温かみのある木製の扉を押し開ければ、からん、というドアベルの音がナマエを出迎えた。夜のうちは内側から溢れるランプの明かりで淡く輝く扉のステンドグラスは、バーとは不釣り合いな朝日によっていっそ神聖な風にきらきらと光っている。バーは地下だ。もぐり酒場、という言葉の意味を体現しているようなバーに、スコットがはしゃいでいたことを思い出す。手摺りをそっと撫でて階段を降りるナマエは、知らずのうちにため息を吐く。彼女の目当ては、助手業務を頼んだくせに一向に顔を出さないフェージャことフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの確保だった。
 帝国図書館の敷地の一角に併設されたバーは基本的には二十四時間開かれているが、二十四時間好きに酒を持ち出して酒盛りに耽ることが許される場所というわけではない。特に職務を放り出して酒に浸るなど言語道断だ――、と思いつつも、その実正直なところ、ナマエもそれに関してはある程度諦めている部分もあった。何せ司書室で酒を飲む輩もいるのだ。収拾がつくわけがない。豆腐に鎹であることを自覚しながらも、ナマエはフョードルを探してバーを訪れていた。
「フョードル、っ」
 低くなった天井を潜ってバーに顔を出せば、案の定フョードルの姿はそこにあった。ナマエは呆れたように呼びかけようとして、しかしその途中で言葉を詰まらせる。フョードルの背に隠れた奥に、人影があったのだ。その光景に目を見張るナマエに顔を顰めて、フョードルは手招きをした。ナマエはひとつ頷いて彼の傍へと近づくと、声量を落として彼に声をかける。ばつの悪い表情をするフョードルを揶揄ってみたい気持ちもあったが、それ以上にその光景はナマエにとっても意外だった。
「……レフって、酒、飲まないですよね?」
「普段は飲まねえ。ただ、昨日は水と間違えたらしい」
 カウンター席に座るフョードルの奥で、カウンターに頬ずりをするようにレーニャ――レフ・ニコラエヴィチ・トルストイが眠っていた。彼の手はフョードルを引き留めるように力なくその袖を掴んでいて、フョードルが助手業務を放り出していたのはそのせいか、とナマエは頷く。フョードル曰く、酒をしこたま飲んで寝て起きたらこうなっていた、らしい。レフは一向に目を覚まさないし、フョードルも眠った後の記憶はないから、なぜこうなっているのかは誰にもわからなかった。
 ナマエは物珍しさに駆られて、眠るレフの顔をじっと眺める。感情をいっぱいに乗せて瞬く翡翠色の瞳は瞼の下に閉ざされて、きりりとした印象を与える私服に合わせて高い位置で結ばれた髪がさらりと流れて揺れている。突っ伏した頭の下敷きになった腕に触れれば、その指はひやりとするほどにつめたかった。眠るあどけない顔立ちに反して赤らんだ頬だけが大人びていて、そのアンバランスさがまた様々な感情を掻き立ててやまない。
 レフは明るい人だ。人当たりがよく、優しくて、そのくせくるくると変る表情は愛らしい。時折落ち着いた風に浮かべる微笑はきれいで、それでもレフはいつだって凛々しかった。だから、――。眠るレフの指にそっと自身の指を絡めながら、ナマエは思わずぽろりと言葉を零した。
「かわいい……」
 その言葉にフョードルはありえないものを見たようにぎょっとして、それから小さく舌打ちをした。そんなフョードルの反応にナマエはくすくすと笑う。仕事にはまだ来なくていいですよ、とでも言ってやろうか。バーは間延びしたような温かい静寂に包まれている。次第に昇ってきた日差しが、ステンドグラスを通して様々な色を乗せてバーに差し込んでいた。もう、昼も近い。
あいまいな休暇

友人とのワンライで書いたやつです。レーニャのことを地の文でレフと呼ぶべきかトルストイと呼ぶべきかずっと迷っている。
title:Ise(わたし)