ナマエが桶に入った水に手を触れると、それは冬の北陸の気風を厭というほど感じさせた。ぴりりと冷え切った水に浸された手拭いを掬い上げてぐしぐしと顔を拭うと、すこしだけ気分が晴れたように思う。眠りの置き土産として、考えのなかにはいまでも濃い霧が立ち込めていた。襖の先の先からはとん、という規則的な音がかすかに聞こえた。上杉は尚武の気風の強い家である。そのために家臣たちはみなどんなときであろうと武芸に励み、たとえば友人である兼続などはことさらその気が強かった。朝餉の席で今日はどれだけ的に矢を射ることができたのかと尋ねてみよう、とナマエは思う。常日頃はある種快活とした、悪しざまに評するのであれば喧しいようなところのある兼続は、武芸に対して非常に真摯で静謐な部分を見せる。侍女を呼びつけて着物の帯を結びながら、ナマエはずうっと彼のことばかり考えていた。
淑やかさとしなやかな軸の強さ、それが上杉の家に広がる女性としての強さだった。ここの女性はみな妬心を抱くことはないと言い張ってしまうことは誇張表現ともいえるが、すくなくともナマエを育てた綾御前はすこしだけ意地悪い部分はあれど、ひろく母のような人物で、すらりとした風貌で先代当主上杉謙信の傍にあった。綾御前がこの家を包んでいる限りは、陰湿なことはないような風通しの良い場所になるだろうとナマエは思っている。綾御前がナマエを拾ったのは随分と前のことになるように思われるが、それからひとつもせこせこしたみみっちい悪意に晒されたことはない。上杉のひとがすべて良いと断定することはできなかったが、ナマエは上杉の気風を髄にまで刻み込まれていたから、この場所はひどく心地よいものに思えた。
「義母上」
綾御前の自室に足を運ぶと、彼女は自室で書を読んでいた。夜の色をした艶のある髪がはらりと床に届かんと広がっている。こういうときナマエはその髪を椿の油を通した櫛で何度か梳いて、それから彼女の髪が痛むことがないようにゆっくりと束ねることが役割だった。綾御前はナマエが髪を梳いているあいだだけは書を読む手を止めて、その長い睫毛の幕を下ろしてなにかの思い入れに浸っていた。おそらくは景虎のことを思い返しているのだろうと考えて、ナマエはきゅっと唇を噛んだ。ナマエにとって景虎は義理の弟とも、顔も知らないような他人とも言える。彼はいつまでも綾御前や主君である景勝のこころに巣くって離れないのだろうと思うと、ほんとうは湧きあがらないはずのちいさな嫉妬が顔を覗かせた。あれはひどい男だ。
「ごきげんよう、ナマエ。朝餉の支度はできていますよ。それとも、母よりも武芸ですか?」
「っ、義母上!」
「ふふ、構いませんよ。あなたの武は、この上杉の誇りです。いってらっしゃい。いまなら弓道場に兼続がいるでしょうね」
「……知っています。弓を引く音が、しました」
「そうですか。ナマエは母よりずうっと兼続とこころを通わせているようですね」
「私自身、どうしてあの男と近しくなったのかはわかりません」
「釣れないことを言うのですね」
「御前の前ですから」
こういうとき、綾御前は途端に意地悪になる。家中のだれかがナマエのことをかの孫呉の姫になぞらえて弓腰姫と呼ぶこともあったから、御前はそれをたいへんに面白く思っているようだった。上杉の家に色恋話のかけらはあまり見受けられないけれど、こういうときにやはり御前もこの家の母である前にひとりの女性であるのだと感じることが多いのだ。女性の悪癖ともいえるようなこれを、自分が持ち合わせているのかと問われればすこしだけ疑問の残るところだった。御前はナマエの頬にひとつだけ口付けを落とすと、艶やかな花のような笑顔を浮かべてナマエを送り出した。御前がナマエやかつての景虎に意地悪をするとき、それは決まって彼女の気分が上向きであることをあらわす指針のようなものでもあるから、ナマエも景虎もすこしだけ小言を付けるくらいでそれを許容することが当たり前になっていた。御前が嬉しそうだと、ナマエの胸中もすこしだけ弾んだ。
館の廊下をひたひたと歩くことは、ナマエはなぜだか上杉の家に受け入れられて融け込めているような気分がして好きだった。上杉という場所がナマエは好きだったから、なによりこの家の歯車に、駒になろうとした。すれ違う侍たちはみな刀を携えて玉のような汗をかいていて、ぱっと華やぐ彼らの面立ちはなによりも尊ぶべきものだったのだ。何人かの精強な男たちはすれ違いざまにナマエに手合わせの口約束を取り付けるものだから、書きつけもないのにと苦笑して、彼らに覚えているようにしっかりと言い含める。気安さがあるわけではないけれど、それは一種の信頼関係を飛び越したなにかを覚えるものだった。ナマエはそれがひどく心地よいものだから、彼らにもつい甘くなってしまって、伝承に残るような剣豪のように手合わせの約束をしたひとを切って捨てるようなことにもなってしまっていた。
弓道場に近づくにつれて、自室からかすかに聞こえていたきりりとした弦の音がより一層の実感を伴ってナマエの耳を打ち付けた。ナマエの目が覚めたときからこれまでずうっと途切れることなく続いたその音は、常日頃であれば喧騒を生むきっかけになりかねない兼続のひとつの本質のようにも感じる。弓を引くための服装を身に着けて無遠慮に弓道場に足を踏み入れると、ちょうど兼続が的を射たところだった。兼続はナマエの顔を一目見るだけできゅっと目尻を柔らかくして常の明朗な様子をあらわにしたが、ナマエが何も言わずにそばに立って弦を引いてみれば、兼続はくすくすと笑って床に腰を下ろした。軽やかでありながらも鈍重な力強さをはらんだ矢が冬を割いて破り捨ててしまうように的に飛び込むと、兼続はぱっと笑って手を叩いた。
「いつ見てもお前の武には躊躇いがないな、ナマエ!」
こうなると兼続が日頃の騒々しさを取り戻してしまうことをナマエは知っていたから、ひとつちいさく溜息を吐いて、兼続に弓と矢を持たせた。兼続もナマエの意図を読み取ったように上機嫌な笑顔を浮かべると、ナマエと肩を並べるようにして弓を引く。閉口した兼続が目を伏せて的だけをじいっと見つめるさまがひそやかななにがしかの宝物のようにも感じられて、ナマエは自らに呆れたように短い息を吐き出した。お互い弓が軌道に乗ったような感覚を掴んだ頃には、わずかに取り留めのない言葉を交わすこともあった。弓道場は広大な静穏ですっぽりと覆われている。兼続はたしかに騒がしく喧然としたさまを崩さない人物ではあったが、それは彼のほんの一面というだけで、なにかに没入したときにはずいぶん物静かになる部分もあるのだった。
兼続にもナマエにも、たくさん考えなければならないことも、選ばなければならないこともあった。景虎のことはいまだに上杉の家に鮮烈な血を残しているに違いなくて、だからこそ、この凪いだ時間がなによりも惜しいものだった。
「御前が、どうして私たちが近しくなったのかと」
「それはわからないな」
とん。
「わからないでしょう?」
「ああ。だが、私はナマエと共にあることは自然なことだと思っているぞ」
とん。
「歯の浮くようなことを」
「私はこうしてナマエと共に弓を射る時間がないと、一日がはじまったような気分がしないのだ。これは十分自然なことだろう?」
とん。
「……そうだな」
「そうだろう?」
とん。
「……ほんとうに憎たらしいやつ」
そこまで言うと、兼続はすでに矢筒に残った最後の矢を撃ち込み終えていた。的から矢を外しに行くために下駄を履いた彼のからんころんという足音がナマエの耳に届いて、それはナマエを十分に安心させた。このときにナマエの手元が狂ってしまえば兼続を射抜いてしまうことにもなりかねないはずなのに、躊躇する素振りも見せずに的まで下りていった彼の全幅の信頼というものを風が運ぶように知って、ナマエはかあっと頬に血が集まるような気分になる。ナマエが矢のひと束を使い切って息をついたときに、不意にわっと騒ぎ立てる声がした。きゅっと戒めていた目の鋭さを解いてそちらへと視線を向ければ、兼続が満面の笑みで招くような身振りをしていた。矢を取りに行くついでだと自分に言い聞かせて兼続のもとへ向かえば、彼は弓道場の隅のちいさな草叢をじいっと見つめている。覗き込むようにナマエも腰を落としてみれば、そこにはまだ蕾にもならないような蒲公英が懸命にその身体を起こしていた。見ろナマエ!とそのわずかな発見を大事のように喧伝する兼続に肩の力が抜けたようにかすかな笑みを返して、それから兼続の表情盗み見る。
――太陽のようだと思った。わたしたちに燦々と降り注ぐ、ひかり。温もりを与える無二のもの。たくさんのことに思い当たったナマエはばっと顔を伏せて手で覆ってしまったから、突然そんな行動をしたナマエのことを当然兼続は訝しんで、なにか悲しいことがあったのかとおずおずと切り出した。ちがう、とナマエはちいさく返答した。兼続の顔は見えない。しばらくして、そうか、という単純な返答の言葉がナマエに届いた。そうして彼のしなやかさと無骨さを兼ね備えたしろい手が、ナマエの髪をゆっくりと撫でた。ナマエは顔を伏せたまま、ほんとうにずるくて憎らしいやつ、と心中で吐き捨てる。兼続はなおも顔を上げないナマエのことをぐずぐずに甘やかすように撫でつづけていて、それはナマエが彼のことをかつて兄のように思っていたことを見透かされたような気分がしてすこしだけ腹の居所が悪かったけれど、それでも振り払いたいとは思わなかった。
「……ナマエ、私は以前景勝さまからこう言われたことがあるのだ」
比翼の鳥、と。
あなたという形の石
すごく夢女子。綾様との関わり方も含めて、自分の趣味が出ている話だと思います。
title:エナメル