉しそうにそっと笑った。
「……寝るか」
 しばらくしてぽつりと零れた言葉は、ひどく寂しげでつめたかった。ナマエはこくりと頷く。ルイが足早にランプを消してしまえば、大広間は途端に温かみを失って暗がりに戻った。暗くはっきりとしない視界の中で、彼の姿は光を失って溶けていく。やがて彼の姿が見えなくなってから、寝室の入り口で小さく呼ぶ声が聞こえた。はあい、と潜めた声で返事をする。仲間たちの眠りを妨げるのは本意ではない。
 立ち上がって、ふと後ろ髪を引かれたように振り返った。ヴェインの空は暗く、その裾野は赤い霧に混じっている。ほんの少し前に飛び去っていった紙飛行機は、もう姿も見えない。
 ――願わくば、あの霧の向こうに辿り着けていればいいと。そんなことを、ぼんやりと考えた。
いびつな日々のまま今日も眠った

友人とのワンライで書いたやつです。コドヴェはいいぞ。
title:エナメル